第19話 みんなで作る兵糧粥
「リュカの指が……今朝、動いたのよ」
濡れたフードを取ることも忘れて、コンスタンス様は一息にそう言った。付き添いも連れず、この雨の中を馬車で駆けつけるほど、待ち望んでいた変化だったのだろう。
私はお椀に白湯を注ぎ、その氷のように冷え切った両手に持たせてあげた。それから、私自身の気持ちを落ち着かせるために、一度深く息を吸った。喜ぶのは、状況を正確に把握してからだ。
「侍女が白湯で唇を湿らせていたら、お椀を追うように指が動いたそうなの。まるで、夢でも見ているみたいに」
「……今からお屋敷に伺います。この舌で確かめさせてください」
「ありがとう。そう言ってくれると思って、馬車を待たせてあるわ」
そのとき、店の奥の席にいたジェラルド様が音もなく立ち上がり、壁に掛けてあった外套を手に取った。
「もうじき日も暮れます。私も同行させていただきましょう」
「あら、あなたは確か、この前の常連さん。夜道の護衛までしてくださるんですか?」
「店想いの常連ですので」
茶化してくるコンスタンス様に対して、堂々と言葉どおりに受け止めるジェラルド様。
これにはコンスタンス様も堪えきれず、フードの下でくすりと笑みを漏らしてしまった。
◇◇◇
夜のエルミール邸では、家令が今度は迷うことなく、すぐに扉を開けてくれた。
リュカ様は、変わらず眠っていた。頬もまだ、痩せたまま。
私はベッドのそばに膝をつき、侍女が白湯で唇を湿らせるのに使ったスプーンを受け取る。そしてその縁に舌先で触れると、一瞬で違いに気づいた。
――薄い。先日よりも、さらに感覚が薄くなっている。
あの冷たい無味は、普通の味との境目がほとんどわからないほどにぼやけていた。冷たさそのものも弱くなっている。これが何を意味するのかは、まだ断言できない。それでも――。
「前より、あの冷たい感覚が弱くなっています」
私がそう言った、まさにそのとき。
ブランケットの上に置かれた右手が、ぴくりと動いた。
部屋にいた全員が息を止めた。
コンスタンス様の手が、ベッドの柱を強く掴む。
「リュカ!」
「――奥様、落ち着いて聞いてください」
私はスプーンを置き、老婦人の目をまっすぐに見た。ここで根拠のない希望を口にしたら、あの偽薬売りのバルナベと同じになってしまう。
「まだはっきりとしたことは言えません。ただ、味のしない、あの冷たい感覚は前より弱くなっていて、わずかながら指も動いた……リュカ様のお体に、何か変化が起きているのは確かです」
「……いつ、目を覚ますの?」
「それはまだわかりません。ですが、少なくとも悪い変化には見えません。お医者様と相談しながら、これまでどおりお孫さんのお体を支えてあげてください」
コンスタンス様はベッドの縁に腰を下ろし、孫の右手を両手で包み込んだ。
「リュカ……聞こえた? ちょっとずつ、良くなっているそうよ」
その声は、かすかに震えていた。
これ以上私がかけてあげられる言葉はなく、今はただ、そっとしておいてあげるほかなかった。
帰りがけに厨房をのぞくと、例の料理長が粥の鍋の番をしていた。病気や毒と戦う体を支える食事――という意味を込めて、私はこの粥を『兵糧粥』と呼んでいる。料理長はどうやらこの呼び名が気に入ったらしく、「兵糧粥は、しっかり濁らせておりますぞ」と、妙に誇らしげだった。
骨をじっくり煮出した香ばしい匂いが廊下にまで漂っていて、貴族のお屋敷の空気が少しだけ下町に近づいているような気がした。
◇◇◇
翌日の午後、店は妙なことになっていた。
「――あの、うちの旦那の妹の子も、寝たきりになったひとりなんです」
そう切り出したのは、マルタさんが連れてきた東三区の織物職人の奥さんだった。その後ろには石工の兄弟、それに荷運びをしている息子の、年老いた母親。いずれも、ジェラルド様が言っていた「今も寝たきりになっている七人」の家族たち、とのことだ。
どうやら「丘の上のお屋敷で寝たきりだった若様の指が動いた」という話は、どこから漏れたのかひと晩で下町じゅうに広まっていたようで、この人たちもその話を耳にしてうちの店を頼ってきたらしい。
「兵糧粥ってやつは、うちでも作れるものなのかい?」
「ええ、作れますよ。難しい料理ではありませんから。お医者様の許可を得た上で、少しずつ与えてあげてください。……いいですか? この粥はなんといっても、濁らせることが肝になります」
竈に大鍋をかけ、叩き割った骨を湯の中へ入れる。澄んでいた湯は、煮込むうちにゆっくりと白く濁っていく。そこへ麦を加え、麦が出汁を吸ってふくらみ、とろみがついてきたところで塩をひとつまみ。
いつの間にか近くで見物していた子供たちが、湯気を嗅いだだけで、お腹を鳴らしていた。
そして私の隣では、同じく兵糧粥の作り方を教える人が、もうひとり――。
「骨はね、ためらわないで叩き割るんだよ。あたしも最初は怖かったけどさ」
トマさんのお母さんだった。自身の息子が目を覚ますまで看病を続けたほどの人の言葉は、私なんかよりもずっと皆に響いているようだった。
厨房のまわりには、すっかり人垣ができている。
――と、その端にひとり、明らかにこの場に似つかわしくない風貌の人物がいることに気づく。
その人はお忍びのフードをかぶっており、帳面を開いて鍋の混ぜ方を熱心に書き留めていた。
「……奥様。それは侍女さんのお仕事では……」
「わたくしが覚えないと駄目なの。あの子が起きたら、わたくしの粥のおかげだって自慢するんだから」
伯爵家のコンスタンス様が、パン屋のマルタさんに「まだ濁りが足りないよ」と指導されて、素直に頷いている。身分の違う人たちがひとつの鍋を囲んでいるこの光景は、少し前の私なら想像もできなかっただろう。
夕方には、出来上がった粥がそれぞれの家に持ち帰られていった。
ピノは売上の硬貨を数えて帳面につけながら、「今日は忙しくてたまんねえ」と、誇らしげにぼやいていた。
◇◇◇
そろそろ店仕舞いという頃、ジェラルド様が店にやってきて、大鍋に残った粥を味見していた。
「……ここの料理は不思議だな。こんな淡い味だというのに、俺の舌でも、ちゃんと感じることができる」
独り言のようなぼそっとした声だったので、私は聞こえなかったふりをして皿を拭き続けた。
……なるほど。粥の味はちゃんとわかるのね。
「しかし兵糧粥か……あなたは、また世話を焼く相手を増やしたのだな」
「私は困っている人に頼られたら、放っておけない性分のようですので」
そう答えると、彼は一瞬だけ困ったような笑みを浮かべた。
そういえば、この人の笑った顔って、まだ数えるほどしか見ていない気がする……なんて、ぼんやりと考えていると――。
「……だが、あなたが多くの人と関わるほど、それだけあなたの弱みも増えていくのかもしれんな」
突然声の調子が変わったので、私は思わずジェラルド様を振り返ってしまう。
けれど、彼はもうすでに、いつもの常連さんではなく、対策室長の顔になっていた。
「今日、対策室に報せが入った。ルヴェル商会が――店を畳むそうだ」
ルヴェル商会。
井戸騒ぎのとき、ゴーチェの手帳に、土地を買うための前金の出どころとして名が記されていた商会だ。
あれ以来ずっと気にはなっていたものの、私には手の届かない名前だった――それが今、こうして向こうから動き出したというのだ。
「荷はすでにまとめ終えているそうだ。明日の朝にはもう、この街から姿を消していることだろう」




