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第26話 セヴランの事前確認

 次の日の朝、夜明けとともに粥を取りに来たブノワさんは、それを三人のところへ届けたあと、店が開くなり最初のお客さんとして戻ってきた。


「昨夜は世話んなった。……その、なんだ。あんたの店の飯を、一度ちゃんと食っておこうと思ってな」


 兎と香草の煮込みをお出しすると、彼はあっという間に平らげてしまった。


 それから出汁の取り方を何度も聞かれ、そのたびに私は「企業秘密です」とだけ返した。


 私が一向に口を割ろうとしなかったため、ブノワさんはとうとう諦めて、お代の銅貨二十枚を一枚ずつ音を立ててテーブルに置いていった。


「嬢ちゃんの朝の粥だけどな、ちゃんと倒れた三人に持っていったよ。……俺ぁ、あんたの歳の頃にゃもう『よろけ燕』を切り盛りしてたんだ。長いこと店をやってるってのに、俺んとこの器を疑うことになるなんて、昨夜が初めてだったよ」


「そのおかげで、これ以上被害を増やさずに済みました」


「……そう言ってもらえると、俺も倒れたあいつらも救われるよ」


 手に痺れが出ていたという人も、今朝は痺れがいくらか和らいだそうだ。鉛はすぐに体から抜ける毒ではないから、これからもしばらくは粥を届けることになるだろう。ひとまず、これ以上の悪化は食い止められたようで、少しだけ安心した。


 ちなみにピノは約束どおり酒瓶を安く買い替えるというブノワさんからの相談に付き合い、昼前には毒の原因となっていた白い酒瓶二十本を引き取ってくれる先まで見つけてきてくれていた。本当、朝からよく働いてくれるピノには感謝するばかりである。


◇◇◇


 その日の昼下がり、いつもの兵糧粥の会が開かれた。


 トマさんのお母さんが大鍋の前に立ち、骨出汁の粥の塩加減を教える。寝たきりになっている例の六人の家族たちに、いつものお忍びのフードをかぶったコンスタンス様までもが加わり、どこまでも真剣に作り方を帳面に書き記していた。


 大鍋の中では、白く濁った骨出汁を吸った麦がふっくらと膨らみ、とろみのついた表面が、ふつり、ふつりと泡を立てている。湯気をかぐだけでお腹の音が鳴ってしまうくらい、とてもいい炊き上がりだった。


 そうして今日の分の粥もじきに完成というころになって――。


 肩に薬杖の紋をつけた者が、店の戸口にやってきた。


「騒ぐな。本日は、査察に先駆けた事前の確認だ」


 その者――セヴランはそれだけ告げると、店内の壁際まで移動した。


 騒ぐなと言われて下町のみんなが静かにできるわけもないのだけれど、今回は厨房の大鍋から立ち上る湯気のおかげで、皆の注意はすぐに粥へと戻っていった。


「では、確認させてもらおう。今この店では、料理を使って住民の病を治療しようとしているのではないか?」


「いえ、粥の作り方を教えているだけです」


「その粥とやらは、病人に食べさせるものだろう。病を治すための料理を謳う以上、それは薬事行為に該当すると見なされる」


「確かにうちの粥には、そういった効能も――」


 私が正直に答えを口にしかけたとき、厨房にいたトマさんのお母さんが、お玉を持ったまま振り返った。


「今教えてるのはあたしだよ。教えてるのは麦の炊き方と塩加減、それだけさ。査察官様は、母親が子のために作る粥にまで免状が要るって言うのかい?」


「そもそも料理を習うのに免状が要るのなら、刺繍にも免状が要る、ということになるわね?」


 コンスタンス様がフードの奥で澄ました顔を浮かべ、会話に割り込んでくる。幸い、セヴランは彼女が何者かまでは気づいていないようだった。


 セヴランは表情ひとつ変えずに帳面へ何かを書き留めてから、ちょうど炊き上がった粥を一杯、自分から所望し、匂いと中身を確かめてから口に運んだ。


「……確かに、粥の炊き方を教えているというだけであれば、何も問題はない」


「あ、今召し上がっていただいた粥のお代は結構です。これは見本として作ったもので、売り物ではございませんので」


「そういうわけにはいかん。見本であろうと、材料と手間はかかっているはずだ」


 テーブルに銅貨が二十枚、几帳面に積まれていく。粥一杯の値段としては明らかに多すぎるのだけれど、この人にとってこの店で出される食事は何でも銅貨二十枚分という認識なのだろうか。


 その後、セヴランは帰り際にもう一度大鍋を見やり、「……火加減の管理は悪くないようだ」と言い残してから、さっさと去っていった。


◇◇◇


 夕方になると、ジェラルド様が古い記録簿を抱えて店にやって来た。


「残念ながら名簿は破られていた。だが――半年にわたる聞き取り調査の記録までは消せなかったらしい」


 当時の記録を追いかけていくと、得られた証言の端々に、寝たきりから回復したという三人についての情報が残っていたのだという。


 その情報をもとに、役所に残る住民や税の記録と、教会の埋葬記録をひとつずつ照らし合わせた、とジェラルド様はいつもと変わらない表情で言うけれど……それらの記録とやらは気の遠くなるような膨大な量にのぼったはずだ。


「まずひとり目は荷運びの男。八年前に病で死んでいる。ふたり目は行商の女。連れ合いと十五年前に国境を越えて、それきり姿を見た者はいない」


「……三人目は?」


 ジェラルド様がページを一枚めくると、古い紙が乾いた音を立てた。顔つきこそいつもどおりだったけれど、その手つきは、今夜も少しだけ丁寧すぎるように見えた。


「女がひとり。当時、市場の近くに住んでいたらしい。名前の記録は欠けているが、住んでいた場所の情報が聞き取り調査の記録に残っていた。そこから記録を辿ってみたが、死亡した形跡も、街を出た記録もない」


「では、今もどこかに?」


「その可能性はある。手がかりがひとつだけ残されていたのだが――目覚めたあと、ひどく甘いものを欲しがった、と書いてあった」


 ――甘いもの、欲しがった。


 これまで寝たきりだった人が目を覚ますと、決まって強く欲しがっていた味だ。


 それからジェラルド様は思い出したように、ルヴェル商会の足取りが、川船を下りた先の南の街道で途切れたことを付け足した。「南の隣国――ザハルへ抜けたか」と小さく呟いただけで、それ以上は何も言わなかった。


 情報のお礼にと汁ものを出すと、ジェラルド様はひと匙口にしたところで手を止めた。


「……これは、生姜が入っているのか」


「当たりです。今夜は冷えるので、どうかなと思いまして。――ジェラルド様のために、少し多めに生姜を入れてみました。あ、これ、内緒ですよ」


「……どうりで、体の芯がざわつくわけだ」


 よかった。この味も、ちゃんと彼に届いたようだ。


 どうして届く味と届かない味があるのか、いまだにわからないけれど、今はそれでも構わない。


 こうして彼に味を楽しんでもらえたという事実が積み上がっていく――そのことが、私にはとてもかけがえのないものに思えた。


◇◇◇


 閉店間際、下町の広場の掲示板を見に行っていたピノが、慌てた様子で戻ってきた。


「姉ちゃん! 大変だ、例の査察の日なんだけどよ――どうも、大市の日とかぶってるみたいなんだ!」


「……あら」


「あらじゃねえよ! 大市の日にゃ、商人や露店が橙通りに大勢集まるんだぞ? そうなりゃ野次馬だっていつもの倍……いや三倍はこの店に押し寄せることにならぁ!」


 そばで聞き耳を立てていたマルタさんが、焼き上がったパンを抱えたまま遠い目をした。


「見せ物になるか、いい宣伝になるか。どっちにしても、確かにえらい人だかりになりそうだねえ」


「できれば静かに終わってほしいですけれど」


 お客さんが多いのはいいことのはず――そう思おうとはしたものの、さすがに少し、頬が引きつった。

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