第14話 銀貨五十枚の霊薬
翌朝、私はまた休業の札を店に掛けて、エルミール邸を訪れていた。
控え室にて借り物の侍女の服に袖を通し終えたところ、ジェラルド様がぼそりとつぶやいた。
「……似合うな」
「それ、褒めているんですか?」
薬師の件については、昨夜のうちに手紙をコンスタンス様に送っておいた。
すると、その夜のうちにもう返事が届き、そこには『面白いわね。支度はこちらでしておきます』と一行だけ書かれていた。……この老婦人、私の祖母が存命だったら、たぶん今ごろは意気投合していたんじゃなかろうか。
侍女に扮するのは、私の顔と店の名を、薬師側に知られたくないからだ。「毒消しの食堂の女」が同席していると知れば、当然あちらも警戒してくるだろう。ただの侍女が毒見をする分には何もおかしな点はないし、相手も油断していろいろ口を滑らせてくれるかもしれない。
客間に出る前に、コンスタンス様は扇で口元を隠しながら、小声で言った。
「……騙されているとわかっていながら、それでも大金を投げ打ったこのわたくしを……あなたは笑うかしら」
「笑いません。溺れている人に藁を高く売りつけるような、悪魔のごとき所業――責められるべきは、間違いなくあちら側です」
老婦人は少しだけ目を見開き、それから「本当に――うまく回る舌だこと」と、どこか楽しそうに呟いた。
――薬師バルナベは、強い香水の匂いを漂わせて現れた。
上等すぎるローブに、指が埋まるほどの指輪。薬箱だけは妙に使い込まれている。いかにも長年薬師を務めてきたとでも言いたげな、立派な箱だった。
「奥方様におかれましては、本日もご機嫌うるわしく。して、お孫様のご容態は?」
「前と何も変わらないわ」
コンスタンス様は、いかにも心配そうな顔で淀みなく応じた。昨夜『支度はこちらで』と書いて寄越しただけのことはあって、準備は万全のようだ。
「それはそれは。ですがご安心を、霊薬は継続してこそ、効能がゆっくりと現れてまいりますゆえ」
「だといいのだけれど……そういえば――東三区で、同じように寝たきりだった子が、つい先日目覚めたと聞いたわ」
「ああ、革具屋の息子ですな。……実を申せば、あれも私の霊薬によるものでございます」
思わず、トレイを持つ手に力が入った。
まさかトマさんが回復したことまで、自分の薬の手柄にしようとするとは。
彼のお母さんが必死で看病を続け、ようやく取り戻した平和を、目の前の男は銀貨に換えようとしていた。
コンスタンス様の視線が、ちらりとこちらへ流れる。私はトレイを持って、一歩進み出た。
「奥様。お薬をこちらへ」
「ああ、毒見ね。お願いするわ」
毒見――それは四年間、私を縛っていた言葉。
……いいだろう。一日だけ、私は再び貴族街の毒見に戻る。
ただし、以前の私とは違う。私は今日、自分自身の意思で、この舌を使うのだから。
新しい瓶の封を切り、銀のスプーンに一滴だけ落として舌に乗せる。
これは――砂糖だ。
それも精製の粗い、安い砂糖。焦がした香草の湯で色をつけ、橙の皮あたりで薬らしい苦味を足している。そして……この舌全体に、油のようにまとわりついてくる濁り――売り手の悪意が如実に表れた味だった。
けれど、毒特有の苦味は特に感じられない。それどころか、薬として役に立ちそうなものも何ひとつ存在しない。
詰まるところ――これはただの、高すぎる砂糖水でしかなかった。
「いかがかしら?」
「……甘いお水でございます、奥様」
バルナベの眉が、ピクリと動くのが見えた。
「霊薬の甘みは霊素の証。素人の舌にこの妙味はわからんでしょうな」
「はて、私には砂糖と焦がした香草、それに橙の皮の苦味くらいしかわかりませんが……このようなものが、果たして眠り病に効くのでしょうか?」
客間が、しんと静まり返った。
バルナベが、初めてまともに私を見る。私の全身に値踏みするような視線を這わせたあと、部屋の隅に立つ灰色の平服の大男に気づき、わずかに顎を引いた。
「……一介の侍女にしては、ずいぶん口が達者なようだな」
「毒見は侍女の嗜みゆえ、別段珍しいことでもないと存じますが」
「奥方様。ご家庭によって使用人の躾の方針は様々ということは承知しております。ですが、私にも薬師としての矜持がございます。大事な商品を疑われるとあらば、本日はこれにて失礼させていただきます」
思ったよりも引き際が早かった。これ以上問い詰められるのを避けたいということか。
バルナベは深々と一礼し、香水の匂いだけを残して客間を出ていった。
「……このまま帰らせていいの?」
口元を扇で隠しながら、コンスタンス様が尋ねた。
ジェラルド様が、その問いに答える。
「今この場で捕らえることはできません。効能が疑わしい、というだけでは罪に問えませんので」
「私の舌だけでは、証拠としては弱いですしね」
「まあ……常連さんまでお役人のような口をきくのですね。不便な世の中だこと」
窓の外をのぞき見ると、派手なローブを着たバルナベが門を出て待たせていた馬車に乗り込み、そのまま坂を東へ下っていった。
「東三区の方角だな」
ジェラルド様の言葉に、私はなんだか嫌な予感がした。
昨日の侍女の話によれば、あの男の霊薬は一瓶あたり銀貨五十枚。下町に住む者が簡単に払える額ではない。
にもかかわらず、東三区へ向かったということは――他に何か、狙いがあるというのだろうか。
そのとき不意に、先ほどバルナベが話していた内容が頭をよぎる。
――ああ、革具屋の息子ですな。……実を申せば、あれも私の霊薬によるものでございます。
……まさかっ。
バルナベはあの嘘を、下町にも広めようというのか。
確かにトマさんが目覚めたばかりの今であれば、原因不明の眠り病に対する不安を少しでも紛らわそうと、霊薬に飛びつく者がいてもおかしくはない。
「ジェラルド様、すぐに馬車を……いえ、走っていきましょう。着替えている暇はなさそうです」
「待て。俺が先に行く」
「あ、いや、ちょっと待ってください! 侍女の格好のまま置いていかれるのは困ります!」
◇◇◇
結局ジェラルド様には追い付けないまま、私はひとり橙通りへ駆け込むこととなった。
すると、私の店の前で、顔を強張らせながら手を振るマルタさんの姿が目に飛び込んできた。
「リゼットちゃん、さっき変な薬売りが来て……革具屋の二階に上がっていったんだけど。なんだか様子が変だったんで、一応リゼットちゃんの耳に入れておこうと思って」
――よかった、まだ間に合う。革具屋に急がなければ!




