帰らなくていい休日
夜市へ行く支度に、一番時間がかかったのは俺だった。
栞は夕食を食べ終えると、もう鞄を肩へ掛けていた。昨日も使った布靴を履き、袖は、俺が渡した花模様の留め具で留めている。リュカも廊下で待っていた。俺だけが部屋へ戻り、夜が冷えた場合の上着を足して、水の瓶を替え、何かを買ったときの袋を探していた。
連れていく相手の荷物より、連れていく側の荷物が増える。以前にも覚えのあることだが、その頃の俺は黒いマントで出かけてはいなかった。
廊下へ出ると、栞が俺の肩の袋を見た。
「そんなに遠いんですか」
「すぐそこです」
リュカが口元を隠した。
お前にだけは笑われたくない。
昨日の書庫へ向かう道から一本下りると、灯りの数が急に増えた。
枝の両側に張り出した床へ店が並び、屋根から屋根へ細い綱が渡っている。吊られた灯りが揺れるたび、木の実や布地の色が変わった。上にも下にも人が歩き、売り手と客は手すり越しに値段を言い合っていた。
翼のある客が店の裏へ降り、巻いた布を受け取ってまた飛んでいく。すぐ横では、同じ荷物を階段から持ち上げてきた者が、息を切らして腰を下ろしていた。
栞は両方を見送った。
「便利な人は、便利なんですね」
「羽のある方にも、狭い通路では苦労があります」
俺の肩の袋が、張り出した看板へ当たった。
栞がそっと看板を押さえてくれた。礼を言って通り抜ける。今の話に自分を含めるつもりはなかった。
少し進んだところで、栞が道の端へ寄った。
「買ってもいいんですよね」
「ええ。そのためにお渡ししたので」
栞は出がけに渡した小袋を開けた。当面の生活費に、小さな買い物の分も入っている。持ち物を失くしていないか確かめるように、袋の口をもう一度開き、丸い硬貨を一枚つまんだ。
「これ、いくらくらい?」
リュカが隣の屋台を示した。
「そこの焼き菓子なら二つです」
「なるほど」
数字を並べるより話が早かったらしい。栞は硬貨を戻すと、今度は左右の店を見ながら歩き始めた。
宝石を編み込んだ首飾りの店で立ち止まり、その隣の香油の瓶を覗き、どちらにも手を出さず先へ進んだ。店の者も呼び止めなかった。
次に栞が足を止めたのは、木の匙や、小さな箱を売る店だった。
軒から短い紐が何本も下がっている。先についているのは、丸い木の鳥だった。薄い羽をきれいに彫ったものもあれば、腹がやけに大きいものもある。
栞はその一つへ手を伸ばしかけ、隣のリュカを見た。
「これ、触っても大丈夫ですか」
リュカは売り台の端にある札を示した。手に取って選べると書いてある。
「ええ。私も持ってみます」
栞は鳥を手のひらへ載せ、親指で腹を撫でた。ひっくり返して握ると、胴の丸みにちょうど指が収まる。
「なんか、いい」
リュカは隣から別の鳥を持ち上げた。長い尾に透かし彫りが入っている。
「こちらも同じ木ですね」
「そっちは、すごい」
栞は二つを見比べ、自分の手の中の鳥をもう一度撫でた。
「でも、こっちがいいかも。丸いから」
リュカは尾の長い鳥を戻した。
「握るなら、確かに」
「この顔も、ちょっと眠そうで」
「目を彫る位置が低いんですね」
「そんな冷静に言わないでください」
俺は二人の後ろで、吊られた紐を袋に引っ掛けないよう避けていた。リュカが鳥の腹に使われている木について話し始めたので、止めるかどうか栞を見たが、本人が、育つのに三百年ですか、と先に尋ねた。
リュカが真顔になった。
「これは、そこまでは」
「そこは短いんだ」
栞は笑い、鳥についた値札を裏返した。小袋から硬貨を選び、一度俺へ見せた。
「これで足ります?」
「はい。お釣りが来ます」
会計を済ませた栞は、釣りをしまった小袋の口をきちんと結んで戻ってきた。鳥のほうは鞄の持ち手へ。
店を離れてからも、栞は何度かその丸い腹を撫でていた。歩くたびに鳥が鞄を叩くので、立ち止まって紐を短く結び直す。もうすっかり自分の鞄の一部になっている。
「写真だと、たぶん地味ですよね、これ」
鞄を持ち上げ、俺たち二人へ向ける。
リュカが鳥を見た。
「握った感じは、写真には出ませんね」
「そう。そこがいいんだけど」
栞は鞄を下ろすと、そのまま手を離した。スマートフォンを取り出すことはなかった。
次の曲がり角で、今度はリュカが店へ吸い寄せられた。
並んでいたのは、木を切っただけに見える小片だった。真ん中に穴が開いている。栞が俺を見たので、分からないという意味で首を振る。
リュカが一つ取って軽く吹くと、高い音が出た。隣の小片に持ち替え、もう一吹き。今度は少し低い。
「笛?」
栞が近づくと、リュカは二つを並べた。
「鳥寄せです。薄いところを削ると、音を合わせられます」
「鳥が来るんですか」
「合えば」
俺は三歩戻り、隣へ立った。
「前に買っていなかったか」
「別の鳥の声なんです」
「そうか」
同じ道具を幾つも持つ人間へ、その質問は役に立たない。今の返事も覚えがあった。俺も日本では似たような言い訳をして、妻に置き場所を聞かれたことがある。
栞が笛の穴を覗き込んだ。
「削る前は、何の声ですか」
「まだ、どの鳥でもありません」
「じゃあ、それで呼んだら、誰か来るんですかね」
リュカは一瞬考え、笛を唇へ持っていった。
短い音が鳴った。
三人で頭の上の枝を見た。灯りの届くところには、何も止まっていない。リュカは指の位置を変えて、もう一度吹いた。
やはり何も来なかった。
栞は鞄につけた木の鳥を持ち上げ、リュカのほうへ向けた。
「これなら来ましたけど」
リュカは笛を下ろして、眠そうな木の鳥を見た。
「その鳥の声だったんでしょうか」
「何て言ってるんですか」
「もう少し丸く削ったほうがいい、と」
「鳥の注文じゃなくて、リュカさんのですよね」
栞が笑った。リュカも笑い、笛の縁を親指でなぞった。
俺には十分に鳥らしい音だったのだが、本人には削りたいところがいくらでもあるらしい。木片一つを前にして、もう帰ってからの楽しみができている。
リュカはその笛を買った。
栞は、包みを受け取ったリュカへ顔を寄せた。
「買うんだ」
「音は、悪くないので」
栞はまた笑い、鳥のついた鞄を肩へ掛け直した。
通りを上りきったところに、空いた長椅子があった。俺はそこへ二人を誘い、水を出した。
栞は近くの屋台に掛かった菓子の絵を見ていた。夕食を食べたばかりだが、見ながら歩けば腹も減るのかもしれない。
「何か召し上がりますか」
「食べたいです。でも、さっきのじゃなくて」
「別のものを?」
「昨日、ここで匂いしたやつ。書庫から出たときの」
リュカが手すりへ近づいた。
「下の通りでしたね。薄い生地を焼く店があったと思います」
「それ、行ってみてもいいですか」
俺が頷く前に、栞はそちらの階段へ数歩進み、そこで止まって振り返った。
「こっちですか」
「一緒に行きましょう」
水をしまい、立ち上がる。用意していた順路では、この長椅子で休んでから、屋敷へ戻ることになっていた。
俺は袋を掛け直した。リュカはもう階段の先にいて、栞と一緒に下を覗いていた。
下の通りへ降りると、油を熱する匂いと、木を削る匂いが混じっていた。俺には昨日と同じかどうか分からなかったが、栞は店先を通るたびに首を傾けた。
薄い生地を焼いている店はあった。リュカがそこを示すと、栞は少し考えてから首を横に振った。
「もうちょっと、甘かった気がします」
「果実を煮ている店もあります」
リュカが奥の屋台を指す。
栞はそこまで行きかけて、別の小さな屋根の前へ戻った。手前では竹に似た筒が並び、その奥に、湯気の立つ籠が積まれている。
「こっちかも」
栞は鞄から取り出した紙包みの端を少し開き、葉の匂いを確かめた。
「あ。これと似てる」
リュカが包みを覗いた。
「同じ葉です。ここでは菓子を包むんですね」
店を知っているわけではなかったらしい。リュカも軒の札を読み、それから栞と並んで籠を覗き込んでいる。緑の葉で包んだ菓子が並び、開いた蓋の間から甘い湯気が上がってきた。
栞が俺へ振り返った。
「これ、食べられますか」
俺は札に書かれた材料を確かめた。過去の少女たちにも出してきた粉と木の実だった。
「大丈夫です。熱いので、葉を開いて少し待ちましょう」
栞は小袋を出し、俺とリュカを順に見た。
「二人も食べますよね」
リュカが頷き、自分の分の硬貨を出そうとした。栞はそれを手で制した。
「見つけたので。私が」
小さな菓子三つで、当面の生活費がなくなることはない。俺は礼を言って待った。
栞は菓子を三つ買うと、木の皿に載せて持ってきた。俺が荷物を脇へ避ける間も、甘い湯気は立ち続けていた。
通りの端にある卓で、三人並んで葉を開く。
白い生地の中には、刻んだ木の実が入っていた。持ち上げると指へくっつき、葉の匂いが一度に立った。
栞は最初の一口を食べて、少し黙った。
俺は口に合わなかったのかと思ったが、二口目がすぐに続いた。
「どうですか」
リュカが尋ねると、栞が口元を拭いた。
「好きです、これ」
「私も初めて食べました」
「案内人なのに?」
「全部の店を知っているわけでは」
栞は食べかけの菓子を少し持ち上げた。
「じゃあ、ここは私のおすすめで」
リュカが自分の皿を持ち上げた。
「次も、お願いします」
俺も食べた。甘すぎず、葉に近いところだけ少し青い香りがする。冷めると固くなるのか、もう一つ買おうかと二人が話している間に、俺の分はなくなった。
帰りの籠に乗る前、栞は手すりから夜市を振り返った。
鳥を買った店も、笛を並べた店も、もう屋根に隠れていた。下の通りからは、まだ湯気が上がっている。
「また買いに来たいです」
「次は少し早い時間でもよさそうですね」
俺が答えると、栞は首を傾けた。
「でも、この時間がいいかも。お昼と全然違うし」
リュカが籠の戸を押さえて待っていた。栞はそこへ向かいかけ、もう一度だけ振り返った。
「こういう日が続けばいいのに」
俺は返事をしかけた。
栞は鞄の鳥を握り、持ち上げて、灯りのほうへ向けた。下から見ると、やっぱり眠そうだと笑った。
俺も鳥を見た。
「そろそろ、持ち主のほうも眠くなりませんか」
「ちょっとだけ」
栞は素直に答え、籠の腰掛けへ座った。
屋敷へ戻ると、栞は玄関でリュカへ向き直った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。菓子の店、また寄ってみます」
「私も行きます」
リュカが頷くと、栞は鞄の鳥を一度撫で、手を振って別れた。
栞を部屋まで送り届け、自分の机へ戻っても、肩には袋の重さが残っていた。水の瓶と使わなかった上着を出し、空いた机で今夜の記録をつける。
長い階段のあとには休憩がいること。夜市で自分から店を選んだこと。木の鳥と、葉に包んだ菓子。
続けばいいと、栞が言ったことも書いた。
その一行だけ、書いたあとでもう一度読んだ。




