第21話 いつか新しい朝を
ルヴェル商会が姿を消してから、三日が過ぎていた。
この三日間、うちの店は普段どおりに煮込みを出し、夕方になると兵糧粥の鍋が下町の家々へと渡っていった。
今すぐできることがないからと言って、ただ黙って機を待つというのも性に合わない。だから私は、下町の皆のためになればと、今も積極的に店を回している。祖母もきっと、この状況なら同じようにしただろうと思う。
そしてまた夜が明け――。
橙通りに蹄の音が響き渡り、エルミール家の馬車が店の前に停まった。
馬車の扉が開くなり侍女が飛び出してきて、店の戸口まで駆け寄ってくる。
「お、お坊ちゃまが、今朝、目を……目を、覚まされました!」
私は仕込みかけの鍋をピノに任せ、エプロン姿のまま馬車に乗り込んだ。
◇◇◇
リュカ様は、ベッドの上で、枕に背を預けて座っていた。
およそ二十日ぶりに開かれたその目は、まだぼんやりとしている。
頬はこけ、声もかすれていたけれど、それでも目は開いていて、こちらを見ている。
私は断りを入れてから、白湯をひと匙、その唇に含ませた。
そして、そのスプーンの縁に、舌先で触れる。
――あの冷たい無味の感覚が……ない。
普通の味との境目も、あの底冷えするような感覚も消えている。長く眠っていた分だけ体が弱っているのは見てとれるけれど、あの異様な冷たさはどこにもなかった。
コンスタンス様は、私がスプーンを置くまで息を止めていたように見えた。
「味のない、あの冷たい感覚は……もう、なくなっています」
廊下で誰かが鼻をすする音がした。振り向くと、開かれた扉の向こうに屋敷中の使用人が集まっている。
私もとりあえずひと息つこうとして――膝から少しだけ力が抜けた。
「えっと……ばあさま、この綺麗な人は、どちら様?」
「この子ったら。そんな口が利けるなら、もう心配いらないわね」
「……ばあさま、ひょっとして泣いてる?」
「泣いてなどいません」
「いや、声が震えてるじゃないか。……あれ、そもそもおれ、いったいどうしちゃったんだ? 今って、どういう状況?」
もはやまともに声が出せないコンスタンス様は、ただ孫の手を握り直すことしかできなかった。
――そんな感動的な雰囲気を台無しにする、盛大な音が部屋に鳴り響いた。
「はは。腹、減ったかも」
リュカ様の、お腹の音だった。
トマさんが目を覚ましたときの第一声も、こんな感じだった気がする。長く眠っていた体が、真っ先に食べ物を欲しがるというのは、まあ当然のことではある。
その音を聞いた途端、部屋に満ちていた涙が少しだけ笑いに変わった。
「わたくしが作るわ」
コンスタンス様が立ち上がった。
厨房では、自ら乗り込んできた奥様に料理長が悲鳴を上げそうになっていたらしいけれど、止めても聞く人ではないということは周知の事実であるため、素直に受け入れるしかなかったようだ。ここ数日で、その美しい厨房も、奥様の作る『兵糧粥』にすっかり染まっていた。
運ばれてきた粥は、骨の出汁で麦を柔らかく煮て、蜜をほんの少し加えたものだった。湯気と一緒に立つ香りだけで、お腹が空いてくる。私はそこへ少し湯を足し、さらに食べやすくしてあげた。
「お医者様に言われたとおり、最初はスプーン三杯までですよ」
「三杯!? 空きっ腹にその仕打ちは鬼じゃないか……」
「鬼で結構です。これ以上食べたければ、頑張ってもっと元気になることですね」
リュカ様は不満そうな顔でスプーンを取り、口に入れて――そのまま固まってしまった。
「……うま」
その声は、途中でかすれていた。
残りの二杯をゆっくり食べ、最後のひと口は名残惜しそうに、特に長く味わっていた。
「ばあさまの粥が、こんなうまいなんて……おれ、まだ夢でも見てんのかな」
「これが夢だというなら、わたくしが二度と覚めないようにしてあげるわ」
◇◇◇
「お坊ちゃまを治していただき、本当にありがとうございました」
感激した家令が深く頭を下げてきたので、私はすぐさま首を横に振った。ここを曖昧にしてはいけないと思ったからだ。
「いいえ。私が治したわけではありません。私は、リュカ様のお体が衰弱しないよう、食事でお支えしただけです」
「その食事がなければ、この子はここまで耐えられなかったわ」
コンスタンス様が、静かにそう続けた。
「では、みんなで頑張ったということにしておきましょう」
私が折れたところで、コンスタンス様は居住まいを正し、まっすぐに私へ向き直った。
「それでね、リゼットさん。エルミール家では、借りは倍にして返すことになっているの」
「お代でしたら、銅貨二十枚を伺った回数分だけいただければ」
「それはもう払ったでしょう。今は借りの話をしているの。――今日から、あの食堂はエルミール家が守ります。看板に難癖をつける者がいたら、うちの紋を思い出させておやりなさい」
貴族の後ろ盾――ひと月前の私なら、聞いたその場で断っていた言葉だ。
思わず黙ってしまった私に、目の前の老婦人は目だけで笑った。
「仕えろと言っているわけではないわ。……わたくしの友人のままでいてちょうだい、と言っているの」
◇◇◇
昼前になって、報せを受けたジェラルド様が黒い制服で現れた。喜びの空気に満ちていた部屋に、少しだけ緊張感が戻ってくる。
ちなみにコンスタンス様はその制服をひと目見て、「……あら、やっぱり」とだけ小声でつぶやき、それ以上は何も訊かなかった。
「倒れた夜のことを、聞かせてほしい。だが無理はしなくていい。体がつらいようならすぐ中断する」
リュカ様は、ゆっくりと記憶をたぐった。
「確か……東の、屋台で……酒を飲んで……安いやつだ。それから……連れと別れて、歩いてて……」
そこで言葉が途切れた。二十日も前の、しかも倒れる直前の記憶だ。無理もない。
「……そうだ……匂いが、した」
「匂い?」
「甘い、匂いだ。砂糖菓子を焦がしたみたいな。それから……鈴の音が、してたな」
「鈴だと?」
「チリン、って。行商人が鳴らす鈴みたいな音だった。……悪い、これ以上は思い出せないみたいだ」
ジェラルド様はそれ以上追及せず、帳面を閉じた。
ただ、その手が一瞬だけ止まり、閉じた帳面に視線を落としたまま動かなかった。
甘い匂いと、鈴の音――何か気になることでもあるのだろうか。
侍女がお茶を運んでくると、ジェラルド様は器を受け取ったものの、口はつけずに静かに置いた。
私はしばらくのあいだ、その器から目が離せなかった。
◇◇◇
帰りの馬車で、窓の外に流れる白い街並みを眺めながら、私はリュカ様の証言を頭の中で繰り返していた。
寝たきりの八人のうち、目を覚ましたのはこれで二人。残る六人にも、いつか新しい朝を迎えてほしい。そのためにも、今は調べなければならないことがある。
甘い匂いと、鈴の音。
鈴、か。
ふと、革具屋の二階に通っていた三日間のことを思い出した。
寝たきりだったトマさんが時折、眉を寄せながら、寝言を漏らしていなかったか。
――チリ、チリ……うるせぇ……。
あのときは耳鳴りに苦しむ夢でも見ているのだろうと思って、聞き流していた。
けれど、あれは本当に……ただの寝言だったのだろうか。




