第29話 三つのお椀の「味見」
三つのお椀は、テーブルの上で静かに湯気を立てていた。
店の前にできた人垣は、咳ひとつ聞こえないほど静まり返っている。
私はエプロンの紐を一度解いてから、再び結び直す。
断るという選択肢は、最初から存在しないのだ。ならば、迷っている暇などない。
チラリと隅の席にいるジェラルド様を見やるが、彼は今も置物に徹している。今回の件では対策室が口を出すことはできないので仕方がない。すでに三杯目となる煮込みも、とっくに空になっていた。
「――もちろん、お受けしますとも。ただし副支部長様、何度も申し上げているとおり、私がするのはあくまでただの味見です。味を見て、わかったことを正直にお答えするだけですので」
「それで結構。では――どうぞ、店主殿」
私は、スプーンを手に取った。
まずは、澄んだ琥珀色のお椀へ手を伸ばす。
最初に湯気を嗅ぎ、それからひと匙、スープを舌の上に載せる。
この出汁は――鶏だ。それも、いい鶏を使っている。根菜と一緒に丁寧に煮込み、浮いた濁りもきれいに取り除いてある。塩は控えめで、あとから香草の風味が追いかけてくる。体の芯からじんわり温まっていく味だった。
「おいしい」
思わず、そのまま声に出てしまった。
「鶏と根菜の澄んだスープです。下ごしらえも丁寧で、火加減も文句なし。――参りました。いい仕事をされてますね」
「負けてどうすんだ、嬢ちゃん!?」
ガストンさんの悲鳴で、人垣から少し笑いが漏れた。
でも、仕方がないじゃない。舌に嘘をついてしまったら、それこそ料理人失格なのだから。
さて、お次はこちらの、白く濁ったお椀だ。
湯気に、青臭い苦味が混じっている。胸が、ドクン、と大きく鳴った。
ひと匙だけ舌先に載せ、すぐには飲み込まない。
しっかり味わえば、使われている薬草までわかるかもしれない。けれど、今日はそこまで確かめることはしない。今の私がすべきなのは、あくまで料理人としての味見なのだ。
「……これは、料理ではありませんね」
「ほう、それはどういうことかね?」
「問題なく飲める程度に薄めてはありますが、苦味を和らげる工夫がほとんどありません。おいしく食べてもらうために作ったものではない。薬湯のようなものだと思います。うちの献立にはとても載せられませんね」
「薬湯、と来たか」
杖の先が、コツ、と床を打つ。
「であれば、このスープはなんらかの薬草から作られたということになるな。いったい何の薬草かね? あなたの舌なら、わかるのだろう?」
「それを調べるのは薬師のお仕事かと。私の口から申し上げられるのは、あくまでお客さんにお出しできる料理であるか、そうでないか――それだけです」
「毒なのか、そうではないのか。それすら言えぬと?」
「うちの店の料理ではないものについて、料理人の私がそれ以上のことを調べる理由などないと思いますが」
ドマールが目を細めると、その視線が、私のスプーンへと落ちてくる。
舌先だけの、浅い味見。私はあえて、それ以上を確かめようとはしなかった。何も調べていない以上、私の口から診断の言葉など引き出せるはずもない。
杖の頭を撫でていたドマールの指が、ピタリと止まる。
私は気にせずに、残りの最後のお椀を引き寄せた。
中のスープは、墨を薄めたような、妙な色をしている。
嫌な色だけれど、毒らしい気配は感じられない。代わりに漂ってくるのは、時間の経った脂の匂いだった。
ひと匙、口に含む。
「……出汁が、だいぶ傷んでいますね」
「ほう?」
「火を止めるのが早かったのか、十分に旨味が出ていません。そのうえ時間が経って、脂の匂いまで悪くなっています。温め直しても、これはもう元には戻りません。――こんなものをお客さんにお出しするくらいなら、私は店を閉めます」
「傷んでいる、と判断したな。店主殿、その行為は品質の鑑定に該当するのではないかね?」
「料理人なら、傷んだものをお客に出さないために、毎日味見をします。それも鑑定と見なされるのですか?」
私はスプーンをそっと置いた。三つのお椀から立つ湯気は、もうすっかり細くなっている。
「――以上が、私の味見の結果です。おいしいか、そしてお客に出せるか。お答えできるのはそれだけです。申し上げたはずですよ、副支部長様。料理人から味見を取り上げたら、王都の食堂はすべて潰れてしまいます」
短い沈黙のあと、人垣から歓声が上がった。
「よっしゃあ――!」
またしてもトマさんの大きな声。だからあなたは観客じゃなくて立会人なんですけど……。
もっとも、周りも似たようなものだった。マルタさんは半泣きで笑いながら手を叩き、ブノワさんは人垣の中で両手を高らかに上げている。ピノも興奮のあまり、帳簿を胸に抱きながら鼻の穴を膨らませていた。
「あら、当然の結果じゃない。なんてったって、このわたくしの習い事仲間なんですもの」
コンスタンス様だけがフードの陰で、澄ました顔をしている。
――ただ、一方でドマールは、顔色ひとつ変えていなかった。
彼は白い手袋の指で杖の頭を、何も言わずにゆっくり一度だけ撫でた。
セヴランが進み出て、帳面を開く。
「ただいまの店主の発言には、診断行為に該当する言葉はありませんでした。料理の材料や状態を味で確かめる行為は、料理人が行う味見の範疇を外れるものではありません。よって、値付け、帳簿、衛生管理――いずれも問題なしと判断します」
抑揚のない声が、大市の喧騒よりもよく通った。
「――営業実態は、通常の食堂となんら変わらないと認めます」
「……セヴラン。お前の判断は、少々情に引っ張られるきらいがあるようだな」
「心外ですね。私は事実に基づいて判断したまでです」
帳面を閉じる乾いた音が、店内に響き渡る。
ドマールは杖を床に突き直し、私へと向き直った。
「下町に貴族街に騎士団に……そして薬事ギルドまでも……店主殿よ、あなたにはずいぶんと味方が多いようだな。だが、この先も名が広まっていけば、それだけその名を疑う者も増えることだろう。――次も同じように切り抜けられるとは思わぬことだ」
「切り抜けたつもりはありません。次もまた、包み隠さずありのままをご覧いただくだけです。それに――」
竈では、いつもの兎と香草の煮込みが、コトコトと湯気を上げている。
「味見だけは、誰にも負けるつもりはありません。なんといってもうちは――毒消しの食堂なので」
そのとき、隅の席から空のお椀が、スッと押し出された。
「だんな、ついにお代わり四杯目か!」
ピノの声で、人垣がまた沸いた。
今回の件では、確かにあの人に直接できることは何もなかったのかもしれない。でも、いつもと変わらず、私の作った料理を、朝から黙っていつもどおり食べ続けてくれていた。それがどれほど私の心の支えになっていたか――たぶん、本人もわかっていないんだろうなと思う。
ドマールはお供の者に木箱を片づけさせ、戸口で外套の紋を直した。
そして去り際、誰に向けるでもなく、独り言のように言った。
「……アメリーも、そうやって多くの味方に支えられながら、店を続けていたよ」
私が振り向いたときには、もうこちらに背を向けていた。
そして薬杖の紋は、そのまま大市の雑踏に呑まれて消えていく。
……彼は、祖母を知っている。それに、あの口ぶりはどう考えても、書類で名前を見知っただけの人の距離感ではなかった。
スプーンを握ったままの掌に、さっきまでとは違う汗が滲んだ。




