絵本みたいな案内人
散歩という言葉の信用は、誘った相手が普段どれだけ歩くかによって決まる。
リュカの場合、目的の場所へ着くまでより、その途中で立ち止まっている時間のほうが長い。歩く距離を尋ねても参考にならないので、出発前に、今日は夕食までに戻るぞ、とだけ伝えておいた。
「もちろん。すぐそこですから」
庭の門を開けながらリュカが答えた。
俺はその返事を覚えておくことにした。
庭の門を抜け、俺たち三人は屋敷の裏手へ回った。敷石の道が緩く上り、その先で木陰へ入る。栞はリュカから半歩遅れて歩いていた。庭では質問もしていたのに、今は道を譲られるたびに小さく会釈している。
リュカは昼の光の中でもよく整っていた。葉の間から落ちる光まで、わざわざ彼の髪を選んでいるように見える。横にいる俺は、晴れた日に黒いマントを着て散歩に出た男である。暑い。
「足元は歩きにくくありませんか」
リュカが振り返った。
栞は上着の裾を引いてから、首を横に振った。
「大丈夫です」
「途中までは石の道です。その先も板が敷いてあるので」
「はい」
道の向こうに太い木の根が現れた。根は敷石を押し上げるのではなく、道をまたぐように曲がっている。俺たちはその下をくぐった。
その先を、茶色い壁が塞いでいた。左右へ目をやっても端がない。表面の深い溝には草が生え、見上げれば、その壁から枝が伸びている。
栞が立ち止まった。
「……これ、全部、幹?」
リュカも隣で足を止めた。
「ええ。入口はもう少し右です」
「待って。うちの学校、入りますよね」
栞は幹の両端を探すように顔を動かした。
「校舎だけじゃなくて。校庭とか、体育館とか、全部」
俺も木を見上げた。彼女の学校の広さは知らない。だが、学校を丸ごと持ってこないと比べられない気持ちは分かる。俺も初めて来たとき、どこまで離れれば一本の木として見えるのか、ずいぶん後ろへ下がったものだ。
「周りを一周しようとすると、それだけで散歩になります」
「木の周りだけで?」
リュカが幹に沿って続く道を示した。
「今日は上へ行くので、一周はしません」
栞はついていきながら幹へ手を伸ばした。指先が樹皮に触れ、そのまま手のひらが重なる。
「……ほんとに木なんだ」
リュカもその隣へ手を置いた。栞は二人分の手を見比べ、それから首を反らした。鞄が肩から滑りかけても、しばらくは気づかない。
幹から伸びる枝の間には屋根があり、窓があり、白い洗濯物が揺れていた。手すりのついた道が幹を巻き、遠くで隣の木へ渡っている。屋敷から眺めていたときには森に見えたものの、どこまでがこの一本なのか。栞は樹皮から手を離し、枝の行く先を目で追っていた。
リュカは解説を始めずに待っていた。景色を見せたいときにまで喋り続けない、その程度の心得はある。
栞は窓の並んだ枝を見上げた。
「家がある」
リュカもその枝へ目を向けた。
「住んでいますから」
「いや、そうなんですけど。ほんとに」
栞は鞄を掛け直し、窓の一つを指した。窓から出た腕が、干してあった布を引き込むところだった。
「洗濯もするんだ」
俺も上を見た。
「雨が降る前には、皆さん急ぎますよ」
「もっとこう、魔法で一瞬で乾かすとか」
「できる人のところへ全部持っていくと、その人が洗濯で一日を終えることになります」
「それは、嫌かも」
リュカが笑い、幹の根元にある戸口を示した。
「では、上へ。今日は階段は使いません」
戸口の奥には、壁も天井もある大きな籠が収まっていた。腰掛けと、外を見るための細い窓がある。床の端には小麦粉の袋を置いた跡が白く残っていた。
栞は入口で、籠を吊っている太い綱を見上げた。
「これ、乗るんですか」
リュカが先に入り、手すりに手を置いた。
「水の重さで上がります。人も荷物も運ぶものです」
「エレベーターだ」
俺は入口の脇へ退いた。
「似ていますね。乗ってみますか。嫌なら下からでも見られます」
栞は窓の向こうを覗き、片足で床を確かめてから中へ入った。腰掛けに座っても、目はまだ吊り綱のほうに向いている。
「急に落ちたりしないですよね」
リュカは壁際の歯止めを示した。
「途中で止める歯止めもついています」
リュカが戸を閉め、壁の綱を引くと、頭の上で鐘が二つ鳴った。続いて、桶へ注がれる水音。床がゆっくり持ち上がる。
栞は手すりを握りしめ、窓へ顔を寄せている。窓いっぱいに見えていた木の皮が下へ流れ、光が差し込んできた。地面にいた人たちも、もう小さい。
「うわ。うわ、待って」
栞は外から目を離さなかった。止めてほしいというより、見るほうが追いつかないらしい。
籠が屋根の高さを越えると、栞は少し離れたところを指した。
「あれ、道じゃないんですか」
家が何軒も並び、その間を人が歩いている。リュカが窓へ身を寄せた。
「道ですよ。枝の上に敷いています」
「……あれ一本が、枝?」
栞は窓の端まで顔を寄せた。家の下に見える木肌を辿っても、先は葉の向こうへ隠れている。
「下からだと、橋だと思ってた」
さっき手を置いた幹から、その通りが丸ごと伸びている。俺も見慣れた枝を眺め直した。普段は買い物の近道として使うが、一本の枝を渡るだけで用事が済んでしまうのだから、確かに大した木だ。
やがて籠は大きな水槽の脇へ差しかかった。そこから細い水路が何本も分かれ、枝に沿って走っている。
「水も上げてる」
栞が窓を指すと、リュカが隣の窓から外を見た。
「あれは別の揚水器で。生活の水と、木に回す水とを分けています。根から吸い上げるだけでは、上の枝まで十分に行き渡らないことがあって」
籠が止まり、戸が開いても説明は続いていた。
「この木は枝を伸ばす方向に偏りがあるんです。ですから、葉の付き方を見て水路の位置を変える。そのために古い枝を残しておく必要がありまして」
栞は降りた先の床を見ていた。板の継ぎ目から、はるか下の木陰が細く見える。
俺は栞と並び、手すりが途切れない道を示した。
「こちらを歩けば、隙間はありません」
「あ、ありがとうございます」
リュカが振り返った。話の途中だった口を閉じ、栞の足元を見る。
「すみません。速かったですね」
「歩くのは平気です。木の話が、ちょっと」
「多かったですか」
「……はい」
リュカは一度、幹を見上げた。
「まだ根の話しかしていないんですが」
栞が笑った。口を押さえ、それから手を下ろす。
「上まで行ったら、何時間かかります?」
「詳しくですか」
「リュカ」
俺が呼ぶと、ようやく彼も笑った。
「今日は景色を見に来たんでしたね」
そこから先は、三人並んで歩ける幅の道だった。枝の節を避けて緩く曲がり、小さな戸口の前を通る。低い手すりの内側にはもう一本、高い手すりがついていた。どちらを使うかは、通り過ぎる住民によって違った。
栞は顔を上げて歩くようになった。頭の上を別の道が横切り、そのさらに上で、丸い屋根が枝に挟まっている。
「これ、どこまで木で、どこから家なんですか」
リュカの足が止まった。
俺は先に釘を刺した。
「短くな」
「この柱までは木です」
リュカが指を置いた柱には、薄い苔が生えていた。その上に、木目の違う横木が渡されている。
「そこから先は人が組んでいます。木は太くなりますから、間を少し空けて」
「じゃあ、家が狭くなる?」
「放っておけば。時々、壁を動かします」
「引っ越しじゃなくて、家のほうを?」
「ええ」
栞は柱の周りを覗き込んだ。
「木の都合で?」
その言い方が気に入ったらしく、リュカは目を細めた。
「ここでは、かなり優先されています」
俺は話が次の枝へ伸びる前に、曲がり角の長椅子へ二人を誘導した。
栞はまだ歩けると言いかけたが、座ると布靴のつま先を伸ばした。歩き慣れない底だ。俺は持ってきた水を渡し、自分も隣へ腰を下ろした。
最初の散歩は短めに。珍しいものを見ている間、本人は足が疲れていることに気づかない。
前に来た少女のとき、部屋へ戻って初めて靴擦れを知った。それから休む場所を先に決めている。栞が水を飲んでいるうちに、俺は靴の縁で肌が赤くなっていないか確かめた。
栞はコップを膝へ置き、リュカを見た。
「一番きれいなところって、まだ先ですか」
「ここです」
「ここ?」
長椅子の前には、葉の茂った枝が垂れていた。隙間から町の屋根は見えるが、これなら途中の橋のほうが見晴らしはいい。
栞も同じことを考えたらしい。少し腰をずらし、葉の向こうを見ようとした。
リュカは長椅子の背に腕を置いて、上の枝を見ていた。
「風を待ちます」
しばらく、三人で葉を見た。
遠くで水車の軋む音がする。下の道からは、荷車を押す声。栞は水をもう一口飲んでから膝の上で指を組み、動かない葉を見ていた。
「どのくらい待つんですか」
「さっきまでは吹いていたんですが」
リュカの声に、少しだけ困った響きが混じった。
俺は葉の動かない木の上を見回した。この男の一番きれいな場所には、景色の都合もあるらしい。夕食までに戻るという話を蒸し返すには、まだ早かった。
栞が身を乗り出した。
「ねえ、下から音しません?」
木々の低いところから、乾いた音が近づいていた。雨粒が屋根に当たるような音だ。だが、頭の上には雲がない。
リュカが背もたれから腕を離した。
「来ますよ」
目の前の枝が持ち上がり、緑だった葉が一斉に銀色へ裏返った。奥の枝、そのまた奥の枝と、色の変わるところが走っていく。さっきまで隠れていた屋根と橋が、葉の隙間から顔を出す。
風が道を抜けた。俺のマントが膨らみ、栞が髪を耳へ押し込んだ。その間にも、銀色の波は森の向こうへ進んでいた。
「すご」
栞の声が、葉の音に混じった。
風がやむと、町はまた緑の奥へ隠れた。リュカは栞を見ていた。俺はその顔を見て、今ここで感想を尋ねるのだけはよせよ、と思った。
栞のほうから振り返った。
「もう一回、来ます?」
「ええ。しばらく待てば」
「待ちたいです」
リュカは今度こそ、黙って隣へ座った。
栞は鞄からスマートフォンを取り出した。画面を点け、森へ向けかけたところで親指が止まった。明るい画面は、こちらからは見えない。栞は少しそのままでいて、やがて消した。
何も言わず、鞄へ戻した。
リュカは下へ垂れた枝から、落ちかけていた葉を一枚受け取った。表は深い緑で、裏は細かな毛に覆われている。
「触ってみますか」
差し出された葉に、栞が指を伸ばした。
「ふわふわ」
「それで光を返すんです。さっきの銀色は」
「光るわけじゃないんだ」
「自分では。少し、手で包んでみてください」
栞が両手を合わせた。隙間へ鼻を近づけると、顔を上げた。
「いい匂い」
俺のところまで、甘さの混じった青い香りが届いた。葉の匂いなのだが、茶の袋を開けたときに少し似ている。
リュカは栞の手の中の葉を指した。
「温まると香りが出ます。乾いてもしばらく残りますよ」
「これ、もらってもいいですか」
「もちろん」
リュカが懐の紙から何も書いていない一枚を選んで渡すと、栞は葉を包んだ。端を二度折り、鞄の内側へ丁寧にしまう。拾った葉にも、ちゃんと持ち帰る場所ができた。
「次は音で分かるかも」
栞は森の下のほうを見ていた。
「風が来るとき、下から順番に鳴ってた」
「よく聞こえましたね」
リュカが嬉しそうに同じ方角を見るので、俺も口を挟まずに待った。次の風を待つくらいなら、夕食には間に合う。
二度目の銀色を見てから、俺たちは来た道を戻った。
途中、栞が大きな丸窓のある建物に気づいた。窓の内側には厚い幕が掛かっていて、戸にも木の札が下がっていた。
「あそこは?」
「書庫です」
リュカが答えた。
「入れないんですか」
「昼は閉めています。本を見るなら暗いほうがいいので」
「逆じゃない?」
リュカは戸の前まで行き、札を裏返してみせた。月と、開いた本の絵が並んでいる。
「本のほうが、光るんです」
栞が俺を見た。俺は肩をすくめた。
「説明より、見たほうが早いかと」
俺たち二人の顔を順に見て、栞が笑った。
「そういう誘い方するんだ」
リュカが札を戻した。
「明日の夜、お連れしても?」
「行きたいです」
今度の返事までに、間はなかった。




