第25話 『よろけ燕』の安酒
その安酒場は、市場の外れで傾いた看板を下げていた。彫られた燕が右に傾いているから、『よろけ燕』――安直だけれど、一度聞いたら忘れない名前なのは間違いない。
夜道を先に立って歩く親父さんは、道中ずっと謝りどおしだった。
――すまねえ、こんな時分に。
――すまねえ、うちみたいなぼろ屋のために。
まったく、謝る相手が違うでしょうに……と思いはしたけれど、口には出さなかった。本当は倒れた三人に誰より謝りたいのだろうということが、その丸まった背中から痛いほど伝わってきたからだ。
「親父さん、まずお伺いします。倒れた三人が飲んでいたのは、どのお酒ですか?」
「樽はひとつしかねえ。うちは安酒だけでやってる店なものでな。……そういや名乗ってなかったな。俺の名はブノワだ」
灯りの下で、ブノワさんは樽の栓に手をかけ、それから怯えたように私を見た。
「この樽が毒なら、俺は常連に毎晩……」
「決めつけるのはまだ早いです。まずは私の舌で確かめさせてください。今日はそのために来たのですから」
まず、樽から直接お酒を杯に受け、それから舌先にほんの一滴だけ載せる。
……なるほど、いかにも安いお酒という感じだ。荒くて、若々しくて、今にも喉で暴れ出しそうな味がする。
けれど――とてもまともな味だった。毒の苦味も、悪意の濁りも、呪いの冷たさも、何ひとつ感じられない。
「ふむ。樽のお酒は、問題なさそうですね」
「そ、そんな! じゃあ、いったい何が毒だってんだ!」
「……とりあえず、いつもお客さんに出しているとおりのやり方で、お酒を注いでみてください」
ブノワさんは言われるがまま、慣れた手つきで白い陶器の酒瓶にお酒を移してから、杯に注いだ。
私はもう一度、そのお酒を舌で確かめる。すると今度は舌の奥に、ごく薄い苦味が引っかかった。
「……ありました。先ほどは感じられなかった毒の味が」
「な……さっきのとまったく同じ酒だぞ!?」
「ええ。違うのは、樽から杯までの経路です」
私は、この店で使っている酒瓶を、空の状態にしてテーブルに並べてもらった。長く使い込んだ飴色の酒瓶がふたつに、真新しい白い酒瓶が六つ。白い酒瓶は棚の奥にまだ十四本あるというけれど、まずは手元の分からだ。
それぞれの瓶に先ほどのお酒を通し、ほんの一滴ずつ確かめては、そのたびに水で口をすすぐ。
古い酒瓶は、ふたつとも何もない。けれど白い酒瓶は、ひとつめも、ふたつめも――六つすべてから、薄い毒の味がした。
最後のひとつを確かめる頃には、口の中にかすかな痺れが残っていた。ごく薄くても、毒は毒だ。今夜はもう、これ以上舌を働かせないほうがいいかもしれない。
「この白い酒瓶は、いつから使っていますか?」
「ふた月前だ。市場で安売りしてた。二十本まとめて買って、古いのはそのふたつだけ残して入れ替えたんだ……」
倒れた三人は皆、毎晩のように『よろけ燕』に通う酒好きだという。彼らは半月ほど前から順に腹を下し、そのうちひとりは手に痺れまで出ているとのことだ。全員、食べたものは別々で、飲んだお酒だけが同じだったという。
頭の中で、祖母のノートの一節が浮かんだ。
「祖母が遺した覚え書きに、こうあります――『酒器と酢壺には、安物の白い釉薬を使うな』――これはおそらく、釉薬に含まれた鉛のことを言っているのだと思います。お酒を入れるたび、その鉛が少しずつ溶け出していったのでしょう」
「鉛……!? そ、そんなまさか……で、でも、あの三人以外にも同じように飲んだやつは大勢いるのに、そいつらは今でもピンピンしてるぞ?」
「一杯飲んだくらいでどうこうなるような毒ではありません。毎日飲み続けることで少しずつ体にたまっていき、それが一定の量を超えるとようやく症状となって表に出てくるのです。それこそ、倒れたという三人のように、毎晩口にしてたくさん体にため続けてようやく、という量です」
ブノワさんはしばらく黙って、それから首を横に振った。
「……今さら買い替えようにも、そんな金、うちにはねえ。だって、二十本だぞ?」
「では、このままこの白い酒瓶を使い続けますか?」
「そ、そうは言ってねえ! だがよ、酒瓶が毒だなんて知れたら、『よろけ燕』は終わりだ。もう誰も飲みに来なくなっちまう」
「それは逆ですよ」
私は白い酒瓶をひとつ、テーブルの真ん中に置いた。
「いいですか? 『お客に毒の酒瓶を出す店』ではなく、『お客のために、危なそうな器を全部買い替えた店』にするんです。このまま事実を隠し続けたところで、いずれ噂はどんどん広まって客足は遠のいていく。それに、また倒れる人が出ないとも限りません。そんな状態が続けばどうなるか――酒場を切り盛りするブノワさんなら、言われずともおわかりでしょう」
長い沈黙のあと、ブノワさんは音を立てて頭を掻いた。
「……替える。替えるよ。畜生、安物なんかに手を出したせいで」
「安いものがすべて悪いわけではありませんよ。現にもう一方の酒瓶は大丈夫でしたから。ブノワさんは、ああいうものを選べる目をお持ちなんですね」
新しい器を安く揃えたいのであれば、明日の朝一番にでもピノが手伝いに来てくれますよ――そう請け合ったところで、ようやくブノワさんの肩から力が抜けた。
倒れたという三人には、明日の朝から豆と乳の粥を作り、ブノワさんに届けてもらうことにした。毒を消す薬ではなく、毒が体外に排出されるまでのあいだ、彼らの体が弱らないよう支えるための兵糧だ。代金はひと皿あたり銅貨二十枚。その三皿分の代金をブノワさんが出す、ということで話がついた。
「しかし嬢ちゃん、あんた、ほんとに舌だけで……」
言いかけて、ブノワさんはふと黙った。それから、灯りの油が尽きかけた頃になって、ぽつりと言った。
「なあ。ひとつ、聞いてくれるか」
「はい」
「トマ坊が寝込んじまった晩よ。あいつが帰りに引っかけてった酒ってのが……うちのやつだったんだ」
樽の栓を握ったままの手が、白くなっていた。
「対策室の調べはすでに受けてる。毒はあの南方の香辛料のほうに入ってたんだと――うちの酒の樽も器も、そのとき調べて、なんともなかった。俺はシロだと、お墨付きをもらったんだ。……それでもよ」
決して嘘をついていたわけではない。それでもブノワさんは、何日ものあいだ、ひとりでずっと重荷を抱え込んでいたのだ。
今夜見つけた毒には、悪意の濁りがなかった。それもそのはず、ただ何も知らずに使っていた器から染み出していた毒だったのだから。
――けれど、トマさんを眠らせたあの冷たい無味には、別の誰かの意図が、確かにあったはずなのだ。
「あの晩の酒も、俺が注いだんだ。毒入りの香辛料とも知らずにな。なあ嬢ちゃん。俺はあの晩、いったい何を、トマ坊に出しちまったんだろうな……」
私はまず、樽からお酒を注ぎ、飴色の酒瓶を通して、彼の前に置いた。
「あなたが出したのは、このお酒だけですよ。――毒を入れた誰かは、必ず私たちが見つけます」




