第13話 貴族街に再び足を踏み入れて
次の日の朝、店の前にまたしても石像が――ではなく、平服のジェラルド様が立っていた。
「おはようございます。本日はお勤めの日のはずでは?」
「今日は非番にしてきた」
コンスタンス様の件について、私が寝ているあいだにピノが対策室まで走って知らせたらしい。それなら荷物持ちが必要だろう、ということで、この度ご足労いただいたというわけだ。
「荷物持ちなんて大げさな。たかが鍋ひとつですよ」
「その鍋には中身が入っているのだろう。結構な荷物だ。遠慮せず俺に任せるといい」
その目は真剣そのもので、意見を曲げる気は毛頭ないようだった。仕方がないので、私は黙って鍋を渡す。すると、彼はなんとも嬉しそうに受け取ったので、そんな顔するなんてずるい……と私は内心思ってしまった。
ひとまず、「本日は都合により休業します」という札を店の戸に掛けて、私たちはコンスタンス様のもとへ向かうことにした。
◇◇◇
エルミール家の迎えの馬車は、紋のない地味な箱馬車で、店の前ではなく橙通りの入口に停まっていた。下町の者に伯爵家の紋を見せない気遣い――というより、醜聞を避けるためだろう。まあ、私も似たような事情を抱えているので、全然構わないのだけど。
ジェラルド様と馬車に乗り込み、北の丘へと向かう。
車窓の景色が、坂を上るにつれて変わっていき――。
やがて、石畳が白くなり、塀が高くなって、ついには行き交う人々の足音が聞こえなくなる。
「――表情が硬いぞ」
向かいの席から、ジェラルド様が言った。
「……そうですか?」
「貴族街に戻りたくないというなら、俺が代わりに行ってもいいんだぞ」
「あら、私の舌は誰かに貸し出したりなんてできませんよ」
冗談を言って誤魔化そうとしたのだけれど、彼は真顔のままだった。
「四年もいた街だと聞いている。……用が済んだら、すぐ帰ろう」
騎士団の第二師団長サマが、膝に鍋を抱えた状態でそんなことを言う。
その様子がなんだかおかしくて、少しだけ、私の肩から力が抜けた。
腹を括り、今一度、外の景色と向き合う。
――北の丘は、下町とは匂いが違う。朝の下町には、パンに魚に、煙や泥といった雑多な匂いが入り混じっている。一方、この丘には、石鹸や磨き上げた屋敷の匂いしかない。
……私は四年間、この街で周囲の顔色を窺いながら暮らしてきたのだということを、改めて思い出していた。
◇◇◇
エルミール邸の家令は、私たちを見るなり、戸惑いの表情を浮かべた。
「……下町の、食堂の方……ですか? 失礼ですがどのようなご用件――」
「わたくしの客よ。――リゼットさん、でよかったかしら」
「はい。リゼット・アルディと申します」
廊下の奥から現れたコンスタンス様の言葉を聞いて、家令はすぐに姿勢を正した。昨夜あれだけ憔悴していたコンスタンス様だったけれど、屋敷の中ではそんな様子は微塵も表に出しておらず、見事なまでにピンと背筋を張っていた。
すぐにコンスタンス様に案内され、私たちはお孫さん――リュカ様の部屋へとやってくる。
そのリュカ様は――天蓋つきのベッドで、静かに眠っていた。
顔立ちは整ってはいるものの、その頬はこけ、腕もすっかり細くなってしまっている。二十歳という若い体でも、十日も眠り続けるとここまで痩せてしまうものなのか。
「……では、失礼いたします」
眠るリュカ様に声をかけてから、傍らにいた侍女に、今朝リュカ様の唇を湿らせるのに使ったというスプーンを借りる。その縁に舌先で触れると、すぐに「あの感覚」が口の中を駆け巡った。
――冷たい無味。
そして、やはりトマさんのときとは違う。彼のスプーンに舌で触れたときは、普通の味と冷たい無味の境目がはっきりしていた。けれど、こちらは味の境界がぼやけ、その冷たさもどこか弱々しい。
「奥様。ひとつ伺います。リュカ様は、食事をよく楽しまれる方でしたか?」
「ええ、食べるのは大好きよ。この子ったら厨房の焼き菓子をよく盗み食いして、そのたびに料理長に追い回されていたわ」
「お体は丈夫なほうでしたか?」
「剣術の稽古はすぐ逃げ出すくせに、馬で遠乗りするのは人一倍好きで。……ええそう、丈夫なのが取り柄の子よ」
私はスプーンを置き、ゆっくり息を吐いた。
「昨夜お借りしたスプーンのときと、同じ反応でした。舌に伝わってくる冷たい感覚があるのですが、トマさんのときより、その感覚が微弱なんです」
「それは……良いことなの?」
「まだわかりません。毒が弱まっているからなのか、それとも別の理由があるのか……。先ほどおっしゃったように、リュカ様のお体が丈夫なおかげで、十日経った今もこうして持ちこたえていらっしゃいます。お医者様とも相談して、できる限りお体の調子をこのまま維持していきましょう」
コンスタンス様が、両手で口元を覆う。彼女の肩の震えが収まるまで、私は窓の外を見ているふりをすることにした。
ジェラルド様が廊下の侍女たちに「今聞いたことは他言するな」と低い声で釘を刺しているのが聞こえる。相変わらず律儀な人だ。
廊下から戻ったジェラルド様は、ベッドのリュカ様を改めて眺めながら、私にぽつりとこぼした。
「対策室が把握している七人のうち、ひとりだけ顔を確かめられていない者がいた。北の丘の者らしい、という噂だけは耳に入っていたのだが……届けは出されていなかったゆえ、確かめようがなかったのだ。……ようやく、この目で見ることができた」
その表情にはかつてないほどの影が差していて、私は今回の事件の深刻さを、改めて実感していた。
◇◇◇
それから私は厨房を借りて、料理長と一緒に滋養のある出汁を仕込んだ。
伯爵家の出汁は美しかった。澄んでいて、上品で――少々、物足りない。
「もう少し、しっかり煮出しましょう」
「えっ!?」
「骨を割って、髄の旨味も引き出すんです。今は見栄えより、少しでも滋養のあるものを用意したいので。濁っても構いません――濁りは、力ですから。リュカ様に飲ませてよいかはお医者様に確認します」
「素人は、うちの出汁に口を出さないでいただけますか……!」
料理長は何度も抗議してきたが、いざ煮上がった出汁をひと匙味わうや、黙り込んでしまった。それから小さな声で「……髄まで、とおっしゃったか」と調理手順を聞き直してきた。貴族街の料理長といえど、やはり職人には違いないのだ。
その後、帰り際になって客間でお茶を出された。
ジェラルド様は礼儀としてひと口だけ含み、静かに茶器を置いた。
……この人にとって、私が作ったもの以外は、今も空腹を満たすためだけのものなのだ。
その横顔を見ていると、なんだか少し、切なくなってくる。いつか、こういうなんでもないお茶でも、おいしいと感じられる日が来ますように――と、願わずにはいられなかった。
「――ところでリゼットさん。先ほどから気になっていたのだけれど、そちらの大きな方はどちら様?」
「ああ、この人は……うちの店の、常連さんです。荷物持ちを買って出てくれまして」
「まあ。ずいぶんとお店想いの常連さんなのね」
「……はい、本当に」
コンスタンス様は目元に笑みを浮かべると、それ以上は何も聞いてこなかった。
何かを察したのか、それとも単に言葉どおりに受け取っただけなのか。
その笑顔の真意は、最後までわからなかった。
◇◇◇
玄関先まで見送りに来た若い侍女が、不意に声を落として言った。
「あの……リゼット様。ひとつ、お耳に入れたいことが」
「なんでしょう?」
「明日の朝、お屋敷に薬師様がいらっしゃるんです。ノルデンから渡ってきた霊薬を扱われるという方で……奥様はすでに、その霊薬ひと瓶に銀貨五十枚をお支払いしてしまっておりまして……」
銀貨五十枚……下町なら、ひとつの家庭が半年は食に困らないだろう。
昨夜、コンスタンス様は言っていた。必ず治せると言って、法外な金を要求する者がいた、と。たとえ騙されているとわかっていても、孫のためなら買わずにはいられなかったのだろう。
「……その薬師のお名前を伺っても?」
「バルナベ様、といいます」
――帰りの馬車で、私は白い街並みを眺めながら考えた。
眠り続ける孫を救うためなら、どんな薬にもすがりたい――その気持ちにつけ込むような商売を、見過ごせるはずがない。
「ジェラルド様。明日もう一度だけ、お付き合い願えますか?」
「構わんが……何をする気だ?」
「決まっているじゃないですか。味見です」




