第23話 二十年前の記録
ジェラルド様がページをめくるたび、古い記録簿からは乾いた埃の匂いがした。
「私にも見せていただけますか?」
「無論だ。そのために持ってきたのだからな」
カウンターに灯りを引き寄せて、私は二十年前の記録を辿った。
インクは褪せており、文字はどこまでも事務的な硬さが感じられて、なんだか不気味な雰囲気を帯びている。昏倒者は四十七名にも上ったそうで、その多くが目覚めないまま亡くなってしまったそうだ。死亡の原因を記すための欄も設けられてはいたけれど、どこも同じ二文字が書かれているだけだった。
すなわち――不明。
聞き取りの記録は半年近く続いていたが、あるページの途中で、突然ぱったりと途切れてしまっていた。
「――流行病と判断。以後の調査は不要……これで終わり、ですか」
「署名は当時の医務局長のものだ。少なくとも、医務局はここで調査を打ち切っているということになる」
「倒れる直前に鈴の音を聞く、なんて流行病、聞いたことありませんが」
「俺もだ」
短く答えつつ、ジェラルド様はページの隅で指を止める。
「ここだ。――目覚めた者、三名」
「……二十年前にも、助かった人がいたんですね」
トマさんやリュカ様と同じような人が、他にもいたのか。もし会うことができるなら、是非話を聞いてみたいところだけれど――そう思って次のページをめくり、私は目をぱちぱちさせてしまった。
……数ページほど、根本からきれいに破り取られている。
「目を覚ました方々の名前の記録だけが、なくなっているようですね」
「いつ誰がこんなことをしたのかはわからんが……生きているならいくらでも探す手立てはあるだろう」
「そうなのですか?」
「たとえば、今も生きている、あるいはつい最近まで存命だったのなら、生活の痕跡はすぐに見つけられるだろう」
「なるほど。毒物対策室の本領発揮、といったところですね」
ジェラルド様は手帳を開き、記録簿の要点を几帳面に写していく。灯りに照らされたその横顔はどこまでも仕事にまっすぐで、その奥にどんな感情が押し込められているのか、私には見当もつかなかった。
そんな私にも、自信を持って言えることが、ひとつだけある。
それは――ジェラルド様でも、お腹は空くということだ。
私は頃合いを見て、鍋の残り――骨出汁に麦と塩豚を入れたものだ――を温めて夜食にとジェラルド様のそばに置いた。
ジェラルド様は音を立てることなく、けれど確かな速さでお椀を空けていく。
「夜中の飯は、体に沁みるな」
沁みる、ときましたか。ついこのあいだまで、食事は腹を満たせさえすればいい、なんて言ってたのに。
この人がなぜ、この店の料理だけ味を感じることができるのか。今の騒動の謎が解けたら、今度はそっちのほうも是非、明らかにしたいものだ。
◇◇◇
翌朝、開店と同時に、見慣れない外套がふたつ、戸口で立ち止まっていた。
「あの……こちらが『食堂アメリー』で間違いないだろうか」
「おう、『毒消しの食堂』なら、ここだぜ!」
答えたのは壁際の席に座っていたガストンさんだった。まあ、どちらの名前も間違いではないので、私は特に否定することもなく、外套の来訪者を店内に招き入れた。
来訪者の正体は、貴族街の役人だという男と、若い侍女だった。リュカ様が目を覚ましたという噂が、丘の上まで広まっていたらしく、はるばるご足労いただいたというわけだ。侍女のほうは、仕えている奥様から「例の煮込み」を確かめてくるよう言われたのだと、席につくより先に白状した。
立ち話で済ますような内容でもないので席に案内したいところだったけれど、今はあいにく、空いている席はガストンさんの向かいしかない。
「あ、相席というものは初めてゆえ、どうかお手柔らかに」
「取って食やしねえよ。俺がここで食うのは煮込みだけだ」
兎と香草の煮込みを、同じ器に同じ量だけよそう。丘の上からのお客だろうが、下町からのお客だろうが、お出しするものは何も変わらない。
役人のほうは最初のひと匙を口にした瞬間、背筋をピンと伸ばし、それきり黙ってスプーンを動かし続けた。骨からほろりと外れる兎肉に、香草の香りと濃い出汁がよく馴染んだ、うちの看板の味。どうやらお気に召していただけたようだ。
「……この兎は、その、なんと言えばいいのか」
「どうだ、うめえだろう? これがまた、骨の芯まであっためてくれて、最高なんだわ」
言葉が見つからない彼の分まで、ガストンさんが胸を張って言った。なんであなたが偉そうなの、とは思いつつも、決して悪い気はしない。
侍女のほうはというと、お椀を空にしたあと、思いつめた顔で私にそっと尋ねてきた。
「これを、奥様にお持ち帰りすることは……」
「煮込みですから、丘の上まで持ち帰るのはさすがに難しいですね。よければ明日、奥様とご一緒にいらしてはいかがですか?」
「そ、そうですね! はい、是非!」
「食堂ですので、食事時には大抵開いています。いつでもお気軽にどうぞ」
娘は銅貨を数えながら、何度もうなずいていた。
と、そのとき、ピノが盆を抱えたまま、私の袖を引いてくる。
「なあ姉ちゃん。貴族街の人間ってのは、背中に物差しでも入ってんのか? 姉ちゃんもそうだし、このあいだのばあちゃんといい今回のふたりといい、なんでみんなあんなに背筋をまっすぐ伸ばしたまま椅子に座れるんだ……」
「こら、ピノ! お客さんの前で失礼でしょ」
ピノを小突きつつ、私は先ほどのふたりの食事の様子を思い出していた。
確かにピンと伸びた背中ではあったけれど、その表情は今にもとろけてしまいそうなほどやわらかくなっていた。丘の上と下町のあいだに高い壁があるのは確かだけれど、そんな壁も一杯の煮込みさえあれば、案外あっけなく崩れ去るのかもしれない。
そんなことがあった次の日の昼。例の奥様はまだ現れなかったけれど、代わりにマルタさんが焼きたてのパンを届けがてら、声をひそめながら教えてくれた。
「丘の上じゃもう、リゼットちゃんの話題で持ちきりみたいだよ。伯爵家の坊ちゃんの目を覚まさせたんだって」
「あの方が目を覚ましたのは、彼自身が頑張ったからですよ」
「あたしに言っても仕方ないさね。噂ってのは、放っとくとそうやってどんどん尾ひれがつくもんさ」
マルタさんの言うとおり、噂はどんどん盛られていった。
そして盛られすぎた噂は、どうやら――「あちら」の耳にもしっかり届いていたらしい。
◇◇◇
それは、閉店間際のことだった。
店の戸が開き、制帽をかぶった配達人が一通の封書を差し出してきた。厚手の紙を使った、いかにも格式張った封筒だった。
裏を返すと、封蝋には――薬杖の紋。
ピノが息を呑み、マルタさんが「ほら来た」という顔をする。
私は指先で封を切ると、中身にひと通り目を通し――見間違いかと思って念のためもう一度読み返す。
「姉ちゃん、なんて書いてあったんだよ」
「……『正式な書面』、みたいよ」
私は書面を丁寧にたたむと、正面を見据えて言った。
「――受けて立ちましょう」




