譲られると選べない
「そう信じています」
俺が答えると、栞は自分の端末を見た。
その端末を、俺のほうへ少し寄せかける。途中で止まり、卓の縁と平行になるよう置き直した。
「帰りたいって、私に言ってくれればよかったのに」
「隠していました。すみません」
「謝ってほしいっていうか」
栞は額へ手を当てた。
「昨日は、帰れるか知りたかっただけなのに」
俺は頷いた。
昨日、帰れると答えていれば、この話をしなくて済んだだろうか。そう考えかけて、やめた。俺が黙って期待していることは同じだ。栞が帰ると言うまで、まだ間に合うと思い続けただろう。
リュカが卓の水差しを取った。
「少し、休みませんか」
栞は顔を上げ、頷いた。
俺も椅子を引きかけたが、栞がこちらを見たので座り直した。リュカは空いている器を寄せ、栞の分だけ先に注いだ。
廊下では食器を運ぶ音がしている。昼が近かった。リュカが扉の外へ声をかけ、食事はもう少しあとにと頼んで戻ってきた。
栞は水を飲んでいた。俺にも器を寄せてくれたが、その手つきはどこかぎこちなかった。
「本当に、何人も見送ったんですか」
栞はリュカへ尋ねた。
「はい。私も、そのうちの何人かには会っています」
「レオンさんは、その人たちが帰ったあとも?」
リュカは頷き、俺を見た。
「残った記録をまとめていましたね。いつも」
「片づけるものは、ありますから」
俺が答えると、リュカはまた栞へ向いた。
「食事を運んでも、気づかないことがありました。机で一人、同じ頁を読んでいて」
栞は水の器を下ろした。
「そのときも、次を待ってたのかな」
俺は否定しなかった。
栞は指を膝へ戻し、しばらく黙った。リュカもそれ以上は言わず、水差しを卓の中央へ置いた。
「残ってくれるなら、私はうれしいです」
リュカが言った。
「でも、それを栞さんの返事にしたくはありません」
「皆、そう言うんだ」
栞は困ったように笑った。
「帰ってって言われるのも、嫌だけど」
ミナが、畳んでいた布を手元へ置いた。
「また工房へ来てほしいです。まだ、使ってもらっていない物もあります」
「うん」
「でも、帰ったら、友達じゃなかったことになるわけではないので」
栞がミナを見た。
「会えなくても?」
「会えなくなるのは、嫌です」
ミナはそこで言葉を探した。前掛けの紐をつまみ、離す。
「それでも、あの菓子を一緒に食べたことまで、なくならないです」
栞は小さく頷いた。鞄の留め具を触り、開けずに手を離した。
「私、そういうふうに言えなかった」
ミナは顔を上げたまま待った。
「友達に。どうしたいか、聞けばよかったんだと思う」
俺は器から手を離した。
栞は卓の木目を見ていた。誰か一人へ向けるでもなく、少しずつ話した。
「学校で、班の発表があって。その子、前で話す役になったんです。いつも頼まれるから、また断れなかったって」
ミナが頷く。
「私に、嫌だって言った。みんなの前だと、そういう顔しない子だから、そんなに嫌だったんだって思って」
栞は袖の縁を押さえた。
「私、先生に話したんです。本人には聞かないで」
「代わってもらおうとした?」
ダリアが尋ねると、栞は頷いた。
「言いにくいなら、私が言えばいいかなって。あと、同じ班の子にも。頼まれたら断れないんだから、ほかの人がやってあげたらって」
栞は一度口を閉じた。水を飲もうとして、器を持たずに戻す。
「それで、先生がその子を呼んで。班の子からも、嫌なら最初に言ってよって言われたみたいで」
「その子から、聞いたんですか」
俺が尋ねると、栞はこちらを見た。
「うん。どうして言ったの、って」
栞の手が、卓の縁をつかんだ。
「私に話しただけだったのに、誰がどこまで知ってるのか分かんなくなったって。自分で決めたかったって」
窓の外で、枝が揺れた。
栞は顔を伏せたが、話を止めなかった。
「その場で、ごめんって言えばよかったんです。でも、困ってると思ったからって、私、先に言っちゃった」
「そのあとは?」
ダリアの問いに、栞は首を振った。
「ちゃんと聞いてない。助けようとしたんだよって、私が何回も言ったから」
俺は何も挟めなかった。
昨日、俺の返事を待っていた栞の顔が浮かんだ。
「謝ろうとは、したの?」
ダリアが尋ねた。
栞は頷いた。
「謝ろうとして。でも、また言い訳みたいになって。消して、書いて」
「まだ、返事は聞いていないんですね」
俺が言うと、栞はこちらを見た。
「送ってないから。向こうも、何も」
栞は自分の親指を擦った。
「そのあと家から電話が来て、何かあったのって聞かれたんです。ちゃんと話さなきゃいけないのかなって思ったら、また怒られる気がして」
「それで、切った?」
ダリアへ、栞は小さく頷いた。
「何もない、あとで帰るって。ちゃんと聞かないで切って。そうしたら、何時ごろ帰るって連絡が来て」
卓の端末へ目が下りた。
「歩きながら見てたんです。帰りたくないなって思ってたら、ここにいた」
ミナが栞の器へ目をやった。水は残っている。注ぎ足す代わりに、自分の手を膝へ置いた。
栞は顔を上げた。
「家の人も、怒るつもりだったかは、分かんない。私が、そう思っただけで」
俺は頷いた。
「まだ、話の続きがあるんですね」
「うん」
栞はそう答えてから、俺の襟元を見た。
「でも、レオンさんも」
俺は動かなかった。
「ずっと、待ってたんですよね。私より、ずっと」
ダリアが椅子の上で体を起こした。
「栞」
栞はダリアを見た。
「その長さで決めるつもり?」
「だって、子供もいるって」
「聞いたよ。あたしも」
ダリアは言葉を切り、俺を一度見た。
「でも、あんたが帰りたかったと分かったら、こいつはそれを忘れて帰れると思う?」
栞は答えなかった。
「帰したいって思うだけじゃ、駄目なの」
「それは、こいつにも聞きな」
ダリアはそこで黙った。
栞の目が、ダリアの左腕へ下りる。傷の跡を見て、それから自分の手を見た。
「また勝手に決めてるのかな」
誰もすぐには答えなかった。
栞は鞄の鳥を握り、手を開いた。木の腹が、指の間から覗いている。
「でも、私、ここで暮らせると思う。工房も、書庫もあるし。皆にも会えるし」
「暮らせます」
俺は答えた。
その返事へ、栞が顔を上げた。俺も目を逸らさなかった。
「帰ると決めなくても、ここにはいられます。今、どちらかへ決めてほしいとは言いません」
「そうじゃなくて」
栞は鞄から手を離した。
「私なら、大丈夫だと思う」
納屋の壁の前でも、似た声を聞いた。
俺は続きを待った。
「私が残る。だからあなたが帰って」




