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あなたのためには残れない

 その言葉を、俺は何度も想像していた。


 帰っていいと誰かが言ってくれる。ここで暮らすから、一人分はあなたが使えばいいと。実際に聞いたら、まず何を確かめるつもりだったか。用意していた問いは一つも出てこなかった。


 妻の顔が浮かんだ。


 子供の声も。帰った俺を見て、何と言うだろう。姿は違う。どう説明するのか、その先に困ることも幾つもある。それでも、声の届く場所へ立てるかもしれない。


 俺は卓の上の記録用紙を見ていた。


 栞が、俺の返事を待っている。


「ここ、嫌いになったわけじゃないんです」


「分かっています」


「だったら、いいと思う。私、こっちで楽しかったし。残るからって、不幸になるわけじゃない」


 俺は頷いた。それを否定することはできない。


 栞は続けた。


「レオンさんは家族に会えるかもしれない。私も、皆といられる。そのほうが」


 栞はそこで止まった。リュカを見て、ミナを見た。二人とも席を立たなかった。


「そのほうが、いいんじゃないかなって」


 俺の手は、紙の端へ届いていた。


 指を離した。


「今の申し出では、私は帰りません」


 栞が顔を上げた。


「帰りたいんですよね」


「帰りたいです」


「じゃあ、どうして」


 俺は紙を畳んだ。持ち上げず、卓へ置く。


「ご友人の返事を聞いていないと、今、話してくれました。それをどうしたいか、私はまだ聞いていません」


「それは、私が」


「私を帰すために、その話をやめてほしくないのです」


 栞は唇を結んだ。


「でも、本当にここが好きなのに。それまで、違うって思われたら」


「違うとは思いません」


 栞は俯いた。


 言ってからも、俺は次の言葉を待っていた。日本には戻らなくていいと、もう一度言ってくれるかもしれない。俺のためではなく、自分でここを選ぶのだと。


 待っている自分を、栞へ見せずに済んでいる気はしなかった。


「そう言ったら、困るんですね」


「困ります」


「喜んでは、くれないんだ」


 俺はすぐに否定できなかった。


「帰れるかもしれないと思って、うれしかったです。今も、その気持ちはあります」


 栞は俺を見た。


「それでも、受け取れません」


 窓から入った風が、開いた冊子の角を動かした。ミナがそっと押さえる。


 俺はその頁を見た。ずっと前に見送った子の、食べ物の好みが書いてある。


「私が帰らなくても、ここに残りたい。そう言う人を待っていたんです」


 栞は長く黙った。


 ダリアも口を挟まず、卓から少し離れて座っていた。


 やがて栞はスマートフォンを手に取った。暗い画面を一度見て、鞄へしまう。


「少し、考えたいです」


「はい」


「一人で。今度は、私のほうを」


 俺は頷いた。


 栞は椅子を引いた。扉の前で一度振り返り、まだここにいますかと尋ねた。


「ここにいます」


 栞はそれを聞いてから、廊下へ出た。


 扉が閉まり、足音が遠ざかった。


 俺は席を動かなかった。追わないと決めているのに、廊下を誰かが通るたび顔が上がる。栞がどこへ行ったか、聞きに行けばすぐ分かるだろう。そういう用事なら俺は手早い。


 卓の用紙を裏返した。


 リュカが冊子を閉じた。栞が読んでいた場所へ薄い紙を挟み、そのまま残す。


「食事を、持ってきてもらいます」


 俺は頷いた。


 四人で遅い昼食を取った。栞の結論を予想する言葉は出なかった。ダリアがパンを半分残し、布を掛ける。ミナは冷めた茶を飲み、あとで淹れ直すと言った。


 俺は皿を空にした。味を感じなかったわけではない。ただ、次の一口までに手が止まる。食べ終わっても、扉は開かなかった。


 午後の用事を断るため、三人は順に席を外した。戻ってきた者が同じ椅子へ座る。俺の席もそのままだった。


 栞が残ると決めるかもしれない。


 そう考えるたび、まだ用意していない自分の荷物を思い浮かべた。持っていきたいものはある。必要になるか分からないものばかりだ。そもそも俺が帰れるかさえ、確かめていない。


 それでも、試すところまで行けるかもしれない。


 窓の葉影が、卓の縁へ移った。


 俺は両手を膝へ置いた。


 扉が開いたのは、ミナが二度目の茶を淹れ終えた頃だった。


 栞は鞄を肩に掛け、スマートフォンを手に持っていた。俺たちを見てから、空いていた椅子へ戻る。ダリアが掛けておいた布を少しめくった。


「食べる?」


「あとで、もらっていいですか」


「ああ」


 栞は鞄を下ろした。スマートフォンだけは手に残す。


 俺は向き直った。


「友達が、許してくれるかは分かんないです」


 栞が言った。


「もう話したくないって言うかもしれない。でも、その返事を聞かないまま、終わったことにしたくない」


 俺は頷いた。


「家の電話も。何を聞きたかったのか、私は最後まで聞いてないから」


 栞は端末を両手で持ち直した。


「ここにいても、そのことは考えると思う。皆と楽しくても、考える」


 リュカが栞の茶を置いた。栞はありがとうと言い、器の縁へ指を添えたが、まだ飲まなかった。


「だから、レオンさんのためって言って、ここに残ることにはできないです」


 俺は膝の上で指を開いた。


 栞はこちらを見ていた。


「私は、帰りたい」

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