第20話 消えた商会
夜明け前に竈に火を入れ、麦の生地に香草と塩豚を包んで焼いた。歩きながら食べられる、朝の兵糧だ。
焼き上がった頃にはもう、ジェラルド様が迎えの馬と共に店の前に来ていた。
「朝早くからすまん」
「いいえ、私が望んだことですので……ちなみに今からものすごく急げば間に合ったりは――」
「いや、もうどうやっても間に合わん。やつらは聞いていたとおり昨夜のうちに発っていたそうだ――わかっていたことだが、ずいぶんと動きが早い。これから向かうのは、あくまで抜け殻となった商会の検分に過ぎない」
それからジェラルド様の馬に乗せてもらい、大きな背中だな――などと一瞬湧いてきた邪念を頭から追い払いつつ、私は今回の事態について考えを整理していた。
ゴーチェに土地を買う資金を提供していた商会が、一夜で姿を消した。つまり、ルヴェル商会を残しておくのは危険だと早々に判断した者がいたということだ。倉庫の男たちが捕まってから、まだ十日あまりしか経っていないというのに……ジェラルド様の言うとおり、動きが早すぎる。
聞けばルヴェル商会は、ほんの三日前までは商業区の表通りに堂々と看板を掲げていたのだという。
その建物の前に着くと、徹夜明けの顔がいくつもこちらを振り向いた。私は挨拶がわりに、持ってきた籠の布をめくる。焼きたての匂いに、張りつめていた顔がいくつか、ふっと緩んだ。
「香草と塩豚の麦包みです。お仕事をしながらでもつまめますよ」
若い隊員がひとり、受け取っていいものか迷って、室長であるジェラルド様の顔をのぞき見た。しかし当のジェラルド様は無言でひとつ取ってかじり始めるものだから、直後には他の隊員がなだれ込むように籠へと押し寄せてきた。皆がほとんど噛まずに飲み込んでいくのを見て、こんなことならもっと多めに用意してくるんだったと、少しだけ後悔した。
ジェラルド様はそんな隊員たちから離れつつ、歩きながら麦包みを黙々と食べ進めていく。
そのまま食べきってしまうのかなと見守っていると、彼はふと何かに気づき、途中で足を止めて麦包みの中身を確かめ出した。
「……これは、香草か」
「ええ。店の裏庭で採れたものです」
「そうか。いい朝飯だ」
それだけの言葉で、朝の冷たい空気が少しやわらいだ気がした。
……よかった、お口に合ったようで。
◇◇◇
建物の中は、驚くほど何もなかった。
机も棚も秤も、帳簿を置いていた場所の仕切り板まで運び出されており、壁には棚の跡だけが白く残っている。
音を遮るものが何もないせいで、私たちの足音がやけにうるさく響き渡った。
革や蝋、そして人々の熱気が混ざった商いの匂いというのは、建物を空にしてもしばらく残るものだ。けれど、ここにはそれすらほとんど感じられない。三日前まで商いをしていた場所とは、とても思えなかった。
「夜逃げというより、引っ越しですね。それも、ずっと前から準備していたような」
「ああ。人手や荷馬車の手配はもちろん、川船まで先週のうちに押さえてあったようだ。手際が良すぎる」
やはり、倉庫の男たちが捕まってから慌てて逃げたのではないのだろう。それよりもっと前から、いつでも商会を畳めるようにしていたらしい。
私は帳簿をつけていたらしい場所に膝をつき、銀のスプーンで床板の隙間を軽くこすった。
取れた粉を少量の水に溶かし、一滴だけ舌に乗せる。
――石鹸と、灰汁の味。
それ以外は、何も残っていない。
「……床も、樽を置いていた場所も、とにかく念入りに洗ってあるようですね。何か残っていたとしても、これでは何もわかりません」
「毒を扱った形跡も、か」
「そこまではなんとも。ただ、ここまで徹底して痕跡を消していったことだけは確かです」
三日前まで使っていた建物を、空にするだけでなく隅々まで洗い尽くしている。去り際を清めるにしても、果たしてここまでやる必要があるだろうか。
「……あの、室長……部外者を現場に入れていいんですか?」
遠慮のない声が、入口のほうから届いた。さっき麦包みを二つ取っていった若い隊員だ。こちらと目が合うと、彼は慌てて頭を下げる。
「いえ、その……麦包みは旨かったです。ですが……」
ジェラルド様が何か言おうとしていたけれど、私はそれを制して彼のほうへと向き直った。
「王都であの毒を舌で見分けられるのは、今のところ私だけらしいです。毒が関わっているなら、私の舌も少しは役に立つはずですよ」
「……えっと、食堂の店主さん、なんですよね?」
「ええ、食堂の店主ですよ」
若い隊員は少し考え込んだものの、結局言い返す言葉は見つからなかったようで、諦めたように持ち場へと戻っていった。
◇◇◇
中庭には、帳簿を焼いた跡らしい灰が積もっていた。何度かに分けて火を入れた跡があり、逃げる直前に慌てて燃やしたようには見えない。ずいぶんと前から、証拠を片づける作業が進められていたようだ。
その灰の底から、革表紙の焦げた帳簿が二冊、引き出された。
中身は半分ほど焼けずに残っており、ジェラルド様がページを確かめるなり、眉を寄せる。
「……麦、油、塩。表向きの商いの仕入れ台帳のようだな。毒や呪いとは無関係か」
「拝見してもよろしいですか?」
私も毎晩、店の帳面をつけている。だから少しはわかるつもりだけれど、仕入れの記録には、その店の商い方が自然と表れるものなのだ。
ページをめくっていた私の指が、ある場所で止まった。
「……ここ、なんだか不自然ですね」
「何がだ?」
「四年前の春頃から、南方の品の記録だけが消えています。それまで毎月のように仕入れていたのに、本当に突然仕入れがピタッと止まっているんです。他の品の仕入れは、その後もほとんど変わっていないのに……」
四年前の春――。
「……四年前の春と言えば――あなたが、あの家に嫁いだ頃だな」
ジェラルド様の声が、一段低くなった。
私がグランメゾン家に入ったのと、ほぼ同じ時期に――それまで続いていた南方との取引が、帳簿から消えている。
偶然にしては、少し出来すぎていないだろうか。
「……私の舌を警戒した、ということでしょうか」
「そこまではわからん」
「そうですね。たまたま時期が重なっただけかもしれませんし」
それでも、四年前という数字を、無視するわけにはいかなかった。
◇◇◇
検分を引き上げる号令がかかる頃、私はもう一度、もぬけの殻になった建物を見渡した。
「完全に逃げられましたね」
若い隊員が悔しそうに言った。
けれど、何も残さず姿を消したということ自体が、ひとつの手がかりではある。何も知らない商会なら、ここまで用意周到に店を畳む必要なんてないのだろうし。
「確かに逃げられてしまいましたけれど……でも、調べなければならないことは、むしろ増えましたね」
私の言葉に、ジェラルド様が振り返る。
「まだ消えていないものもあるはずです。紙や帳簿は消せても――関わった人たちの記憶までは消せませんから」
そう言って、私はジェラルド様を正面から見据えた。
「今は、できることを続けましょう。今も寝たきりの方々が、目を覚ますまで」




