帰りたくない
仮面ライダーの名前がどうしても覚えられず、子供に何度も同じ説明をさせていた頃は、またその話かと思っていたものだが、今なら一人残らず覚えるからもう一度最初から教えてくれと頼みたい。
俺が日本にいた頃、あの子はちょうどそういうものに興味を持ち始めていた。色が違えば別人だと思うと同じ人間で、姿が似ているから同じだろうと思えば別の名前を教えられる。ようやく覚えたつもりで指をさすと、それは悪いほうだと言われた。もう少し分かりやすい印でもつけておいてくれないかと、大人としてはいささか情けない注文をつけた覚えがある。
俺自身は、見逃した回を気にするほど熱心ではなかった。番組を見ながら得意げに説明する子供の顔はよく覚えているのに、何について説明されていたのかはほとんど残っていない。今となっては、その欠けた部分がひどく惜しい。続きを一緒に見る日が来るなら、途中で分からなくなっても適当に頷くのだけはやめようと思う。
もっとも、あれから怪人の見分けがつくようになったかと言われれば、むしろ悪化した。角があるとか、鱗に覆われているとか、顔の半分が顎であるとか、そういう外見だけで善悪を判断していると、こちらでは親切な連中を片っ端から悪役にしてしまう。
もっと人間に近い顔をしていれば大丈夫かというと、そうでもないらしい。いま目の前で、長い耳のすぐ脇を通学鞄がかすめた男など、そのいい例だった。頭を逸らした拍子に髪が乱れたが、せっかく用意した水は一滴もこぼさなかった。その点を、俺としては高く評価したい。
少女のほうは、俺がそんな評価をしている間にも、もう一度鞄を構えて石畳を蹴り、後ずさった。制服の袖から出た手首が細い。画面の中ならここで変身するのだろうが、彼女が握っているのはスマートフォンで、ベルトは通学鞄の肩紐だった。
「来ないで!」
長い耳の男は追わず、水差しを持ったまま下がった。
その隣では獣耳のある背の高い女が、両手を見せている。武器など持っていないが、肩幅だけなら俺より立派だ。女が横へ退くと、その陰にいた小柄な、ドワーフを思わせる女まで見えた。畳んだ上着と布靴を台へ置くと、黙って回廊へ下がっていった。
これが戦闘なら、迎える側の士気は恐ろしく低い。もっとも、少女はついさっき、この見知らぬ広場へ現れたばかりだ。人間に似た顔もあるが、頭の上で耳が動き、腰の後ろでは尻尾が揺れている。大丈夫だと水を勧められたところで、まずは誰なのか、ここはどこなのか、聞きたいことは山ほどあるだろう。返事を聞く前に鞄が飛んでくるので、話すほうも大変なのだが。
獣耳の女は、少女の背後へ目を向けた。段差のない側へ大きく退き、道を空ける。少女もそちらへ向き直った。鞄の角が台に当たり、置かれていた布靴が一足落ちる。
彼女が転移者を迎えるのは、これが初めてではない。飛んできた鞄を取り上げもせず、逃げる少女を抱き止めもせず、通れる場所を残してやる。少女の足が平らな石畳へ戻ったのを確かめると、女は回廊の入口へ下がった。
制服の少女と、水差しを持ったまま立ち尽くす男。ここだけ番組に映せば少女を応援するところなのだろうが、実際に見ている俺には、来客に水を勧めたら家具を殴られた住民にも見えてくる。そろそろどちらかに悪そうな音楽をつけてもらわなければ判断に困るところだ。
ただ、少女の足はさっきから小刻みに震えている。鞄を下ろせば胸の前に何もなくなる。それで手放せずにいるのかもしれなかった。俺だって最初にこの連中を見たときは、自分の泣き声に言い分をかき消されていたのだから、静かに話を聞けなどと偉そうには言えない。こちらでは赤子からやり直したので、その点だけは少々事情が違うが。
少女が鞄の縁から顔を出し、水差しを持つ長い耳の男へ尋ねた。
「ここ、どこですか」
長い耳の男は、台の向こうにあるベンチを示した。
「まず、あちらに座れますよ」
「座るとかじゃなくて!」
「失礼しました。ここは私たちの国の――」
「その、耳。それ、本物?」
説明しかけていた長い耳の男が、口を閉じた。
つけ耳なら外して済むのだろうが、あいにくそういう仕組みではない。長い耳の男は伸ばしかけた手を戻し、離れた場所から耳の先へ指を添えてみせた。
少女がまた半歩下がった。
俺は柱にもたれるのをやめたが、口は挟まなかった。ここで説明役を増やしても、少女にとっては怪人が一体増えるだけだ。俺の顔もほとんど人間と変わらないとはいえ、黒いマントに赤い裏地、尖った牙まで揃っている。日本人に馴染みのある吸血鬼を目指して整えた格好なのだが、今出ていくと悪の幹部が部下を叱りに来たようにしか見えまい。
少女は相変わらず長い耳の男を見ていたが、今度はその背後へも目を走らせた。
「……撮影ですか」
長い耳の男が首を横に振った。
「いいえ」
「どっかにカメラとか」
「ありません。ここにいる者だけです」
「じゃあ、なんで日本語なの」
長い耳の男は、少し返事に詰まった。
日本語はこの国の公用語だ。昔、部族がまとまった際に採用され、今では初対面の相手へ何語で話しかけるか迷うこともない。その経緯を最初から話したところで、少女に納得してもらえる気はしない。
男は水差しを持ち直し、短く答えた。
「普段から、この言葉で話しているんです」
「ここ、日本じゃないの?」
「あなたが来た世界とは、別の場所です」
「そんなの……」
少女は顔を上げた。柱の上を、空を、回廊の先を見た。
誰も続きを急かさなかった。
俺の子供なら、この顔ぶれを見て何と言うだろう。どれが強いか、何ができるかと聞くかもしれないし、テレビの外へ出てきた怪人に泣くかもしれない。泣かれたら困るが、それでも一度くらいは聞いてみたい。俺の格好についても、本人は親しみやすくしたつもりなのだと、説明する機会がほしい。
帰れたら、あのベルトを買おう。
そう考えてから、何という名前だったか思い出せないことに気づいた。帰って本人に聞くしかない。毎回そこへ戻ってくる。
少女がスマートフォンを持ち上げ、水差しを持つ長い耳の男へ向けた。
「……電話」
長い耳の男は端末を受け取ろうとはせず、その場で頷いた。
「どうぞ」
「かけていいんですか」
「ええ。ただ、こちらでは通じないようでして」
「外なら?」
「申し訳ありません」
少女は画面を操作した。片腕で抱え直した鞄が重そうだったが、床には置かなかった。
画面に目を落とした少女へ、長い耳の男が水差しを少し持ち上げてみせた。
「水はここへ置きますね」
「いらないです」
「では、飲みたくなったら」
長い耳の男が水差しを台へ置き、両手を空にして下がった。少女は男の手を見て、それから水を見た。
「……飲まなくてもいいんですよね」
「もちろん」
「どっかに連れていかれるとかも」
「今はここにいて構いません」
彼女は頷かず、もう一度スマートフォンを見た。
俺はその手元から目を外した。日付も時刻も尋ねたいが、今ではない。ポケットの記録用紙は、そのままにしておく。
長い耳の男が、台の脇に落ちた布靴へ気づいた。屈みかけると少女の鞄が持ち上がったので、男は手を止め、靴を指さした。
「靴を、拾うだけです」
「……あ」
靴を見て、少女が鞄を下げた。
「私、落としましたよね」
「大丈夫です。洗えるので」
「すみません」
長い耳の男が少し笑って靴を台の下へ戻す間も、少女はもう鞄を構えなかった。男は水差しを残し、空になった両手を下ろして回廊へ引き上げた。
少女は一度その背中を見送ってから、手元へ視線を戻した。
今なら、一つくらいは聞けそうだった。俺は柱から離れ、少女がこちらを向くのを待った。
「少し、お話ししても?」
少女の目が、俺の顔からマントへ下りた。
「……ドラキュラ?」
「似せてはいます。困っている人を襲う仕事ではありません」
彼女の手が鞄の上で止まった。
「元の世界へ帰りたいですか」
開きかけた口が閉じた。少女は画面に残った通知へ目を落とし、スマートフォンを裏返した。
「……帰りたくないです」




