ここで暮らしてもいい
橋の手前で、警備の一人が栞へ道を空けた。
俺は栞と一緒に欄干の内側へ入り、そこで振り返る。ダリアはまだ納屋の前にいた。棒を横へ払い、追ってこようとした男を止める。その脇へ警備が入り、盾で二人を押し分けた。
ミナが仕切りの留め金を外した。板を折りながらこちらへ下がり、リュカは最後に土から手を離す。足を取られていた男が立ち上がるより早く、警備が腕を押さえた。
刃物が地面へ落ちる。
ダリアが棒を下げたのを見て、俺はようやく栞の袖から手を離した。いつの間にか俺もつかんでいたらしい。栞は鞄の紐を握ったまま、橋の上に立っている。
「皆さん、こちらへ来ます」
俺が言うと、栞は一度頷いた。目はダリアの腕へ向いていた。
血は袖口を越えて手の甲にもついている。ダリアは橋を渡りきると、棒を警備へ預け、無事な右手で栞の顔の前を軽く振った。
「着いたよ。もう走らなくていい」
「私、全然」
「歩けた」
栞の唇が動いたが、声にはならなかった。
ミナが荷車を橋のこちら側へ運び、リュカもその後ろへ並んだ。俺は二人の顔と手足を確かめる。どちらも立っている。誰かをあの道へ残してはいない。
警備の責任者から、五人全員を押さえたと報告を受けた。道の両側も確認中で、俺たちは橋から離れた集会所へ案内された。
栞を先に入れ、ダリアと一緒に窓際へ座らせる。中には湯と布が届いていた。
手当てをする者がダリアの袖を切り開く間、俺は栞の前へ椅子を引いた。
「転んだり、ぶつけたりしませんでしたか」
栞は自分の腕を見た。それから両脚を。
「たぶん。痛くないです」
「頭は?」
「大丈夫」
声が小さい。俺は水を渡し、飲めそうなら少しだけと伝えた。栞はコップを持ったが、しばらくは口をつけなかった。
ダリアの傷は左の前腕に一本。浅いが、洗うと本人も眉を寄せる程度には痛むらしい。圧迫していた布を替えると出血は治まり、手当ての係は包帯と腕を吊るす布を残していった。今日は荷物を持たず、明日また傷を見せること。ダリアにも、その言いつけは届いているはずだ。
部屋に残ったのが俺たち三人になってから、栞が口を開いた。
「ごめんなさい」
ダリアは腕を吊るす布を広げようとしていた手を止めた。
「先に水、飲みな」
「でも」
「口、乾いてるだろ」
栞はコップへ口をつけた。飲み込んでから、ようやく肩が動く。
ダリアは机の上の布へ顎を向けた。
「その端、押さえてくれる?」
栞はコップを置き、言われたところへ指を当てた。ダリアが右手で布を回す間、栞は左腕を見ないようにしているようだった。
「このくらい?」
「それでいい」
「痛くないですか」
「傷じゃなくて、布を押さえてるから平気」
栞が少し息を吐いた。
結ぶところは俺が手伝った。栞は指を離し、余った布を畳もうとして、うまく端を揃えられずに机へ置く。
俺はそれをそのまま受け取った。今はきれいに畳まなくていい。
「レオンさんも、腕」
栞に言われて袖を見ると、棒を受けたところが擦れていた。腕を曲げて確かめる。
「打っただけです。あとで見てもらいます」
「あとでって、今でも」
ダリアが俺の椅子を足で引き寄せた。
「座りな。逃げる用事もないだろ」
俺も座った。
栞は机の上から濡れた布を取り、差し出した。冷たい面を腕へ当てると、ようやくそこが熱を持っているのが分かる。
「ありがとうございます」
栞は頷いたが、こちらを見たままだった。
「ああいう人がいるって、知ってたんですか」
俺は布を持ち替えた。昨日、配置図を受け取った場所まで思い出せる。栞に何かあったのかと聞かれて、案内の確認と答えたことも。
「魔王を迎えることに反対する人が、抗議に来るとは聞いていました」
「昨日の?」
「はい」
栞はダリアの包帯を一度見た。
「先に教えてほしかったです」
「その通りです」
「言われても、どうしたらいいかは分かんないけど。でも、いきなり、あんな」
俺は栞が次の言葉を探すのを待った。コップへ伸びた手が、途中で止まる。
「私、歓迎されてるって思ってたから」
俺は机へ布を置いた。
「歓迎している人たちが、嘘をついていたわけではありません。ただ、皆が同じ考えではない。それは、先にお伝えするべきでした」
「……うん」
「これまでの抗議は、意見を述べて帰るものでした。今回も場所を分け、警備がつけば大丈夫だと判断しました。武器を持って待ち伏せするとは聞いていませんでしたが、それで説明を省いてよかったことにはなりません」
栞は俺の顔を見ていた。
「怖がらせたくなかったんですか」
「ええ」
「怖いかどうか、聞いてから考えたいです」
俺は頷いた。
「次は、お話しします。すみませんでした」
栞はすぐには返事をしなかった。コップを両手で持ち、少しずつ残りを飲んでから、ようやく口を開く。
「次は教えてください」
「はい」
ダリアは話に割り込まず、右手で自分の髪を耳の後ろへ押し込んでいた。その耳が廊下の足音へ向く。
俺は席を外す前に栞へ、警備の確認を聞いてくると伝えた。
廊下では責任者が待っていた。周辺の道と資材置き場も調べ終え、ほかに潜んでいた者はいない。怪我人はいずれも手当てを受け、重傷者はいないとのことだった。
広場の外で抗議していた者たちと、道を塞いだ五人は分けて事情を聞いている。意見を言いに来た者まで拘束するつもりはない。俺は帰りの道と付き添いの手配も確かめた。腕も手当ての係に見てもらい、しばらく冷やしておくよう言われた。
部屋へ戻って、聞いたことを二人へ伝える。
栞はさっきより椅子へ深く座っていた。窓の外からは、広場のざわめきが届いている。祭りを全部やめるのではなく、安全を確かめた区画から食事を再開することになったらしい。
「ここにも、いろいろあるんですね」
栞が窓へ向けて言った。
ダリアは首に掛けた布の位置を直した。
「あるよ。普段はあんなことにはならないけど」
「私、いないほうがよかったのかな」
ダリアは栞へ顔を戻した。
「あたしは来てほしかった。昨日、一緒に走れたし」
「でも、怪我」
「怪我させた奴の分まで、栞が謝らなくていい」
栞が俯く。ダリアは右手で自分の膝を軽く叩いた。
「守るほうは、あたしたちがやった。逃げるほう、やってくれたろ」
「レオンさんに、押されて」
俺は首を横に振った。
「最後は、ご自分で歩きました」
栞は足元の布靴を見た。爪先に土がついている。靴を揃え直し、それから顔を上げた。
「……ありがとう、ございます」
ダリアが頷いた。俺も礼を受け取った。何をどうすればもっと早く逃がせたかは、栞のいないところで考える。
しばらくして、温かい汁物が届いた。
俺が蓋を開けると、ダリアの耳が起きた。栞がそれを見て、小さく笑う。
「お腹、空いてるんですか」
「朝から食べてない」
「私もだけど」
「じゃあ、食べよう」
栞は匙を受け取った。最初は汁だけ、次は柔らかい根菜。一つ食べ終わると、器を自分の前へ寄せた。
俺はその向かいで冷めた水を飲んだ。食べ物が喉を通るところまで戻ってきた。そのことに、今は助けられた。
午後になって、俺たちはもう一度、出かけるかどうかを栞に尋ねた。
屋敷へ帰る荷車は用意できる。ここで寝ていても構わない。祭りの食卓へ顔を出すなら、集会所のすぐ裏から入れる。橋の道は使わない。
栞は窓から広場を覗いた。
「ダリアさんは?」
「座って食べるだけなら、いいって言われた」
「走らない?」
「今日は走らない」
「私も、座るだけなら」
栞は立ち上がり、筋肉痛を思い出したらしく脚を伸ばした。昨日のものか、さっき力を入れすぎたせいか、俺には分からない。急がず行きましょうと伝え、先に扉を開けた。
広場の端には、長い卓が並んでいた。
ダリアが腰を下ろすと、すぐに皿が置かれる。次にパン、その隣に焼いた肉。包帯を見て集まってくる手を、ダリアは右手で制した。
「そんなに食えないって」
皿を置いた者たちは笑いながら別の卓へ戻っていく。栞はその山を見つめた。
「食べる日って、こういうこと?」
「ちょっと予定と違う」
俺は空いた皿へ肉を取り分けた。栞にも渡すと、ようやく鞄を膝から下ろした。
リュカとミナは、離れた天幕の下で道具をまとめていた。栞は二人に気づくと、椅子から少し立ち上がった。
「ありがとうございました」
声が届き、リュカがこちらへ向き直る。ミナも手を止めて頭を下げた。栞はもう一度会釈し、席へ戻った。二人が仕事を再開するまで見送ってから、匙を取る。
卓の隅に、祭りの飾りを結ぶ細い紐があった。短い草の束へ色糸を巻き、輪に通したものだ。栞が触れていいか尋ねると、ダリアは一つ手元へ寄せた。
「余ってる。持っていきな」
「これ、どうやって結んでるんですか」
ダリアは右手で輪を示しかけ、吊った左腕を見下ろした。
「説明するから、やってくれる?」
栞は紐を取り、ダリアの言う順に指へ掛けた。輪を通すところで一度ほどけ、最初からやり直す。ダリアは手を伸ばさず、こっちを上に、と自分の膝の上で指を動かしてみせた。
できあがった飾りは、見本より少し曲がっていた。
「違うかも」
「ほどけないからいい」
「昨日のパンも、それ言ってた」
「食えればいい、だった」
栞が笑った。結んだ飾りを手にしたまま、肩を揺らしていた。
夕方には荷車で野営地へ戻り、荷物を回収した。今夜は屋敷で休む。ダリアも一緒に戻り、明日また手当てを受けることになっている。
俺が畳んだ毛布を荷台へ載せる間、栞は鞄へ飾りを結んでいた。木の鳥の横へつけてみて、少し離す。二つがぶつからなくなると、ダリアへ見せた。
「これなら大丈夫そう」
「ああ。鳥も窮屈じゃない」
栞は荷車へ乗り込み、ダリアが席へ着くのを待った。
「今日のことは怖かったです。でも、皆さんといるのは嫌じゃないです」
ダリアは頷き、栞が続けるのを待った。
「ここで暮らすのも、ありかも」
俺は毛布を置く手を止めた。
ダリアは少し驚いた顔で栞を見て、それから口元を緩めた。
「そりゃ、うれしいけど。栞が決めな」
「まだ、かもです」
「分かってるよ」
俺は毛布を席の脇へ押し込んだ。あの道で起きたことを、ここへ連れてきてよかった理由にはできない。それでも、栞が自分から次の暮らしを口にしたのを、聞かなかったことにもできなかった。
栞は鞄を膝へ載せ直した。肩紐の縁が一部裂けている。さっきまでは土に隠れていたが、納屋の壁へ擦れたところだろう。
「これ、直りますかね」
俺は裂けたところを確かめた。縫い目の外側だけで、まだ切れそうではない。
「工房で見てもらいましょう。ミナなら、使い方に合わせて補強もできます」
「明日、行ってもいいですか」
「具合がよければ」
栞は頷き、二つの飾りを鞄の内側へそっと寝かせた。
「じゃあ、これも見せたいです」




