前にもいた少女たち
危うく、よかった、と言うところだった。
何がよかったのか説明を求められたら、最初の会話から随分と面倒なことになる。俺は口を閉じ、少女がスマートフォンを鞄へしまうのを待った。しまい終えても、少女は俺の顔を見ていた。
「……変ですか」
「いいえ」
「でも、今」
「少し、驚きました」
それは嘘ではなかった。
少女はやがて鞄の留め具へ目を落とした。二度やり直しても、うまく噛み合わない。結局、閉まらないままの鞄を抱えている。
「座りませんか。今すぐ何かを決めていただく必要はありません」
俺がベンチを示すと、少女は今度は素直に腰を下ろした。俺も少し間を空けて隣に座った。
水を飲んで大きく息を吐くと、彼女はようやく膝の鞄を脇へ置いた。
迎える場所も部屋も食事も用意して、あとは落ち着くのを待つだけだと思っていた俺が、一つ返事を聞いた途端に、その相手を立たせたまま話の続きを始めようとしていた。何度やっても、慣れたのは俺のほうだけである。
「帰りたくない、というのは」
口にしかけると、彼女の指がコップの縁で止まった。
「……今は、帰らなくていいだけです」
俺は頷いた。
今は帰らなくていい。それだけの返事を、ここにずっといてもいい、と聞き取るわけにはいかなかった。
「分かりました。では、今どうするかだけ考えましょう」
少女はコップを持ったまま、こちらを見上げた。俺は奥の建物を示した。
「休める部屋があります。食事も取れます。まず、どちらがよろしいですか」
「部屋って、一人の?」
「はい」
「鍵は」
「内側から掛かります」
「……じゃあ、部屋」
俺はコップを受け取り、台へ戻した。少女も立ち上がろうとして、片足を浮かせた。
「……やっぱり、さっきの靴、借りていいですか」
台には、ドワーフらしい小柄な女が置いていった布靴があった。俺が二つの大きさを並べると、少女はローファーを脱いで中の砂を落とし、片方ずつ試した。小さいほうが合うらしい。
少女が脱いだローファーを俺に示した。
「こっちは、どうしたら」
俺は受け取ろうと手を出した。
「洗っておきましょう。預かってもよろしいですか」
少女はローファーを見下ろした。
「捨てないですよね」
「捨てません」
少女が揃えて差し出した靴を布に包み、回廊から引き取りに来た小柄な女へ渡す。女が頷いて洗い場へ向かう間に、少女は布靴で二、三歩歩いていた。両足を揃え、俺を見る。
「こっちの方が楽です」
「では、部屋へ行きましょう」
鞄を肩に掛け直した少女と、俺は広場を出た。回廊の入口では、さっき道を空けていた獣人のダリアが待っていた。
「ダリア、部屋まで頼めるか」
ダリアは頷き、少女の足元を見た。
「靴、合った?」
「はい」
「よかった。こっちだよ」
ダリアが先に立った。
水差しを持っていたエルフのような男も含め、迎え役には日本人が物語やゲームで見慣れた姿の魔族を選んでいる。俺の吸血鬼姿も同じ狙いだ。もっとも、馴染みのある姿なら鞄を振り回されずに済む、というほど簡単ではなかったが。
歩き始めてみると、少女はきょろきょろと周りを見た。広場を出た先で、庭木の枝に掛かった灯りが淡く光っている。まだ明るい時間なのに点いているのが気になるらしい。立ち止まりかけ、ダリアが振り返ると足を速めた。
ダリアは何も尋ねず、歩く速さを少し落とした。
その先には、背の高い戸口と低い戸口が隣り合っていた。行き交う住民たちは少女に気づくと会釈をしたが、足を止めて見物する者はいなかった。布や食器を運ぶ手も止まらない。
少女は会釈を返し、通り過ぎた住民たちを振り返った。それから隣を歩く俺に声を落とした。
「……もっと、じろじろ見られるかと思ってました」
「珍しがられると思いましたか」
「だって、この服、私だけだし」
言いながら、彼女は自分の制服を見下ろした。
俺が返事をする前に、彼女は裾を直しかけた手を離した。そのまま顔を上げ、隣を歩き続けた。
ダリアは客室の扉を開け、入口の脇へ退いた。少女が中を覗いてから、ダリアを振り返った。
「ありがとうございます」
「ゆっくり休みな」
ダリアは軽く手を上げ、来た廊下を引き返していった。その姿が角を曲がるのを見届け、俺は少女と部屋へ入った。窓を少し開ける。
部屋には寝台と机、椅子が二脚あり、洗面用の水と蓋つきの籠が用意してあった。入り口の右手が浴室だ。寝床は天井から吊るしてもいなければ、床に掘ってもいない。日本にいた頃の俺なら、わざわざ説明されると困っただろうが、こちらでは寝台一つでも人間用と断って揃える必要がある。
俺は着替えの籠を示し、浴室の扉を開けた。
「着替えはこちらに。大きさが合わなければ替えますので」
少女は浴室を覗き込んだ。
「お風呂あるんだ」
「ええ。お湯も出ます」
「……あるか。そっか」
「食事も、あとでここへ運べます」
俺が入口の掛け金を動かしてみせると、少女は近づき、自分でも開け閉めした。
何度でも確かめてもらって構わない。黒いマントと牙を揃えた男が大丈夫だと請け合うより、内側の掛け金一本のほうが、よほど頼りになるだろう。
「先に、一つだけ確認をしても構いませんか」
俺が尋ねると、少女が掛け金から手を離した。
「お名前と、こちらへ来た日時を。記録を取っています」
「……雨宮栞です」
「雨宮さんですね」
「日時って、スマホの?」
「日付はそれで。時刻は、ここへ来る直前に覚えているものがあれば」
彼女が画面をつけて読み上げた日付を、俺は紙へ書いた。
「時間は、今のじゃなくて?」
「はい。分からなければ、おおよそで構いません」
「さっき、時計見てました」
栞が時刻を告げた。
俺は数字を書き写し、もう一度、彼女に確かめた。
「それで合っていますか」
「はい」
同じだった。
日付も、彼女が覚えていた分までの時刻も、今まで来た者たちに何度も聞いた数字だった。俺自身が日本にいた最後の時刻から、進んでいない。
紙の端を押さえる指へ、余計な力が入った。栞が俺の手元から顔へ視線を移した。
「変な日ですか」
「いえ。確認できました。ありがとうございます」
「持ち物も調べるんですか」
「鞄を開けていただく必要はありません。困ったものがあれば、後で教えてください」
栞はスマートフォンをしまった。
俺も紙をしまった。浴室の湯の出し方を簡単に説明してから、入口へ戻る。
「食事は後ほど。お休みになるなら、そのまま眠っていただいても」
「あの」
振り返ると、栞が籠の着替えをつまんでいた。
「前にも、こういうことあったんですか」
「ええ」
「私みたいな人が来たこと」
「何度もあります」
栞は袖を引っ張って広げ、俺を見た。
「あとで、その話、聞いてもいいですか」
「もちろん」
俺が部屋を出て扉を閉めると、内側で掛け金が鳴った。
廊下の窓まで歩き、窓枠へ手をついてようやく息を吐いた。
日付を聞いて、紙に書くだけだ。相手が覚えている範囲で、分からなければそれ以上は聞かない。何度もやってきた確認なのに、終わるとこうして、どこかへ手をついている。
この国でどれほど季節を数えても、日本から来る者たちは、俺がいなくなったあの時刻を教えてくれる。向こうで何十年も過ぎているわけではない。妻も、子供も、まだあの続きにいるはずなのだ。
子供の話していた番組の名前を、俺だけが忘れかけている。こちらで暮らした年月の分だけ、勝手に。帰れたなら、向こうはさっき説明したつもりの話を、俺はずいぶん懐かしがって聞くことになる。妻には、どうしたのかと尋ねられるだろう。全部話すには長すぎるし、何も言わずに済ませるには、どうにも積もりすぎた。
その説明に困る日が来てほしい。
俺は窓枠から手を離した。廊下の向こうで、食器の重なる音がした。
厨房で食事を受け取り、着替えたという知らせを待って部屋へ戻ると、栞は薄い上着の袖を折っていた。用意した服は少し大きかったらしい。折っても、腕を下ろすと手の甲へかかってくる。俺は食事を机へ置き、その袖口へ目を向けた。
「そのままでも支障はありませんが、あとで直せます」
「平気です。楽なので」
栞の制服は畳んで椅子に置いてあった。リボンだけは、その上に丸く載っている。栞は椅子から制服を取り上げ、俺へ差し出した。
「これ、洗ってもらっていいですか。捨てないで」
「もちろん。靴と一緒に保管しておきます」
「靴は?」
「砂を落として、乾かしています」
栞が頷いた。俺は制服を預かるよう、廊下にいる係の者へ頼んだ。
俺が器の蓋を取ると、煮込みの湯気が上がった。机を挟んだ向かいへ腰を下ろし、皿を覗き込む栞に尋ねた。
「食べられないものはありますか」
「たぶん……見たことあるものなら」
俺は肉、根菜、香草と、中身を一つずつ説明した。名前だけ教えても、見たことのある食べ物にはならない。日本のものなら何に近い味がするか、どんな歯触りかと付け足すうちに、栞の手がパンへ伸びた。
栞はパンを小さくちぎり、汁をつけて食べた。
「おいしい」
そのあとで、はっと顔を上げる。
「あ、いただきます」
聞かなかったことにした。彼女も二口目からは何も言わずに食べた。
ようやく皿の減り方が落ち着いたところで、栞が尋ねた。
「前に来た人も、こういうの食べたんですか」
「ええ。今の献立は、その方たちに食べやすいと言われたものです」
「日本の人?」
「はい」
「私くらいの?」
「高校生でした」
栞は袖の折り返しを見た。それから寝台と浴室の扉を順番に見る。俺が食べ物の話をしている間に、部屋じゅうの用意へ目が向いていたらしい。
「じゃあ、これも」
「前に来た方が困ったことを、少しずつ直しているんです」
「……私、あんなに騒がなくてもよかったんだ」
「雨宮さんは初めてでしょう」
「でも、慣れてる人たちに、鞄とか」
「避け方には慣れています。リュカは、あのあとも水を一滴もこぼしていないと自慢していましたよ」
「リュカさんって、耳の長い人?」
「ええ。エルフのリュカ。水を持っていた彼です」
栞はパンを口元へ持っていき、食べずに戻した。
「謝った方がいいですよね」
「会ったときに一言あれば。それで十分だと思います」
栞は両手を膝へ置いた。
「……怒られないんですか」
「少なくとも、殴り返される心配はありません」
「優しいから?」
「それもありますが、私たちはこちらへ転移した人間を傷つけられないのです」
栞がこちらを見た。
「絶対に?」
「魔族が、あなたに傷を負わせることはできません」
「じゃあ、私、何しても大丈夫ってこと?」
「そこまでは。転べば痛いですし、人の物を壊せば謝ることになります」
「ですよね」
栞は水を飲んだ。さっきより大きく、肩が下がった。
ここで傷つかない証拠まで見せようとすれば、また広場からやり直しだろう。これまでにも試さずに済ませてきたし、今回も彼女が水を飲み終えるのを待つことにした。
「それで、皆さんにお願いしてきたことがありまして」
栞の手が止まった。俺が次の言葉を探しているうちに、彼女はコップを置いた。
「何ですか」
「この国では、転移して来た人を魔王として迎える慣習があります」
「……魔王」
「はい」
栞は机の上を見た。食事の皿を見て、替えの服を見て、最後に俺を見た。
「これ、そのため?」
「断っても、部屋も食事もそのままです」
栞は皿を少し手元へ引き寄せた。俺が話を継ごうとすると、先に栞が尋ねた。
「何するんですか、魔王って」
「今は、皆と顔を合わせたり、祭りに参加したり。国の仕事は、普段から担当している者が続けます」
「戦うとか」
「ありません」
「人を働かせるとか、何か決めるとか」
「それもありません」
「何で魔王なんですか」
「昔は、部族同士で争っていました。そこへ、私たち魔族では傷を負わせられない人が来た。その人が部族の代表たちの間に座り、双方の話を聞いたんです。脅して従わせることのできない相手を通して、相談するようになりました」
「それで、平和に?」
「すぐに、ではありません。何人もの魔王が来て、その間に少しずつ」
俺のしたことまで数え始めると、彼女の食事が終わっても話は終わらない。今はここまでにしておいた。
「今は、違う部族が一つの国で暮らしていることを確かめる、目印のようなものです」
「目印」
「ただ、そう呼ばれて不安になるのは当然です。今日中に返事をする必要はありません」
栞は袖口を指で押し、折り返しを整えた。
「やってみて、無理だったら?」
「やめて構いません」
「一生とか、そういうのは」
「約束していただくものではありません」
一生、という言葉に返事をしてからも、俺はその話の続きを聞きたかった。
栞は食事の残りへ目を戻し、冷めかけた煮込みを一口食べた。パンで皿の端を拭う、その手を急かすつもりはない。次の返事は食べ終えてからでいい。
「明日も、ここにいていいんですよね」
「はい」
「魔王にならなくても」
「なっても、ならなくても」
栞が頷いた。
「じゃあ、その話、もう少し聞かせてください」
俺は姿勢を直した。その動きを見た栞が、慌てたように言い添えた。
「まだ、なるって決めたわけじゃないです」
「承知しています」
「でも、ここにいていいなら」
栞は言葉を切り、今度は自分から俺を見た。
「どういう人たちがいるのか、知っておきたいです」




