第18話 雨の日の食堂は、静かで甘い
その日は朝から雨が降っていた。
地下の貯蔵庫にあった壺のこと。その壺を調べていたジェラルド様の様子がなんだかおかしかったこと。
どうにも気になることが多いけれど、今のところ、私にできることは何もなさそうだった。
外の景色をぼんやりと眺める。橙通りには人の姿はひとりも見えず、ただひさしを雨だれが叩く音だけが聞こえてくる。
竈の火がご機嫌な調子で爆ぜる店内で、ピノが窓に鼻を押しつけて唸った。
「姉ちゃん、こりゃもう、今日は客なんて来ねえぜ」
「でしょうね。この雨ですもの、無理もないわ」
「例の職人の兄ちゃんはそれでもさっき来てたけどな。手があったかくなったって笑ってた」
「ええ。症状はもうだいぶ治まったようでよかったわ」
手が空いたので、ピノに帳面と、売上の硬貨が入った小箱を渡してみた。
「ちょうどいい機会だし、練習も兼ねて、ここまでの売上を帳面と照らし合わせてみてくれるかしら」
「……おれがやっていいのか?」
「雨ばかり眺めていても退屈でしょう? さ、やってみて」
すると次の瞬間、ピノは目の色を変えて、銅貨を指先で数えつつ帳面を追いながら計算し始めた。
そのあいだに、私は兎肉の下ごしらえをしておくことにした。
そしてそれが一段落して戻ってくると、ちょうどピノも照合を終えたところだった。
「……姉ちゃん、二枚多かったんだけど」
「あら」
「帳面に載ってねえ銅貨が二枚。……あっ、このあいだの宴のときか! ガストンの親方が、祝い金だって言って釣りを受け取らなかったやつ!」
「正解よ。よく覚えていたわね」
「おれ、金をやり取りしたやつの顔は忘れねえから」
それは頼もしいことだ。この分なら、店を任せられる日もそう遠くないかもしれない――なんて、少し誇らしい気持ちになった。
◇◇◇
昼を少し過ぎたころ、近所の子供が三人、軒先へ雨宿りにやってきた。
竈の前に並ばせ、昨日の残りのパンを骨出汁に浸して出してやると、三人とも夢中になって食べていた。
お金を取らなかったことに、ピノは意外にも何も言ってこなかった。お金にはしっかりしている彼も、子供が相手だといろいろ思うところがあるのかもしれない。
たまにはこんな日があってもいいだろう。記憶の中にある祖母の店も、雨の日はこんなあたたかさに包まれていた気がする。
その後、夕方が近づいてきたところで雨脚が緩んできたので、その隙にピノが子供たちを送っていった。
――それと入れ違いに、雨の中から店へ入ってくる大きな影があった。
「……開いているか」
「開いていますとも。と言っても、今はこのとおり誰もおりませんが」
影の正体は、雨でずぶ濡れになったジェラルド様だった。
平服の肩から滴る水に目をやりながら「雨傘はどうされたのですか?」と訊くと、「途中で折れた」とその手の中の残骸を掲げてみせた。
私がくすくす笑いながら大きめの布を渡してあげると、彼は律儀に髪から順番に拭き始めた。
「今日はもう仕事は終わりですか?」
「ああ。書類を片付けてひと息つこうとしたら、自然と足がこちらに向いてな」
「なにもこんな雨の日にわざわざいらっしゃらなくても……」
「雨の日は体が冷える。ここの食事なら、温まれるのではないかと思ってな。それに……客のいない静かな食堂というものを、一度見てみたかった」
――耳のあたりが、少し熱くなっていくのを感じた。
……竈の火が強いせいだろう。そうに違いない。
ジェラルド様は、例によっていつもの奥の席に座った。雨音のせいだろうか……その背中は、いつもより不思議と威圧感が薄いような気がする。
今、店内には、鍋の湯気と、屋根を叩く雨音だけが満ちていた。
体が温まるもの――そうだ、確か果実がいくつか残っていたはず。
蜂蜜と香草に漬けておいた林檎と梨を小鍋に移し、干し葡萄と赤葡萄酒を加える。弱火にかけると、甘い香りが店の中に広がった。
林檎と梨が柔らかくなるまで煮込み、ふっくら戻った干し葡萄と一緒に皿へ盛る。仕上げに、冷たいクリームをひと匙。温かい果実と冷たいクリームを一緒に食べる、雨の日のための一皿だ。
「どうぞ。果実の甘煮です」
ジェラルド様は、スプーンですくった果実をしばらく見つめてから、そっと口に運んだ。
瞬間、その手が止まる。
「――温かいのはわかる。香りもいい。だが、これは……甘い、のだろうか」
「……何か変でしたか?」
「いや、そうではない。何らかの味があるのはわかるのだ。だが、ぼんやりしている。……そもそも、甘いというのがどんな味だったのか、もうほとんど思い出せなくてな。もしかすると、いちばん最初に失った味だったのかもしれんな」
私の料理なら、一時的とはいえどんな味覚でも元に戻せる――というわけでもないらしい。
なぜ彼には甘味が届かなかったのか、今の私にはわかるはずもなく……。
「すまん。せっかく作ってくれたというのに」
「いいえ」
私は本心から、首を横に振った。
――目標がひとつ、増えただけのことだ。
「甘いものくらいいつでも作れますので。甘いと言っていただけるまで、何度でもお出ししますとも」
「……不思議なものだな。俺は、ここの飯だけは味を感じることができる。ならば甘味も、いずれわかる日が来るのかもしれんな」
そう言ってから、ジェラルド様は自分で自分の言葉に驚いたような顔をした。
きっとこの人は、店の外では決してこんな顔はしないだろう。
そう思うと、客のいない雨の日というのも、悪くない気がしてくるから困る。
――と、そのとき、窓の外から車輪の音が聞こえた。
下町の荷車とは明らかに違う音だ。
雨の中を走ってきた馬車が一台、店の前で止まる。扉に描かれた紋には見覚えがあった。
あれは……エルミール家の……。紋を隠す暇さえ、なかったのだろうか。
馬車の扉が開き、深くフードをかぶった人影が店へ駆け込んできた。息が上がり、フードの下から白い髪がひと筋こぼれている。
「コンスタンス様? どうなさいまし――」
濡れた手が、私の両手を強く掴んだ。
「――動いたの」
老婦人の目には、雨とは別の――雫が光っていた。
「リュカの指が……今朝、動いたのよ」
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