第27話 あなたの「うまい」を引き出したくて
大市の日と査察が重なったという報せは、ひと晩で橙通りじゅうに広まった。
翌朝、うちの店先には、開店前から心配そうな顔が並んでいた。
「嬢ちゃん、なんなら大市のほうを延期させようぜ。組合の連中に貸しがあるから、どうとでもなるんだわ」
開口一番にそう言ったのは、ガストンさんだった。
「さすがにそれは他の方たちに悪いですよ。大丈夫、心配には及びません。お客さんが増えるのは、私にとっても純粋に喜ばしいことですし」
「肝が据わってるねえ。あたしゃ、当日は店の表に出てパンを売ることにしたよ。野次馬なんてしてたら腹が減るだろうからね。これを機にたくさん買ってもらわないと」
さすがはマルタさん、ちゃっかりしている。
けれど、マルタさんの狙いがそれだけでないことは、私にもわかる。表で野次馬の相手をしてくれることで、無理なく人の集まりを制御しようとしてくれているのだ。マルタさんのこういう何気ない気遣いには、本当に頭が上がらない。
◇◇◇
それからの一週間、店は確かに忙しかったものの、どこか嵐の前の静けさのような雰囲気に包まれていた。
ピノは帳簿の綴じ紐を何回も結び直したり、仕入れ台帳の写しまで作ったりとやけにせわしなかったし、常連さんたちは査察当日の立会人として何を話すか練習しては、互いに駄目出しをし合っていた。とりあえず常連さんたちには、腕組みをして査察官の前に立ちはだかるのはやめてください、と注意だけしておいた。
騒ぎのタネはそれだけに留まらず、ついにはトマさんまで店にやって来て、給仕の練習を始める始末だった。
「当日は俺に水を運ばせてくれ。なんたって眠り病から復活した生き証人が運ぶ水だぞ。なんかこう、すげーありがたみがあると思わないか?」
「うちの水はただの水なので結構です。証人さんは証言を求められるまで黙って座っていてください」
「なんだよ、お堅いなあ」
そしてマルタさんまでもが、店を覗いてくるなり、査察では何を見られるのかと聞いてきた。
「帳簿と、厨房と、あと店主である私の受け答えが適切かどうか、だそうです」
「受け答え、か。それなら心配ないね。リゼットちゃんの口はよくまわるから」
「……あまり褒められている気がしませんね」
そうこうしているうちにあっという間に査察前日の夜を迎え、店には、常連さんたちが勢揃いしていた。
「なあ、前から思ってたんだけどよ。旦那だけ毎度、『何でもいい』で通ってるのはズルくねえか?」
そんなことを言い出したのはガストンさんだった。
裏メニューの「何でもいい」は、いまや職人の皆さん方の流行り言葉と化しているけれど、元々は今も奥の席に鎮座しているその人――ジェラルド様の口癖のようなものだった。
「えっと……ズルい、とは?」
「いやいや、本気で言ってんのかい嬢ちゃん……まあいいや。それでこそ嬢ちゃんって感じだ。ま、明日は騒がしくなるんだ。今夜くらい、旦那に一等いいもんを食わせてやるんだな」
なんだかよくわからなかったけれど、ジェラルド様にいつもよりいいものを食べさせてあげる、というのは悪くない提案に思えた。
考えてみれば、私はあの人の「好き」をひとつも知らなかった。甘味はまだよく感じられず、お酒は付き合い程度。
じゃあ好きなものは何なのだと訊いたところで、返ってくる言葉は決まっている――何でもいい、だ。長く味を失っていたせいで、何が好きな味なのか、自分でもわかっていない……あるいは、忘れてしまっているのだろう。
だから今夜は、味だけに頼らない料理を作ってみようと思った。
温度、歯ごたえ、音、それから湯気の香り。舌だけでなく、耳も鼻も目も総動員して味わってもらうのだ。
厨房に立ち、川魚に香草入りの衣をまとわせて油へ落とす。じゅわ、と景気のいい音が立つ。隣の厚手の鍋では麦の粥がぐつぐつと煮え、底にはわざと薄く焼き目をつけてある。
できあがった料理を持って、まっすぐジェラルド様のもとへと向かう。
「お待たせしました。今日の『何でもいい』は、三品あります」
一品目は、揚げたての川魚。皿の上でもまだ、衣がジュワジュワと音を立てている。
ジェラルド様はその音を一拍聞いてから、魚を齧った。硬い衣がパリッと割れる音が、こちらの耳にまで届く。
「……とても心地いい音だ。これもうまいということなんだろうか……初めて知った」
「お気に召したようで何よりです」
続く二品目は、まず厚手の鍋の蓋を彼の目の前で開けるところから始まる。湯気が勢いよく立ちのぼり、その大男の顔が一瞬隠れて見えなくなった。スプーンで鍋底の焼けた麦を剥がすと、ガリ、と小気味いい手応えがある。
「……湯気を浴びただけで腹が減ってきた気がする」
「それは何より。湯気も料理のうちですからね」
畳み掛けるようにお出しした三品目は、熱い汁。厚手の陶器に入れ、冷めないうちに差し出した。
「これは……熱いな」
「はい。でも、熱いだけじゃないですよ?」
「だろうな」
澄ました顔をしているものの、スプーンを持つ彼の手は止まることなく料理を口へと運び続ける。鍋底の香ばしく焼けた麦まで、几帳面に剥がして食べていた。
「あなたの口から、もっといろんな『うまい』を引き出してみたくなったんです」
ジェラルド様の手が、ピタッと止まった。
「味だけじゃなくて、音も、香りも、湯気も。あなたがおいしいと思えるものを、もっと増やしたいんです。……欲張りな献立で、すみません」
「…………」
ジェラルド様はスプーンを置き、湯気の向こうで低く言った。
「俺は、今のままでも十分に贅沢をさせてもらっている」
言ってから、自分の言葉に驚いたような間があった。私も返す言葉を探し、手にしていた布を意味もなく握り直す。
そこへ、にやにやした顔のピノがそろりと忍び寄ってきて、ジェラルド様にぼそっと耳打ちをした。
「――だんな、耳まで赤くなってんぜ」
「これは……湯気のせいだ」
「鍋、もう空っぽだけど」
「……小僧は黙って帳簿でもつけていろ」
常連さんたちが、一斉に吹き出した。ガストンさんなんて満足そうに「ごちそうさん」とか言っていたけれど、あなたは今出した三品はひと口も食べていないでしょうに。
「ま、明日もその調子で頼むぜ、旦那。査察官の隣で黙って飯を食ってるだけでも、相手は相当やりづらくなるだろうよ」
「ふむ、置物でも役に立てるということだな。承知した」
◇◇◇
皆を送り出し、灯りをひとつだけ残した店で、私は最後の点検をした。
帳簿も、厨房も、樽も問題ない。床は膝をついて丁寧に磨いたので、汚れひとつ残っていない。
カウンターをそっと指先で撫でると、祖母が店を開いていた頃のなめらかさが、少し戻ってきたような気がした。
竈の火を落とす前に、明日の段取りを頭の中でもう一度確かめる。大市の日の客足なら煮込みは鍋ふたつ分は必要だろう。パンはマルタさんが店の表に出すという屋台から届くことになっている。野次馬の皆さんまで店に入ってきても困らないよう、予備のお椀もちゃんと磨いて準備してある。
明日、祖母から受け継いだこの店が、試されることになる。
「さあ、いつでも――いらっしゃいませ」
誰もいない店に向かって、ひとつだけ声を出してみた。
――我ながら、悪くない声だと思った。




