私の帰還
帰る日は、栞が決めた。
今夜は一度部屋で休み、明日の朝、支度をして帰る。そう言ってから、残してあったパンを食べた。茶はまだ温かかった。
俺は帰還に使う建物の場所と、明日することを説明した。名前と時刻を登録すれば、帰る人は変えられなくなる。端末を台座から戻しても同じだと、もう一度伝えた。
栞は聞き終えてから、三人を見た。
「明日、いてもらっていいですか」
リュカが頷いた。ダリアも、ミナも。
夜、俺は保管棚から制服の包みを取り出した。
洗って畳んだ服に、皺がつかないよう紙を挟んである。リボンは別の小さな包みにしてあった。ローファーの布も開き、左右が揃っているのを確かめる。
その確認に、間違えるところはなかった。
籠へ入れてから、俺はしばらく蓋を閉めずにいた。初めて預かったときには、いつ返すのか決まっていなかった。捨てないと約束した。栞も、取っておいてほしいと言った。
明日の朝には、返す。
俺は籠を戸口へ置いた。
翌朝、栞は約束した時刻より少し早く来た。
借りた上着に花の留め具をつけ、新しい靴を履いている。鞄はいつもより膨らんでいた。持ち物を自分で確かめたあと、借りていた本をリュカへ返してきたという。
「最後まで、読めなかった」
栞は鞄の口を一度開き、閉じた。
「でも、どこまで読んだかは覚えてる」
俺は制服の籠を持ち上げた。
歩き始めると、栞は俺の隣へ来た。庭を横切る間、何度か窓を振り返る。誰かを探しているのかと思ったが、栞は何も言わず前へ向き直った。
初めに現れた広場の奥に、帰還のための小さな建物がある。
扉は開けておいた。中は広い一室で、脇に着替えのできる控えの間がついている。正面の床には石の枠があり、その手前へ、腰ほどの高さの台座が据えられていた。
リュカたちは窓側で待っていた。
栞が入ると、ミナが鞄を置くための台を寄せた。ダリアは椅子を一脚引く。栞は礼を言ったが、立ったまま、床の石の枠を見た。
「あそこから?」
「はい」
俺は台座の脇へ籠を置いた。
灰色の石の上面は滑らかで、中央だけ浅く窪んでいる。その手前には細い金属の縁で囲まれた白い面があり、名前と日時を書き入れる欄が分かれていた。
栞は指を出しかけ、途中で止めた。
「触っても、大丈夫ですか」
「まだ何も始まっていません」
栞は石へ手を置いた。すぐに離して、掌を見る。
「冷たい」
俺は記録用紙を台座の脇へ広げた。栞が来た日に書いた名前と、日本の日時。数字の読み違いがないことを、二人で確かめた。
「合ってます」
栞が言った。
俺は用紙を押さえたまま、栞へ目を戻した。
栞は鞄から端末を取り出した。画面を点け、昨日まで何度も見た写真を開く。リュカたちのほうへ向けてから、自分でも見た。
「ここにいても、楽しく暮らせると思います」
三人はその言葉を聞いていた。
「皆のことが嫌になったからじゃないです。本も、工房も、また行きたいところはあるし」
栞は画面を消した。
「でも、友達が言いたかったことを、聞きたいです。私がどうしてそうしたかばかり、話すんじゃなくて」
ダリアが頷いた。
「家の電話も、途中で切ったままだから。自分から、話したい」
栞は俺へ向き直った。
「帰りたい。でも、それじゃあなたは――」
俺は襟元の上から、指輪へ一度触れた。
布越しに細い輪の硬さを確かめ、手を離した。
栞へ手を差し出した。
栞は俺の手を見た。端末を持ち直し、掌へ載せる。俺は受け取り、画面を伏せて台座の窪みへ置いた。
白い欄へ、細い石筆で名前を書いた。
雨宮栞。
その下に、用紙と同じ日付と時刻を書き入れる。一つ記すごとに、線が淡く光った。栞は台座の向こうから、その文字を見ていた。
俺は最後の数字を確かめた。
金属の縁を倒すと、欄の端にある留め金へ重なった。そこを押し込む。
小さな音がした。
名前と数字の光が、一本につながった。白い面の上で字が動かなくなり、台座から床の石の枠へ、細い光が伸びた。
登録が終わった。
これで、今回帰るのは栞だ。
俺は石筆を置いた。置く場所を外し、指で少し寄せ直す。栞が俺の手を見ていたが、何も言わなかった。
床の枠の内側が明るくなった。
光は足元からゆっくり持ち上がり、人が通れる高さまで伸びる。向こうの景色は見えない。白く、奥行きの測れない明るさだけがある。
俺は籠の蓋を開け、制服の包みを取り出した。
栞が両手で受け取る。リボンの包みを上へ重ねると、少し指で押さえてから、控えの間へ向かった。
扉が閉まった。
俺は台座の脇で待った。リュカたちも窓側にいた。誰も光の前を塞いでいない。
ローファーを包んだ布を開くと、甲の曲がった跡が見えた。俺は両方を持ち、帰還口の前へ運んだ。踵を手前に、つま先を光のほうへ向けて置く。
右を少し寄せ、揃えた。
控えの間の扉が開いた。
栞は制服を着ていた。肩に馴染んだ形の上着と、胸元のリボン。借りていた服は畳んで持ち、足にはまだ現地の靴を履いている。
栞は畳んだ服から花の留め具だけ外し、鞄の小袋へ入れた。それから、服をミナへ渡した。
「これは、持っていきます」
ミナは頷いた。
栞が光の前へ来た。
俺はローファーの横から退き、道を空けた。
栞は揃えた靴を見て、俺を見た。それから自分で椅子を寄せ、腰を下ろす。
現地の靴の紐をほどき、片方ずつ脱いだ。ミナが渡した薄い袋へ収め、鞄の底へ入れる。爪先をローファーへ差し込み、踵を指で直した。
立ち上がると、靴底が石の床を鳴らした。
「こっち、こんな音だった」
栞は足元を見て、小さく言った。
俺は台座から端末を持ち上げた。白い欄の光の文字は、そのまま残っている。手渡すと、栞は両手で受け取った。
画面を一度だけ確かめ、鞄へしまう。内袋を開いて、葉の包みと充電具も確かめた。木の鳥と草の飾りを外側へ戻すと、膨らんだ鞄の留め具を合わせた。
小さく音がした。
栞は鞄を提げ、三人へ向き直った。




