第22話 どこの誰が鈴を鳴らしたのか
翌朝、開店前の仕込みを終えるなり、私は革具屋へ走った。
二階の仕事場では、トマさんが革を磨いていた。起き上がれるようになって十日あまり、腕はもう以前と変わらない調子で動いているようだ。
「トマさん。妙なことを聞きますけど――倒れた日のこと、どこまで覚えていますか?」
「なんだよ姉さん、急だな」
「たとえばそう――鈴の音、とか……覚えはありませんか?」
ピタリと革を磨く手が止まり、目を細めて宙を仰ぐ。
「そういや……聞いた、かも。俺が倒れたっていう日の、夕方だったかな。仕事帰りに、市場の外れで安酒を一杯だけ引っかけてから、その辺を歩いてたんだが」
記憶をたぐるように、トマさんは革の表面をゆっくりと撫でた。
「どこかから、チリ、チリって……行商人の鈴みたいな音がしてた。そのとき、甘ったるい匂いもしてた気がする。菓子でも焼いてんのかと思ったんだ」
「鈴を鳴らしていた人の姿は見ましたか?」
「さあ、見てねえなあ……それが今回の件と、何か関係あんのか?」
「まだわかりません。ただ――あなたが眠っている間、その鈴をずいぶん嫌がっているような寝言を漏らしていたので」
そこへ階段を上がってきたトマさんのお母さんが、お茶の器を置いた。その手が少しだけ震えている。この家にとってこの件は、まだ生々しい傷のままなのだ。
私は長居せず、今夜の煮込みを一杯分届ける約束だけして、店に戻った。
◇◇◇
その日の夕方、ジェラルド様にトマさんの件を伝えると、次の日からはもう対策室が動き始めていた。
――そして、動いたのは対策室だけではなかった。
「うちの旦那の妹の子もね、寝たきりになる前の晩、『外で鈴が鳴ってた』って話してたらしいんだよ」
兵糧粥の会――作り方を習う例の集まりだ――の帰りに、織物職人の奥さんが教えてくれた。
さらに、ご主人が寝たきりになっている左官の家からも、似た話が出てきたという。同じ鍋を囲むうちに、家族同士で寝たきりになる前のことを話すようになったらしい。
寝たきりになった八人のうち、鈴の音に関する話が出てきたのは、少なくとも五人。
ただし、わかったのはそこまでだった。行商人の鈴なのか、教会の小鈴なのか、荷馬の首の鈴なのか。音を聞いたという話はいくつも出てくるのに、肝心の鳴らしていた者については、まったく出てこないのだ。
「妙だな。革具屋の子息も伯爵家のご令孫も、寝たきりになる直前に酒を飲み、鈴の音を聞いている。だが、その二つがどう繋がるというのだ……」
「ふたりとも、行商人の鈴みたいだったと言っていました。でも、何かを売られたわけでも、行商人を見かけたわけでもない……商売以外の目的で鈴を鳴らす意味なんて――」
と、そこまで考えて、ひとつの可能性が頭に浮かんだ。
「――もしかして、何かを知らせるための合図だった、とか?」
その推測に、ジェラルド様は否定も肯定も示さず、帳面に一行だけ書き留めた。
もし鈴が何らかの合図だったのなら、被害者は偶然毒を飲んだのではなく、以前から誰かに狙われていた――すなわち、毒を盛る相手を選ぶために鳴らされていた、という可能性もある。
そう考えた途端、鍋の湯気の中にいるのに、肌が一気に冷えた気がした。
「今の段階ではなんとも言えんな。だが――なんらかの手がかりになるかもしれん」
◇◇◇
それから、六日が過ぎた。
その日の昼下がり、店の戸口には、見覚えのある顔が立っていた。
「……ここが、噂の」
誰かと思えば、リュカ様だった。付き添いの侍女はともかく、コンスタンス様まで当たり前の顔で同伴していらっしゃるのは、正直どうかと思う。
とはいえ、頬にはまだ肉が足りていないものの、誰の手も借りずに自分の足で歩けているようで、そこは何よりだった。
「いらっしゃいませ。本日は歩いていらしたんですか?」
「途中までは馬車だったけどね。最後の橋だけは自分の足で渡れと、ばあさまが」
と、そのとき、店の奥にいたトマさんが急に立ち上がった。
ふたりは目が合うと、しばらく黙り込んだ。伯爵家の三男と、革具屋の息子。本来なら、こうして顔を合わせることもなかっただろう。
「……あんたが、もうひとりの」
「あなたか、先に目を覚ましたっていうのは」
最初に、トマさんが手を差し出す。
リュカ様はその手を、しっかりと握り返した。
「ひとつ訊きたい。目が覚めたとき……最初になんて言った?」
そう問われて、トマさんは少し考えてから答えた。
「確か……腹減った、だったかな」
「おお、おれもだよ……!」
そして、ふたりは同時に笑い出した。
――こんな日が来て、本当によかった。そう、心から思う。
トマさんと相席になったリュカ様の前に、早速、湯気の立つ皿を置いた。兎と香草の煮込み――うちの看板料理だ。
骨からほろりと外れる肉をすくって、彼はしばらく黙って噛みしめ、それから真顔で言った。
「……ばあさまの粥より、ずっとうまい」
「あらまあ。先生にはまだまだ及ばないみたいねえ」
コンスタンス様がおどけた調子でそう言うと、一気に店が沸き上がった。
リュカ様が照れた様子で店内を見回していると、奥の席に座った大男の存在に気づく。
「あんた、前に聞き取りに来てた対策室の人だろ。あんたみたいな人も通ってるんだな……ここの煮込みがお気に入りなのか?」
「……さあな。あいにく俺は、この店の味しか知らないものでな」
「おお、なんだか並々ならぬこだわりを感じる……」
ジェラルド様の反応に、リュカ様はただただ感心したように言う。まあ、事情を知らないとその言葉の本当の意味はわからないわよね……。
――そんな騒ぎのさなか、外套の男がひとり、音もなく店に入ってきた。
あの薬杖の紋は……セヴランだ。
「……視察だ。騒ぐな」
彼がひと言発しただけで、店は一瞬で静まり返った。
店じゅうの視線をものともせず、彼は隅の席で煮込みを一杯だけ頼んだ。出されたお椀の匂いを何度もしつこく確かめ、中身をにらみつけるように探ってから、ようやく黙って平らげる。
セヴランは、空になったお椀の横に銅貨をきっかり二十枚積むと、静かに立ち上がった。
「ギルドに無断で、勝手なことはしていないだろうな?」
「はい。言いつけはきっちり守っていますよ」
「ふん、まあいい。近々書面で正式に申し入れをさせてもらう。それまで大人しく待っているがいい」
「はあ。当店はどんなお客様であろうと、いつでもご来店をお待ちしていますよ」
コンスタンス様が何か言いかけたのが見えたけれど、私は小さく首を振った。これは、うちの店の問題だ。
その背中が戸口の外に消えたところで、真っ先にマルタさんが吹き出し、店内に騒がしい空気が一気に戻ってくる。
日が暮れる頃には、店はすっかり煮込みの匂いと笑い声で満ちていた。
ほんのひと月ほど前には、埃をかぶった鍋がひとつあるだけの場所だったというのに。
……おばあちゃん、見えていますか。丘の上の貴族様と下町の人たちが、一緒にテーブルを囲んで笑っていますよ。
◇◇◇
その夜、最後のお客さんを送り出すと、ジェラルド様が昼からずっと足元に置いていた鞄から、古い記録簿を取り出した。表紙の革は、長い年月ですっかり色が変わっている。
「今日、書庫の奥で見つけた。……二十年前の、聞き取りの記録だ」
私は布巾を置いて、仕事の顔になっていた彼に向き直った。
「二十年前……王都で原因のわからない昏倒が相次いだ時期がある。記録に残っているだけでも数十人。その多くが、長く眠ったままだった」
灯りの下で、ページが一枚めくられる。古いインクの上を、彼の指がゆっくりと辿っていく。
「そのときの聞き取りに、同じ証言がいくつも残っている」
ジェラルド様が、顔を上げて言った。
「――倒れる直前に、鈴の音を聞いた、とな」




