格好悪く走る
出かける前に靴の底を見せてくれと言われる生活にも、栞は慣れてきたらしい。
翌朝、玄関で待っていた栞は、俺がしゃがむと片足を少し上げた。布靴の底はまだ擦り切れていない。昨夜の夜市で歩いた分を確かめ、今度は袖の留め具に緩みがないか尋ねる。
「大丈夫です。これ、落ちない」
栞は両腕を振ってみせた。袖の花が揺れる。
玄関の向こうでは、小柄な女が荷車へ道具箱を積んでいた。俺たちに気づいて会釈をしたので、栞へ紹介した。
「あちらが作った方です。ドワーフのミナ」
「……あ。最初に、靴を置いてくれた人?」
「ええ。洗うときにも預かってくれました」
栞は自分の袖を示し、少し声を張った。
「これ、ありがとうございます。花、かわいいです」
ミナは箱を荷台へ置いてから、両手を前掛けで拭った。返ってきたのは小さな会釈と、照れたような笑顔だった。
栞も頭を下げる。ミナが最後の箱を固定し、荷車を押して出ていくと、栞は袖の花をもう一度見た。
「言えてよかった」
俺は頷き、戸口へ向かった。
今日は草原側の集落へ行く。明日の祭りに合わせ、今夜は近くの野営地に泊まる予定だ。寝る場所も着替える場所も別にあると説明したうえで、昨晩、栞に行くかどうか尋ねておいた。
返事は、外で寝るのはちょっと気になる、だった。続いて、行ってみる、と言ったので、寝具を一組増やした。
その「気になる」が楽しみなのか不安なのか判断しかねているうちに、戸の外からダリアが顔を出した。
「おはよう。眠れた?」
「はい」
「じゃ、行こうか。疲れたら途中で言って」
獣人のダリアは肩に長い袋を担いでいた。膝までの丈夫な靴に、動きやすそうな短い上着。栞を部屋へ案内したときよりも、ずっと遠出に向いた格好だ。
栞はその袋を見上げた。
「それ、何ですか」
「遊ぶ道具。あとは仕事の」
「仕事?」
「祭りの手伝い。栞はやらなくていいよ」
俺たちは荷物を載せた乗合の荷車へ向かった。客用の席には、日差しを遮る布屋根が掛けられている。ダリアが足掛けを下ろすと、栞は自分で乗り込み、俺のマントが車輪へ近づくのを指さした。
「レオンさん、それ」
「分かっています」
分かっていたが、足掛けに片足を置いてからでは直しにくい。ダリアが布の端を持ち上げてくれた。
「置いてくりゃよかったのに」
今日は脱げる機会があれば脱ぐ。俺はそのつもりで、二人の向かいへ腰を下ろした。
森の陰が途切れるまで、道は緩やかに下っていた。
枝の隙間から見えていた空が、やがて頭の上いっぱいに広がる。栞は布屋根の端から顔を出した。波のようにうねる草の向こうで、家々の低い屋根が光っている。
「あそこまで行くんですか」
栞に尋ねられ、ダリアが片膝を立てた。
「そう。明日はあの広場に店が並ぶ」
「今日、何もない?」
「だから走れる」
「走る?」
ダリアは袋の口を開け、小さな革の輪を取り出した。栞が受け取って両手で曲げる。中に何か詰まっているが、見た目より柔らかい。
「それを棒に掛ける。走っていって、戻ってくる。それだけ」
「体育みたい」
「競争したくなければ、一人ずつでもいい」
栞は輪を返さず、しばらく膝の上で転がしていた。
集落に着くと、祭りの準備はもう始まっていた。屋根のない広場へ杭が並び、大きな布が少しずつ日陰を増やしていく。
荷車を降りた先で、リュカが膝をついていた。揺れる支柱の根元に手を当てると、土から出ていた細い木の根が杭へ絡みつく。横から布を引かれても、支柱は傾かなかった。
栞は足を止めた。
「リュカさん、ああいうこともできるんだ」
俺は倒れかけた荷物を直しながら答えた。
「木の根で足元を留めています。土も根もないところでは、あのやり方はできませんが」
リュカは俺たちへ片手を上げ、また支柱に向き直った。いくらでも話したいことはあるのだろうが、今は布を持って待っている者がいる。
少し先では、先に着いていたミナが荷車から薄い板を下ろしていた。畳んであった板を広げると、脚が斜めに張り出す。足元の留め金を踏んで固定すれば、人の背ほどある仕切りになる。
ダリアが横を通るついでに板を押したが、動かなかった。ミナが留め金を外すと、今度は一人で向きを変えられる。
栞が俺の横から覗いた。
「お風呂の囲いみたい」
「今日は風よけです。夜は着替える場所にも使います」
「あ、助かる」
ミナは荷台に残した一組へ布を掛け、道具箱を仕切りの陰へ運び始めた。俺たちも作業の邪魔にならないよう、広場を抜ける。
ダリアが案内したのは、集落の外れにある短く刈った草地だった。低い棒が間隔を空けて立っている。小さな者も大きな者も、輪を抱えてその間を走っていた。
栞は鞄の鳥を指で包んだ。
「私、速くないですよ」
「輪が掛かればいい。速いのはその後」
ダリアは荷物を日陰へ置き、地面の線を靴先でなぞった。
「まず、あそこの棒まで。輪を掛けて戻る」
「外したら?」
「拾って、掛ける」
「遠くに飛んだら」
「遠くまで拾いに行く」
栞が俺を見た。俺は鞄を預かろうと手を差し出した。
「そこは、そうなるようです」
昨日ダリアへ頼んだのは、人間の足でもできる遊びにしてほしい、ということだけだ。わざと負けろとは言っていないし、言ったところで聞く相手でもない。
栞は輪をいったんダリアへ返し、俺に鞄を渡して髪を結び直した。
「一回だけ」
ダリアは輪を栞へ返し、出発の線から離れた。
最初の数歩は慎重だった。栞は棒の手前で速度を落とし、輪を両手で持ち上げる。投げる必要はないのだが、少し離れたところから掛けようとしたため、輪は棒の先へ当たって跳ね返った。
「あっ」
栞が追いかける。輪は傾斜を見つけ、思いのほかよく転がった。
ダリアが笑いながら後を追ったが、手は出さない。栞はようやく輪を拾い、今度は棒の目の前まで戻って、上からすっぽり通した。
帰りは走らず、早足だった。
「……余計に走った」
俺は水を差し出した。
「行きより帰りが短くてよかったですね」
「レオンさんもやってください」
「私は荷物を」
ダリアが俺の腕から鞄を取った。
「持ってるよ」
準備がいい。頼んだときには、俺も走るとは言わなかったはずだ。
マントを外して荷物へ重ねると、栞は初めて俺の服全体を見たという顔をした。
「脱げるんですね、それ」
「服ですので」
「でも、ずっと着てたから」
俺は輪を受け取り、話を打ち切るためにも出発した。
棒までは問題なかった。輪も一度で掛かった。帰りに栞とダリアが並んでこちらを見ているのに気づき、つい速度を上げたのが悪かった。
線の手前で足がもつれ、止まるつもりが三歩余計に進んだ。転びはしなかったが、二人の目の前で膝に手をつくことになった。
栞が水を差し出してくる。
「行きより帰り、長かったですね」
俺は受け取った。覚えなくていいことだけは、すぐ覚える。
ダリアは腹を抱えていたが、自分の番になると俺たちから遠い棒を選んだ。そこまではよかった。輪を掛けて戻る途中、草へ足を滑らせ、尻もちをついたのだ。
栞が立ち上がりかける。
ダリアは片手を上げて無事を示すと、座ったまま靴の裏を見た。草がべったりついている。
「欲張った」
それを聞いた栞が、とうとう声を出して笑った。
ダリアも笑い、尻についた草を払いながら戻ってくる。栞はまだ笑っていたが、相手の服へ手を伸ばしかけて止めた。
「背中にもついてる。取っていいですか」
「頼む。そこは届かない」
栞が草を取る間、俺は水の瓶を開けた。さっきから日陰の位置が動いている。荷物を寄せ直すと、栞もそこへ座り、片足を投げ出した。
「顔、赤くないですか」
ダリアは栞の顔を覗いた。
「赤い。暑い?」
「それは、そう。変じゃない?」
「あたしも赤いよ」
「毛で分かんない」
ダリアは耳の付け根を指で押さえた。
「この辺、熱い」
栞はそれを見て笑い、濡らした布を頬へ当てた。俺はもう少し休んだほうがいいと思ったが、その必要を口にする前に、二人とも日陰へ足を伸ばしていた。
その間に、祭りの世話役が俺を呼びに来た。栞をダリアに任せ、声の届かないところまで少し離れる。
明日、魔王を迎えることに抗議する者が来るという。毎回ではないが、以前にもあった話だ。いつ帰るか分からない者を、国をまとめる象徴にするべきではない。意見は分かる。
抗議をする場所は広場の外に取り、来客の道とは分ける。橋と入口には警備がつく。世話役から渡された配置図にも、その印があった。
武器を持ち出すという話はない。俺は配置と連絡役を確かめ、何か変わればすぐ知らせてくれと頼んだ。
日陰へ戻ると、栞が布を畳んでいた。
「何かありました?」
「明日の案内の確認です」
間違いではないが、全部でもなかった。まだ起きてもいない抗議の話で、せっかくの午後を曇らせることはないと思った。ダリアには配置図を渡し、俺は水の残りを確かめた。
栞は俺たちを交互に見てから、草地の棒へ顔を向けた。
「あれ、今度は転がさずにできそう」
ダリアが輪を差し出す。
「今日はここまででもいいよ。明日、脚に来るから」
「筋肉痛?」
「たぶん」
栞は一度、自分のふくらはぎを揉んだ。それでも輪を受け取ると、線の前へ戻っていく。
「もう一回やる」




