誰にも見せない物語
翌日の夕方、栞は待ち合わせより少し早く部屋を出てきた。
昨日もらった葉を持ってきたらしく、廊下を歩きながら、匂いがまだすると教えてくれた。昼間はよく眠れたそうだ。昨日の散歩から戻ったあとも、夕食を食べると早々に寝ていたから、悪いことではない。
リュカはその葉にまつわる詩もありますと言い、栞はまず本を見てからにしますと答えた。
この調子なら、今夜は俺が話を止める回数も少なくて済みそうだった。
樹上の書庫へ着く頃には、空の青が濃くなっていた。
丸窓の幕は開いていた。外から見ると暗い建物なのに、中へ入ると、棚の隙間や読書机に小さな光が浮かんでいる。入口の展示台には一冊の本が開かれ、その上で雪が降っていた。
栞は入口で足を止めた。
「え、雪」
近づいて覗き込む栞の前で、小さな屋根に雪が積もっていく。時々ひとかたまりが滑り落ちるが、本を越えて台の上へ散ることはない。
リュカが栞の隣へ立ち、声を落とした。
「本の絵です。光を留める顔料を使って、動くところまで描いてあります」
「映像ってこと?」
「そう呼んでも。書かれたものしか出ませんが」
栞は本の端から屋根を覗き込み、展示台に手をつくのをためらって俺を見た。
「これ、普通に借りていいやつなんですか」
「ここで読むなら。外へ持ち出せない本もあります」
「壊したりしない?」
「閉じれば消えます。まずは薄いものから見ましょうか」
日本にいた頃、図書館で静かにしなさいと子供に言うことはあった。あの本棚から雪が降っていたら、俺のほうが先に声を上げていたと思う。
書庫の奥には、三人で囲める低い机が空いていた。椅子を引いたリュカが、栞に席を勧める。
「ここなら香りのある本も開けられます。隣と混ざらないので」
机の上では、天井へ続く細い筒がゆっくり空気を吸っていた。入口の展示台にはなかったものだ。書庫にも換気の都合がある。
栞が座ると、リュカは棚へ向かった。俺は壁際の低い棚から、茶色い本を一冊抜いた。
出かける前に記録を見直しておいた。以前ここへ連れてきた少女たちが、どの本を途中で閉じ、どの本をもう一度開いたか。異なる部族の成り立ちを延々と読むより、まず短い話のほうが入りやすい。その程度のことでも、実際に試すまでは分からなかった。
今回の栞は、昨日の木の家で、洗濯物に笑っていた。窓の向こうにも普通に人が暮らしていると分かったときの顔を覚えている。
それで、この本を選んだ。
席へ戻ると、リュカはもう厚い一冊を机へ置いていた。表紙に描かれた木から、細い根の模様が背表紙へ回っている。
「『谷の三百年』です」
栞が表紙を見た。
「三百年分あるんですか」
「大事なところだけですが」
俺は椅子へ座りながら、茶色い本を手元へ伏せた。大事なところの数については、各自に違いがある。
リュカが本を開くと、ページの間から青い霧が立ち上った。二つに分かれる霧の底には川が流れ、両岸から伸びた枝が触れ合って橋を架ける。
栞は椅子の上で背を伸ばした。
「近くで見ても?」
「ええ。触れても通り抜けるだけです」
栞が指を差し入れた。爪に小さな橋が重なり、欄干の向こうから川が透けて見える。
次のページで橋の脇に小屋ができ、その次には水車がついた。灯りが増える。雨が降り、芽が出て、また雨が降った。湿った土の匂いが机を満たし、頭の上の筒へ吸われていった。
「木、伸びてる」
栞は顔を近づけていた。
「根の張り方まで描き分けているんです。ここを見てください」
リュカが余白を押さえると、下から見た絵へ変わった。細かな根の間を水が抜けていく。
しばらくして地上に戻り、また雨が降った。
栞が椅子へ座り直した。
雨がやんで、枝が伸びた。
「今、何年くらいですか」
「最初の十年ほどですね」
「十年」
栞は本の残りの厚みを見た。
リュカが次のページへ指を掛けたところで、俺は水の瓶を机へ置いた。
「少し休まないか」
「この次で水路が――」
リュカは言いかけて、栞を見た。
「退屈でした?」
栞はすぐに首を横に振り、それから止まった。
「絵は、すごいです。水もきれいだし」
「でも?」
「木が育つところ、ちょっと長いかも」
リュカは本を見下ろした。水滴が根の先に集まっている。
「私は、ここが好きなんですけどね」
「あ、すみません」
「次の水路まで飛ばしましょうか。それとも、レオンの本を?」
リュカは指を挟んだまま俺を見た。残念そうではあったが、本を返された人間が傷ついたというほどの顔でもない。俺の手元の一冊を、本人も気にしている。
栞は茶色い表紙を覗いた。
「そっちは、何ですか」
俺は机へ本を滑らせた。
「『靴屋の朝』。あまり木は育ちません」
栞が小さく噴き出した。リュカも笑い、三百年のほうを閉じた。
栞が最初のページを開いた。
靴が並んでいた。大きな靴、小さな靴、爪先に穴が開いた靴。棚の一番下で、六本足の猫が眠っている。
「足、多い」
栞が数えている間に、猫は目を開けた。
靴屋が棚へ置いたばかりの赤い靴をくわえ、机の下へ潜っていく。次のページでは、店の客が大きな靴を試していた。客が片足を上げた隙に、猫はその足元へ赤い靴を押し込んだ。
「それじゃない、それじゃない」
栞が囁いた。
客は気づかず立ち上がり、片足だけやけに小さな靴で歩こうとした。猫は棚の下へ戻り、前足を舐めている。
リュカが本の端へ身を寄せた。
「右の棚も見てください」
「え?」
「最初のページより一足減っています」
栞がページを戻した。
「あ、ほんとだ」
俺は栞がまた先へ進めるのを待った。猫は見る人の都合に構わず、同じ赤い靴を盗んだ。決まった絵だと分かってからも、栞は間に合わないよと声を掛けた。
そのうち店の隅に積み上がった靴から、猫の尻尾がはみ出した。
「隠してるつもりなんだ」
栞は笑い声が少し大きくなると、口を押さえた。まだ肩を揺らしたまま、猫の尻尾を指さす。リュカもそこを見て、声を抑えて笑った。
終わりの近くで、靴屋の家族が奥の部屋から出てきた。
子供が床の靴を拾おうとし、今度は猫がその靴の中へ入ろうとする。母親が子供を抱き上げた。父親は片膝をついて、手にした小さな靴の底を叩いている。猫が出てこない。
栞が肩を揺らしていた。リュカは、もう一本足が出ている、とその横から教えていた。
俺は服の上から胸元へ手を置いた。布の下には細い鎖と、その先に下がった指輪の硬さがある。
日本から持ってきたものではない。こちらの赤子として生まれたとき、指輪どころか、身につけていたものは何一つ残らなかった。手元に置きたくて、覚えている形を職人へ伝え、作ってもらったのだ。
幅はもう少し狭かったかもしれない。内側の丸みも違う気がする。出来上がったときには細かな直しを頼んだのに、今はどちらが元の形だったか自信がない。
妻が渡してくれたほうを、もう一度、並べて確かめたい。
ページがめくられた。
栞が俺を見ていた。視線が胸元へ下がり、それから、開いた本へ戻った。
「レオンさん、これ」
栞が余白を指す。
「猫の足、最後まで一本靴に入ってる」
俺は手を下ろし、机へ近づいた。店はすっかり片づいている。猫もすました顔で寝ていたが、一番後ろの足だけは赤い靴から抜けなくなっていた。
「本当ですね」
「自分でやったのに」
栞は笑いながら本を閉じ、もう一度、最後のページだけ開いた。猫はやはり靴を履いていた。
机の上から光が消えると、向かいの丸窓が目に入った。いつの間にか外は暗くなっている。
「面白かったです」
栞は表紙の猫を指でなぞり、俺に向けた。
「よく分かりましたね。こういうの好きなの」
「昨日、洗濯物を見て笑っていたので。こちらの暮らしが出てくるものをと思いまして」
前に来た者たちの記録の話までは、しなかった。
栞は表紙を見ながら頷いた。それから、机の脇へ寄せられた厚い本に目を向けた。
「リュカさんのも、水路のところは見たいです」
リュカの手が伸びた。
「では、ここから」
「何年分ですか」
「三ページです」
「三ページなら」
今度は、俺も先に覗き込んだ。
枝に吊られた水路が一本切れ、修理に来た者が古い図面を広げていた。紙に書かれた線より、本物の木のほうが大きい。図面をひっくり返しても長さは合わず、隣の者が無言で新しい紙を差し出した。
「あ。木の都合」
栞が言った。
リュカが頷く。
「待ってくれませんから」
三ページ目で、新しい水路へ最初の一滴が落ちた。隅に溜まった水は二滴目であふれ、やがて枝を一周する流れになる。さっきまで乾いていた葉が、一枚ずつ起き上がっていく。
リュカはその水を、じっと見ていた。
栞は最後まで待ってから、本から少し顔を離した。
「そこは、好きかも」
「最初からここをお見せすればよかったですね」
「でも、三百年のうちの三ページですよね」
「ほかにも、いいところはあります」
俺は瓶の栓を閉めた。
「その続きは、また今度だ」
リュカは名残惜しそうに本を閉じたが、栞はもう一度来てもいいんですか、とこちらを向いた。
いい返事をしたくて、少し力が入りかけた。
俺は瓶を袋へしまってから頷いた。
「開いている夜なら」
書庫を出ると、道の手すりに低い灯りが点っていた。
下の道では、幾つかの店が屋根を開き始めている。吊られた看板が風に揺れ、甘いものを焼く匂いが上がってきた。
栞が足を止めた。
「今からお店が開くんだ」
「夜市です。今夜はもう遅いので、よければ明日」
俺が言うと、栞は頷いた。今日はよく歩いた。まだ店を見下ろしてはいたが、自分から帰り道へ足を向けた。
リュカは返却の札を置き忘れたと書庫へ戻り、俺たちは戸口の脇で待った。
栞が、閉じかけた窓を見上げて言った。
「面白かった、だけでもよかったんだ」
「本の話ですか」
「うん。何か見たあとって、ちゃんと言わないと、って思うから。どこがよかったとか、どういう意味だったとか」
栞は鞄の肩紐を直した。
「人の感想見てから、自分のがずれてないか確かめたり。別に、誰かに言われたわけじゃないんですけど」
戸の内側でリュカが棚を動かす音がした。置いた札を探しているらしい。
俺はそちらを見てから、栞へ顔を戻した。
「あいつは次に来ても、水路の話をすると思いますよ」
「だと思います」
栞は笑った。
「私、猫の話しかしなかった」
「片足、抜けませんでしたね」
「そう。それだけ」
栞は鞄を胸へ抱き直した。中の紙が、小さく音を立てた。
「日本にいたときより、今日の方が楽だった」




