第28話 逃げ道のない問い
大市の日の橙通りは、朝から祭りのような賑わいだった。
呼び売りの声、荷車の軋み、焼きたてのパンの匂い。マルタさんの屋台は開店前から行列で、その最後尾が、そのままうちの店の前の人垣につながっていた。
人垣の中には、『よろけ燕』のブノワさんの顔まで並んでいる。彼は使い込んだ飴色の酒瓶を抱えて、「景気づけの水だ」と店先に置いていってしまった。
店内の立会人用の席には、桶屋の老主人と、給仕係を却下されて膨れているトマさん――それから、なぜかフードを深めに被ったコンスタンス様が座っていた。いくら変装していても、こう頻繁に顔を出していたらそろそろバレてしまうんじゃないかと心配になる。
「口添えは断られてしまいましたからね。せめて習い事仲間のひとりとして、列席させてちょうだい」
やがて、店の前の人垣が左右に割れていく。
開かれた道を堂々と歩いてきたのは、薬杖の紋を肩につけたふたりの男性。ひとりはセヴラン。もうひとりは、白髪をきっちりと撫でつけた、五十代半ばほどの男だった。手にした杖の頭にも、薬杖がしっかり彫られている。
「薬事ギルド王都支部・副支部長、ドマール」
男の名乗りは短く、口調は丁寧だった。
「本日は、王国の規則に照らして貴店の査察を執り行わせていただく」
「『食堂アメリー』店主のリゼットです。どうぞ、厨房から帳簿まで、隅から隅までご覧くださいませ」
◇◇◇
ドマールは店に入るなり、白い手袋をはめた。
樽の栓、鍋の縁、包丁の柄、まな板の端。食材棚は籠ごと調べられ、香辛料の壺もひとつずつ蓋を開けられた。日向草の壺をのぞき見たところで、手袋をした指が止まる。
「これは?」
「日向草です。体を温める香草で、市場の乾物屋でも買える、ごく普通の食材です」
「日向草は、薬草として扱う者もいるが」
「うちでは香草として煮ているだけです。煮込みの匂いを確かめていただければ」
竈では今日も、兎と香草の煮込みの鍋がふたつ、コトコトと煮えていた。骨から出た濃い出汁に、日向草の青い香りが立つ。厳めしい白手袋も、この湯気の前では少しだけ場違いに見えた。
ドマールは鍋の中をしばらくのぞき、やがて蓋を戻した。
――今、蓋を閉じるのが惜しそうに見えたような……。
そこへ横から、セヴランが抑揚のない声で補足する。
「店主の言うとおり、市場で普通に売られている品です。薬事規則の指定薬草ではありませんので、香草として使う分には問題ないかと」
「……ふむ」
査察が進む中、店の隅の席では、平服の大男が黙々と煮込みを食べていた。湯気の向こうの査察など気にも留めない、見事な置物ぶりだ。
さすがに目立つので、ドマールの視線も自然とそちらへ向く。
「……あれは?」
「この店の常連のようです」
セヴランの答えに、嘘はひとつもない。大男はドマールの視線を受け流し、空になったお椀を静かに押し出した。お代わりの合図だ。査察の真っ最中だろうがお構いなしに、いつもどおりごはんを食べる――それが今日の、あの人の務めだった。
「……では次に、帳簿を見せてもらおうか」
「へい!」
ピノが胸を張り、帳簿を両手で差し出した。
ドマールは眉ひとつ動かさずにページをめくっていく。仕入れ、売上、控えとの照らし合わせ。淀みなく進んでいたその速さが、途中から目に見えて落ちていった。
そして、ある箇所で、手が止まる。
「――『頂き物、蜂蜜一壺』……出どころは、エルミール伯爵家」
店の空気が、スッと冷え込んだ気がした。
査察の報せが届いたあとに、貴族から贈られた蜂蜜。そう聞くと、正直怪しさでいっぱいである。帳簿を渡したピノの手が、わかりやすく強張った。
「も、もらった蜂蜜の値段がいくらくらいになるかも、どの料理に使ったかも、ぜんぶ書いてあるよ!」
「頂き物も帳簿に載せるのが、うちの決まりです。査察が決まってからではなく、店を開けた日からずっと、そうしてしっかり管理しておりますので」
ドマールは二ページほど戻って記録を確かめ、何も言わず先へ進んでくれた。……見ているだけで寿命が縮む思いだった。
「――この帳簿は、誰がつけている?」
「おれです。姉ちゃんに任されてます」
「……ずいぶんと若いようだが、歳はいくつだ?」
「十歳です!」
瞬間、店の前の人垣がどっと沸いた。
ドマールは小さく咳払いをして、帳簿を閉じる。
「帳簿に問題はないようだな」
「よっしゃあ!」
大声を上げたのは、トマさんだった。あなたは立会人なんだから静かにしていてください……。
ドマールは、閉じた帳簿に手を置いたまま続けた。
「売上は、どの行も一皿につき銅貨二十枚。伯爵家への出前も、病人へ届けた粥も一律――『毒消し』の看板で商いをしているのなら、鑑定料の請求くらいはあるものと思っていたが」
ここは、はっきり言っておかなければ――私は帳簿を指差して言った。
「誰に食事を届けようと、私がその人の体調について何か気づこうと、うちが受け取るのは料理の代金だけです。開店してからの記録は、すべてそのように一貫しています」
「なるほど。――だが店主殿、金を取っていなければ薬事行為に当たらない、というわけにはいかんのだよ」
杖の先が、床を小さく打った。店の空気が一気に張りつめる。
「店主殿は先ほど言ったな――その人の体調について何か気づこうと、と。では、これまで客の体調について気づいてきた『何か』の話を、聞かせてもらおうか」
――この人……書類だけを扱ってきた並の役人とは、わけが違う。
壺の開け方、匂いの確かめ方、粉を指先で取る量――どれも長く薬を扱ってきた者の手つきだ。セヴランと同じで、知識も経験も本物なのだ。
「あなたは客のお椀やスプーンから、毒や呪いの兆しを『読む』そうだな。味の中に何が混ざっているかを言い当て、時には病人向けの粥まで勧めている。それはまさに診断行為そのものではないかと思うのだが、いかがかね?」
ドマールの声は、穏やかなままだった。
「病を診断することは、免状を持つ薬師にしか認められていない。無許可で行えば、薬事規則に抵触する」
人垣が、一気に静まり返る。
ガストンさんが拳を握りかけ、隣のマルタさんに肘で止められるのが、視界の隅にチラリと見えた。
「副支部長様。お言葉ですが、私がしているのは、ただの味見です」
「ほう、味見とな」
「料理人にとって味見は欠かせません。出汁がおかしければ作り直し、傷んだ材料なら捨てる。私の舌は、人より少し細かな違いまでわかるというだけです。――料理人が味見を禁じられたら、王都中の食堂が潰れてしまうと思いますが」
ドマールの口元が、初めて大きく動いた。
――笑っている。それも、酷薄な笑みだった。
「店主殿なら、そう答えると思ったよ」
杖が上がって戸口を指すと、ギルドの下働きらしいお供がふたりがかりで、平たい木箱を運び込んできた。
テーブルの上に置かれた箱を、ドマールが自ら開ける。
中には、湯気を立てるお椀が三つ並んでいた。ひとつは澄んだ琥珀色、ひとつは白く濁り、最後のひとつは墨を薄めたような妙な色をしている。
「ならば、その『味見』とやらを、この場で拝見しよう。中身は私が今朝、自分で用意した。冷めないよう、表の竈で温め直させてある。――ああ、もちろん、断っても構わんよ」
先回りするように、ドマールは続けた。
「ただし、その場合はこれまでの行為――偽の薬を皆の前で調べ上げたことも、酒場の器を調べて買い替えさせたことも、病人向けの粥を勧めたことも、『無許可の診断だった可能性あり』として記録に残す。さあ店主殿、『味見』と『診断』が違うというなら、今ここで示してもらおうか。言い当てれば当然それは診断行為と見なされ、逆に外せばこれまでの行為はすべて――詐称ということになるわけだ」
三つのお椀が、静かに湯気を上げている。
逃げ道のない問い。最初から、これが狙いだったのだ。
掌に、じわりと汗が滲んだ。




