守られる側の戦い
栞がもう一度走ってから、俺たちは輪を片づけた。
日が傾くと、草原の風は急に冷たくなる。集落のそばの野営地には低い天幕がいくつも張られ、その間から煮炊きの煙が上がっていた。
ダリアが栞を案内した天幕には、寝具が一人分と、入口を閉める内側の紐がある。隣は俺たちの寝場所だ。共同の洗い場には昼間見た仕切りが立ち、着替える姿が外から見えないようになっている。
栞は荷物を置くと、布靴の中へ指を入れて草をつまみ出した。
「まだ入ってた」
俺は自分の靴の底を見た。俺のほうにも、よく似たものが挟まっている。
「部屋へ上がる前に分かってよかったです」
「ここ、部屋でいいんですかね」
栞は天幕の天井を見上げた。風で布が膨らむと、思わず肩をすくめる。
入口で待っていたダリアが留め紐を確かめた。
「風が入っただけ。夜も鳴るけど、倒れはしないよ」
「先に聞いてよかった」
「腹減ったら出ておいで」
ダリアが入口を離れ、俺も自分の荷物を置きに行った。栞の支度が終わるまで、火のそばで湯を沸かす。鍋の上へ手をかざしていると、袖に草をつけたままの栞が戻ってきた。
夕食は串に巻いた薄い生地と、根菜の汁物だった。
ダリアは生地を手のひらで転がし、長い紐のように伸ばしてから串へ巻いた。火の端へかざすと、白かった表面が少しずつ膨らんでくる。
栞がダリアの隣へ腰を下ろした。
「それ、パンですか」
ダリアは空いた串を一本渡した。
「似たようなもの。やる?」
「やります」
「厚くすると、中が生のままになる」
栞は慎重に生地を伸ばした。途中で細くなりすぎたところを指で足し、また伸ばす。ダリアの串が焼け始める頃になっても、まだ形を整えていた。
「こんな?」
「いいよ。巻いてみな」
栞の串には、太いところと細いところが交互にできた。
「なんか、違う」
「食べられる」
俺はその二本を見比べた。異世界の食事にも、作った者の手加減は残る。全部同じ形にできるなら、俺も日本で焦げたところだけ食べる役を引き受けずに済んだ。
火の向こうでは、小さな獣耳の子が同じことをしていた。生地が串からほどけ、膝に落ちる。拾って巻き直しても、今度は先が垂れた。
栞は自分の串を火から外し、立ち上がりかけた。
「手伝ったほうが」
ダリアが空いた手を軽く上げた。
「まだやってる」
「でも、落ちちゃう」
「熱いほうには近づけてない。見てて」
子供は垂れた生地を上へ巻きつけた。丸い塊になったが、今度は落ちない。本人はしばらく眺め、結局それを剥がして、ダリアのほうへ持ってきた。
差し出された串を受け取り、ダリアは手元の細い生地を一本、見本にして巻いた。子供はその手を見てから、自分の生地を両手で引き伸ばす。
ダリアが直したのは、串の先から抜けないようにする最初の一巻きだけだった。残りは本人へ返す。子供が自分の席へ戻ると、栞も腰を下ろした。
「全部やってあげないんだ」
「自分のを焼きたいんだろ」
「失敗して、食べられなくなったら?」
「生地はまだあるよ」
ダリアは鉢を栞のほうへ傾けた。底には、あと何本分か残っている。
栞はそこを見つめ、自分の串を持ち直した。
「でも、放っておいて悪くなったら……」
言葉が途切れた。火の向こうでは、子供が串を両手で回している。
ダリアは焦げ始めた自分のパンを遠ざけた。
「見てるよ。火に近づきすぎたら止める」
栞の串からも、香ばしい匂いがしていた。俺は火の近くへ戻したばかりの栞の手元を示す。
「そちらも、そろそろ回したほうが」
「あっ」
太い部分の片面だけ、きれいな茶色になっている。栞は慌てて回し、それから俺を見た。
「助けようとしたら、自分の焦がすところだった」
「手伝おうと思ったのは、悪いことではないでしょう。まだ、焦げてもいませんし」
栞は焼けたところへ鼻を近づけた。
「……いい匂い」
ダリアが自分の串を持ち上げた。
「こっち、少し焦げた」
「見てたのに?」
「あんたの話、聞いてたから」
「私のせい?」
「いや。あたしの串だから、あたしのせい」
栞が笑う。ダリアは焦げ目を爪で少し落とし、そのまま端をかじった。俺には、そちらのほうがうまそうに見えた。
食べ終わる頃、さっきの子供が自分の串を見せに来た。不揃いだが、ちゃんと焼けている。栞が両手を小さく叩くと、子供は胸を張って戻っていった。
栞は空になった串を膝へ置いた。
「自分でできたら、うれしいか」
ダリアは頷き、残った生地に布を掛けた。
俺は湯を足した。話の続きを聞きながら、もう少し火のそばにいることにした。
翌朝、栞は天幕から出てきたところで足を止めた。
「脚、ほんとに痛い」
ダリアは食器を運びながら笑った。
「言ったろ」
「今日走れって言わないでくださいね」
「言わない。今日は食べる日」
その予定なら俺も賛成だった。
朝食を終え、俺たちは天幕をそのまま残して集落へ向かった。栞は木の鳥をつけた鞄を肩に掛けている。リュカとミナも道具を取りに戻ってきており、少し先で、昨夜使わなかった仕切りを載せた小さな荷車を押していた。
道は浅い水路に沿っていた。右には祭りの資材を積んだ納屋、左には水路。その先の橋を渡れば、警備のいる広場へ出る。旗も、人影も見えている距離だ。
橋の手前で、前の荷車が止まった。
納屋の陰から、別の荷車が道を塞ぐように押し出されてきた。長い木材が横にはみ出している。
俺は栞の前へ出た。
積み荷を直しているのではなかった。荷車を押していた男が手を離し、腰から短い刃物を抜く。納屋の扉の前にも二人いて、うち一人は同じように刃物を握っていた。後ろでも足音がして、振り返ると、長い棒を持つ二人が来た道を塞いでいた。
五人。
ダリアは俺の右へ立ち、肩の袋から棒を抜いた。昨日、競走の目印を立てるのに使っていたものより、ずっと太い。
「レオン、栞を」
「分かってる」
橋の警備へ向けて腕を上げ、声を張った。
「こっちだ! 道を塞がれている!」
橋の上で人影が動いた。笛が鳴る。だが、木材の積まれた荷車が、その間にある。
荷車を押していた男が栞を指した。魔王をこちらへ渡せ、と言っている。ここを離れる者に国の代表を任せるな。就任を取り消すまで、預かるだけだと。
俺は栞を背にして、納屋の壁へ寄った。ミナとリュカも、道具の荷車をこちらへ引いている。
栞が俺の袖をつかんだ。
「何ですか。私、何か」
「何もしていません。私の後ろへ」
前の男は、栞には傷をつけられないと繰り返していた。その刃はダリアへ向いている。傷つけられない相手を連れていくために、傷つけられる相手を退かせるつもりだった。
ダリアが棒を水平に構えた。
「そのまま下がれ。話は警備の前で聞く」
男が踏み込んだ。
ダリアの棒が刃物を外へ弾く。金属の音に栞の手が縮み、袖が引かれた。俺は彼女の前から動かず、後ろの二人を見る。
前へ目を戻すと、納屋の扉の前にいた一人が、壁沿いを回ろうとしていた。俺たちと橋の間へ入る気だ。刃物を持つほうも、荷車の男に並んでダリアへ迫っている。
リュカがしゃがみ、道端の根へ手を置いた。土が盛り上がり、細い根が壁沿いの男の足首へ絡む。踏み出しかけた足が止まり、男は片膝をついた。
根はそこで伸びなくなった。リュカは手を離せずにいる。
ミナが荷車から仕切りを引き下ろした。折り畳まれた板が開き、斜めに張り出した脚が土を噛む。彼女は留め金を踏み、板を後ろの道へ向けて立てた。
長い棒が板を叩いた。ミナの肩が跳ねる。倒れはしなかった。
俺たちの右に納屋の壁。後ろには仕切り。正面ではダリアが二人を止め、リュカが残る一人の足を押さえている。
壁際を橋へ向かう隙間だけが、まだ空いていた。
俺は栞の顔へ身をかがめた。
「壁に沿って、前へ。私も一緒に行きます」
栞は頷いたが、足が出ない。手には鞄の紐が絡んでいる。
後ろの棒が、仕切りの脇から突き出された。俺は栞を壁側へ入れ、自分の腕で棒を外へ押す。硬い衝撃が肘まで響いた。そのまま棒を握って引き、相手の手から離れたところで地面へ投げ捨てる。
その音に、正面の男が一瞬こちらを見た。
ダリアは男の手首を棒で押さえ、道の中央へ追いやった。だが、その間にもう一人が壁際へ入る。ダリアは体を戻し、栞へ通じる隙間へ肩を入れた。
左の袖が裂けた。
ダリアは退かなかった。棒の端を相手の胸へ押し当て、壁から引き離す。袖口から落ちた血が、土に小さな点をつくった。
栞が息をのんだ。
「ダリアさん、腕」
「見なくていい。道を見な」
ダリアの声は低い。目は相手の刃から離れなかった。
橋の向こうで、木材をどける音がする。警備はすぐそこまで来ている。俺は栞を壁際へ促したが、栞は逆に、ダリアのほうへ足を出しかけた。
「私なら、傷つかないんじゃ」
俺はその前へ腕を出した。
「連れていかれます。ここにいてください」
「でも、私が前に」
ダリアが、男を押し返した隙にこちらを見た。
「傷つかないからって、盾になっていいわけじゃない」
棒が地面を打つ。栞がすくんだ。
ミナが留め金を踏んで外し、仕切りを少し回した。後ろの二人を遮ったまま、壁際の道を広げて留め直す。リュカは根を押さえる手をついたまま、もう片方の手で橋を示した。
警備の一人が積み荷を乗り越えてくるのが見えた。
「栞さん。あの人のところまで」
俺が指すと、栞はようやく橋を見た。それでも、ダリアの袖に目が戻る。
ダリアは棒を構え直した。
「先に行け。すぐ追いつく」
栞の布靴が、一歩前へ出た。
俺はその隣へ下がり、背後へ腕を残したまま、開いた道を通って橋へ向かった。




