第16話 食堂は料理だけ作っていればよいのだ
偽薬師騒ぎから一夜が明け、下町にはすっかり上機嫌な空気が満ちていた。
危うく騙し取られるところだった銀貨を懐に戻して、胸をなで下ろす人たち。追い詰められて慌てふためくバルナベの物真似をして笑い合う人たち。そして、すっかり尾ひれのついた私の武勇伝で盛り上がる人たち。
私の店は、朝からそんな常連さんたちの笑い声でいっぱいだった。
なお、その中にジェラルド様の姿はなかった。
昨日の今日で、事情聴取にギルドへの照会にと、対策室も大忙しらしい。いつも彼が座る奥の席に誰もいないというだけで、店の中にぽっかり穴が空いている感じがするような……なんてことは、そっと胸に仕舞っておく。
そんな、騒がしくもあたたかな空間に――その男は、ふらっと現れた。
仕立てのいい旅装の外套。肩には、薬草を巻いた杖の紋。
――食堂風情が、毒を語るか。
私へ「敵意」を向けてきた存在が、今まさに目の前にいる。
「――『毒消しの煮込み』とやらをいただこうか」
そう注文する声は、妙な冷たさを帯びていた。
私は「いらっしゃいませ」とだけ返して、厨房に向かう。
男が座った窓際の席まで煮込みを持っていくと、彼はひと匙ずつ確かめるように食べ始めた。おいしそうな顔とはとても言い難い険しい表情で、ひたすら煮込みを口に運び続ける。
「……骨出汁は豚と鶏。香草は日向草を主に、干したセロリの葉。塩は岩塩。仕上げの油脂は――胡桃か」
「あ、胡桃そのものは使っていません。豚の背脂を、胡桃の殻で燻したものになります」
「…………」
男の手が、初めて止まった。
「――なるほど。だから香りが柔らかいのか」
一瞬だけ、職人らしい顔がのぞいた……ような気がした。
男は誤魔化すように咳払いをして、お椀を置く。その中身は、きれいに空になっていた。
テーブルの上に、銅貨がきっかり二十枚、几帳面に積まれた。
「薬事ギルド査察官、セヴランだ」
やはり、薬事ギルドの人間だったか。
「昨日、騎士団からギルドへ、偽造免状照会の依頼があった。……言っておくが、あのバルナベという男はギルドの人間ではない。我々ギルドも、今回の件では純然たる被害者なのだ」
「ギルドの一員ではないからといって、まったくの無関係とは断言できないと思いますけど」
――しまった。つい癖で皮肉が口をついて出てしまった。
セヴランの目が、スッと細くなる。
「――聞いていたとおりの、よく回る口のようだ。……昨日の騒ぎは、人垣の外まで聞こえていたぞ。大勢の前で薬を調べ、材料やその値段まで暴いてみせていたな。なるほど、確かに見事な『鑑定』技術だ」
テーブルの上で、指が一本立てられた。まるで講義でもするような手つきだった。
「薬の鑑定は、免状を持つ薬師の仕事だ。無免状の者が薬を鑑定し、その上『毒消し』の名で商いをする――そんなことを許せば、ギルドの規則が成り立たなくなってしまう」
「うちの店は『食堂アメリー』の名で正式に届け出を出しています。看板の『毒消し』は、祖母の代からの古い呼び名で、下町の皆さんが親しみを込めてそう呼んでくださっているに過ぎません」
「たとえ通り名であろうと、その名が薬師と同等の力を持っているなら話は別だ」
「ちょいと、お客さん」
パンの籠を抱えたマルタさんが、いつの間にかすぐそばで仁王立ちになっていた。
「この子は、その免状とやらを偽って砂糖水を高く売りつけた薬師もどきを止めてくれたんだよ。何もしなかったあんたらに代わって、被害が広がるのを食い止めてくれたんだ、まずは礼を言うのが筋ってもんじゃないのかい?」
「そうだそうだ!」
「嬢ちゃんがいなけりゃ、下町のやつらはみんな騙されるところだったんだぞ!」
マルタさんに続いて、常連さんたちが口々に畳みかける。そこへガストンさんまでが立ち上がり、黙って圧をかけてくるのだから、並みの人間ならすぐ逃げ出してしまうことだろう。
だが、セヴランは眉ひとつ動かさなかった。
「我々が礼を言う義理などない。だが、借りを作ってしまったことは事実だ。……だから今回の件は、警告だけで済ませてやろう」
店内の空気が、一気に凍り付く。
常連さんたちの殺気がこもった視線に晒されるも、セヴランは涼しい顔のまま優雅な所作で立ち上がり、何も言わずに戸口へと向かっていった。
そして戸口を出る直前で立ち止まり、外套を翻して店内へ振り返る。
「次にまた、勝手に薬を『鑑定』するようなことがあれば、そのときこそギルドは正式に動く。食堂は料理だけ作っていればよいのだ。わかったな」
バタン、と扉が閉まる。
セヴランの姿が見えなくなった瞬間、店内の全員が、一斉に息を吐いた。
「なんだいありゃあ! 感じの悪い!」
「マルタさん、パンが潰れちゃいますよ」
籠の中では、丸パンがひとつ、すでに怒りの犠牲になっていた。
どうも、厄介な相手に目をつけられてしまったようだ。
思えば「毒消し」は、私が祖母から受け継ぐよりずっと昔から、教会にもギルドにも属していなかった。
もしかすると祖母も、薬事ギルドとは折り合いが悪かったのだろうか。それならノートのどこかに、ああいう客のあしらい方も書いておいてくれればよかったのに。
……それにしても。
空になったお椀を下げながら、確信にも近い思いを抱いていた。
あの人、またうちの店に来るんだろうな――と。
◇◇◇
「そういえばさ」
昼の分のパンを届けに来たマルタさんが、声を潜めながら言った。
「グランメゾン商会の荷が、今度は港で止められたんだとさ。『きちんと検めなきゃ通せない』って突っ返されて、保管料ばかりかさんでるって話だよ。……あの商会、ほんとにどうしちゃったんだかねえ」
「そうですか」
私は、それだけ返した。
あの商会の事情なんて、今の私には知ったことではないのだ。煮込みの灰汁と一緒に掬って捨てるに限る。
◇◇◇
日が傾いたころになって、ガストンさんが埃まみれで駆け込んできた。
「嬢ちゃん、いるか!」
「慌てなくても、煮込みならまだ残っていますよ」
「おう、そりゃよかった。……じゃなくてだな」
そう言ってお椀を受け取りこそしたものの、中身に口をつけようとはしなかった。この人が煮込みを前に手を止めるなんて、よほどのことではなかろうか。
ガストンさんは手拭いで顔を拭うと、珍しく声を落として言った。
「今日から例の空き屋敷――三年前に俺が妙な呪具を掴んじまった、あの屋敷の取り壊しを始めたんだが、床を剥がしたら地下に貯蔵庫があるのが見つかってな。中をのぞいてみたらよ、蝋で封をした古い壺がズラッと並んでたんだ」
「壺……ですか」
「若い職人が、そのうちのひとつを素手で触っちまったんだが……そいつの指がよ、ずっと冷たくなったまま戻らねえんだわ。湯にどんだけ浸けてもあったかくなんねえし、半日経っても全然元に戻りそうにねえ」
ガストンさんは、自分の左肩に手をやる。そこは、かつて呪いの残滓が潜んでいた場所だった。
「……嬢ちゃん。俺ぁ、その冷たさを……知ってる気がするんだわ」




