形だけの魔王
「それなら、明日、顔を合わせてみませんか」
俺が言うと、栞は食べ終えた皿から顔を上げた。
「みんなと?」
「まずは、この建物に出入りする人たちへ、短く挨拶を。水を持っていた彼とは、昼食も一緒にどうでしょう」
「リュカさんも?」
「ええ」
ようやく名前で呼ばれるようになったと本人に知らせれば喜ぶだろうが、聞けばまた水をこぼさなかった話が始まるので、黙っておくことにした。栞は食卓の縁に指を揃え、俺へ確かめた。
「挨拶だけでいいんですか」
「そのあと、一緒に昼食を。長くは掛かりません」
栞は机の端に置いた鞄へ手を伸ばし、閉まらなかった留め具をもう一度合わせた。今度は小さく音がした。
「……じゃあ、やってみます。魔王」
「よろしいのですか」
「やってみていいって言ったの、そっちですよ」
「そうでした」
「ずっと、とかは分かんないですけど」
その念押しにも頷いた。栞は鞄を抱え直さず、机の脚へ寄せた。
「あと、魔王って呼ばれるのは、ちょっと」
「皆には雨宮さんとお伝えしましょうか」
「栞でいいです。呼び捨てじゃなくて、栞さんとか」
「では、そのように」
俺が食器を重ね始めると、栞もコップを皿の横へ寄せた。その手を止め、俺を見上げる。
「そういえば、名前」
「はい?」
「あなたの。まだ聞いてないです」
相手の名前と来た時刻は聞いたくせに、自分の名前は名乗っていなかった。俺は手にした皿を置き直した。
「レオンです。皆もそう呼びます」
「レオンさん」
「はい」
「明日、近くにいてくださいね」
顔を上げると、栞はこちらを見ていた。
「まだ知らない人もいるんですよね。何話したらいいか分からないので」
「隣にいます」
そう答えてから食器を持ち上げた。今度は栞も俺を呼び止めなかった。
部屋を出て、翌日の顔合わせを頼んで回った。
新しい魔王が挨拶をしてくれると伝えると、皆、まず無事に落ち着けたかと聞いた。食事を取ったと答えれば、何を食べたか、足りたかと話が延びる。鍋を一つ増やそうとする者もいたが、昼食を二度用意されても食べる人間は増えない。そのあたりを調整しているうちに、庭木の灯りが窓へ映る時刻になった。
最後に自分の机へ戻り、昼間の記録用紙を開いた。
雨宮栞。日本の日付と時刻。
明日は、この名前を皆に紹介する。
いずれは同じ名前を、帰還のために使うかもしれない。
転移者が一人来るたび、日本へ戻せるのは一人だけだ。
向こうへ抜けたあとで振り返り、次の人のために扉を押さえておく、というわけにはいかない。俺も一緒に帰れるのなら、ずっと前にそうしている。
何人も帰した。最初から帰りたいと言っていた子も、この国を気に入っていた子も、最後には自分で帰ると決めた。俺は支度を手伝い、忘れ物を確かめ、見送った。そのたびに、次に来る子はどうだろうと考えた。
心からここに住み続けたいと思う子が来れば、その一人分を俺が使えるかもしれない。
転生した魔族が帰った前例はない。試してみて、やはり駄目だったということもあるだろう。だが、試すところまでさえ、俺はまだ辿り着いていない。
栞の返事を思い出した。
ずっと、とかは分かんないですけど。
魔王を引き受けたくらいで、俺の荷造りを始めるわけにはいかない。それでも、明日の昼食を用意する手に張り合いが出たのは事実だった。この国にはいいところがある。見せたい場所も、会わせたい連中も、いくらでも思いつく。
紙をしまうと、俺は顔合わせの席順をもう一度見直した。
翌日の昼前、客室を訪ねると、栞は借りた服の袖をきちんと折り返して待っていた。
「これで大丈夫ですか」
「ええ」
「もっと、ドレスとか着るのかと」
「着たいのでしたら用意できますが」
「今日はいいです」
栞が鞄を持ち上げると、折った袖の片方が落ちた。鞄を下ろして巻き直そうとする手を、俺は声をかけて止めた。
「昨日の袖のことですが。これを使ってみませんか」
持ってきた包みを机へ置く。中には、小さな留め具が一対入っていた。工房へ朝のうちに頼んでおいたものだ。
俺は一つ開き、自分の袖に挟んでみせた。
「折ったところを、こうして。押せば外れます」
「縫わなくていいんだ」
「まずはこれで試していただければ」
栞は受け取った留め具へ顔を近づけた。
「あ、花がある」
表面に小さな花が一つ。そこまでは注文していない。袖が落ちないように、としか頼まなかったのだが、作った本人にも何か足したくなるところがあったらしい。
栞は花を親指でなぞった。
「かわいい。つけていいですか」
「そのために持ってきました」
栞は両方の袖を自分で留めた。腕を曲げ、鞄を持ち直しても、今度は手の甲へかかってこない。
「ありがとうございます」
「具合は、あとで作った方にも伝えておきます」
栞は袖の花をもう一度見てから、俺と廊下へ出た。
顔合わせは庭に面した広間で、挨拶だけにしてもらった。食事や部屋の世話をする者たちが待っていたが、順番に自己紹介を始める用意はしていない。皆の前へ出た栞の隣で、俺は名前と、当面の魔王を引き受けてくれたことを伝えた。
「雨宮栞です。高校……」
栞はそこで口を閉じた。皆の顔を見渡し、言い直す。
「栞でいいです。よろしくお願いします」
会釈が返ってきた。栞も頭を下げ、顔を上げると俺を見た。
「……私、ほかに何かするんですか」
「いいえ。あとは食事にしましょう」
「これだけでいいんだ」
挨拶が済むと、皆はそれぞれの仕事へ戻った。栞は俺の隣でその足音を聞き、最後の一人が廊下へ出ると、大きく息を吐いた。
「高校の名前まで言いそうになりました」
「こちらでは、学校名を言っても場所が分かりませんからね」
「ですよね。自己紹介って思ったら、つい」
栞が鞄を掛け直すのを待ち、俺は庭側の小さな食堂へ案内した。
窓辺の卓には三人分の皿が並び、エルフのリュカが水差しを置いて待っていた。栞が立ち止まると、リュカも椅子を引く手を止めた。
栞は先に頭を下げた。
「昨日は、すみませんでした」
「いえいえ」
「鞄、当たりませんでした?」
「この通りです」
リュカは髪を耳に掛けてみせた。栞はその長い耳と顔を交互に見てから、水差しへ目を落とした。
「水、こぼさなかったって聞きました」
「そうなんです」
リュカは水差しを持ち上げ、昨日と同じように手首を返してみせた。水面が縁のすぐ下まで来て、元に戻る。
「これで、反対側へ逃がせます」
「今、ちょっと危なかったですよね」
「昨日より水が多かったので」
俺はパンの籠を二人の間へ置いた。
「今日は避けるものもない。座って食べよう」
リュカは水差しを下ろし、栞は笑って椅子へ座った。
栞の鞄は、初めから足元にあった。パンを取るときにも、片手で抱え直すことはなかった。
煮た果実の皿を見つけると、栞がリュカに尋ねた。
「これ、甘いですか」
「少し酸味があります。パンにつけるなら、こちらの方が」
リュカが寄せた小さな器から、栞は勧められたものを少しだけパンに載せた。一口食べると、次には自分から匙を取る。
俺は料理の由来を一通り説明されるかと身構えていたが、リュカも早々に食べ始めた。食事を温かいうちに食べる習慣は彼にもあったらしい。
皿が半分ほど空いた頃、栞が俺へ顔を向けた。
「写真とか、撮られないんですね」
「今日は、そういう用意はしていません」
「挨拶したから、何か残すのかなって」
「名前は記録します。写真を残したいのでしたら、ご相談を」
「いえ。いいです、今は」
栞は唇の端を拭き、パンに果実を載せた。リュカは栞の手が伸びる前に器を少し動かしたが、写真の話には口を挟まなかった。
食事を終え、三人で茶を飲んだ。窓の外では枝が揺れ、葉の影が卓の上を動いていた。
栞が空いた皿を見て言った。
「魔王って、本当にこれでいいんだ」
俺は茶の器を置いた。
「食事はどうでした」
「おいしかったです」
「厨房にも伝えておきます」
栞は頷き、最後にもう一口、茶を飲んだ。
俺たちが席を立つと、リュカも水差しを台へ戻した。栞は鞄を拾い、庭へ通じる扉の手前でリュカへ声をかけた。
「昨日は、耳のことまで聞いてすみませんでした」
「気になりますよね」
「落ち着いて見たら、エルフみたいだなって」
「そう呼ばれることもあります」
栞は頷きかけ、上着の裾を引っ張ってから、もう一度頷いた。昨日、同じ顔へ向けて鞄を構えていたときとは、ずいぶん違う返事だった。
初めて会ったときから、リュカの顔は整っていた。服を選ぶ手伝いこそしたが、顔について俺の功績はない。栞が裾を引っ張りたくなるのも、分からなくはなかった。
庭の葉がまた揺れた。栞がそちらを見ると、リュカも同じ枝へ目を向け、口を開いた。
「今の時期は、葉の裏がきれいなんです」
「裏?」
「細かい毛が生えていまして。光の当たり方で色が変わるんですよ。枝ごとに向きが違うのにも理由があって」
俺は扉に手を掛けた。
「リュカ。その説明は、見えるところへ行ってからにしないか」
リュカが口を閉じた。栞は庭とリュカを見比べた。
「外、行ってもいいんですか」
「行けますよ」
リュカは扉の外へ半歩出て、木々の間へ続く道を示した。
「もしお疲れでなければ。この国で一番きれいな場所を、見に行きませんか」
俺は、彼がどこを思い浮かべているのか見当がついた。案内を頼むつもりではいたが、この国で一番とまでは注文していない。
栞はまだ動かず、リュカへ確かめた。
「魔王の挨拶とかじゃなくて?」
「散歩です。レオンも一緒に」
栞が俺を見た。俺が頷くと、栞は鞄を肩に掛け、留め具のついた袖を一度引いた。
「じゃあ、見たいです」




