帰した少女たち
俺は襟元へ指を入れ、鎖を引き出した。
栞の目が、その先の指輪へ下りる。留め金を外すのに少し手間取ったが、誰も手を貸そうとはしなかった。鎖ごと卓へ置くと、小さな音がした。
「私は、日本にいたことがあります」
栞は指輪から顔を上げた。
「行ったことがあるってこと?」
「そこで生まれ、働いて、家族と暮らしていました」
「家族」
「妻と、子供がいます」
栞の手が、写真を開いた端末の脇で止まった。
「子供がいるの」
「はい」
「日本に?」
「日本に、残してきました」
栞は指輪へ目を戻した。リュカもそれを見ていた。三人の前で、家族についてこうして話すのは初めてだった。
俺は指輪を栞のほうへ少し寄せた。
「これは、その頃の指輪を真似て作ってもらったものです。妻からもらった現物ではありません」
「なくしたんですか」
「こちらへ来たときには、何も持っていませんでした。私は栞さんと違って、この世界の赤子として生まれたので」
栞は俺の顔を見た。それから手と、指輪とを順に見る。
「じゃあ、今の体は」
「こちらで育った魔族の体です。日本にいた頃とは違います」
「生まれ直したってこと?」
「ええ」
栞は少し考えてから、身を乗り出した。
「待って。赤ちゃんから、今まで?」
「長い時間が経ちました」
「家族も、その分」
俺は首を横に振った。
「こちらで過ぎた年月と、日本の時間は同じではないのです」
上着の内側から、折った記録用紙を取り出した。栞が初めてここへ来た日に、目の前で書いた数字だ。
「最初に、来る直前の時刻を聞きましたね」
「スマホで日付を確かめたとき」
「その日付も時刻も、私が日本にいた最後のものと同じでした」
栞は紙へ顔を近づけた。
「偶然じゃなくて?」
「前に来た人たちも、皆、同じ日付と時刻を教えてくれました。こちらで何年待っても、そこから進まないのです」
「じゃあ、あっちは」
「私がいなくなる直前の、その続きにあるはずです」
言いながら、俺は紙の端を伸ばした。折り目が戻り、同じところがまた浮く。
「妻も、子供も。あのときのまま、いるはずなんです」
栞が黙った。
卓の上で端末の画面が暗くなった。栞は触れず、俺の紙に目を落としていた。
「私も、その時間に帰るの?」
「帰還先は、来る前の日本につながります。その時刻を使って指定します」
「帰れるんだ」
俺は頷いた。
「帰れます。昨日、最初にそう答えるべきでした」
栞は椅子へ背を戻した。大きく息を吐いたあとで、もう一度指輪を見た。
「だったら、レオンさんも」
「一度の転移に対して、帰れるのは一人だけです」
栞の口が閉じた。
「二人では帰れません。先に誰かが通って、向こうで待っているということもできない」
「だから、まだここにいるの?」
「それだけではありません。転移して来た人は帰っていますが、私のように生まれ直した者が帰った前例はありません」
「できるか、分からない?」
「分かりません。それでも、試したいと思っています」
ダリアは腕を組みかけて、膝へ手を戻した。ミナは指輪を見たまま、唇を結んでいる。
俺は栞へ向き直った。
「この国にずっと住みたい人が来れば、その一人分を私が使えるかもしれない。そう考えて、待っていました」
栞は俺の顔を見ていた。
「……私が、帰りたくないって言ったから」
「期待しました」
「最初から?」
「あなたが来る前からです。次に来る人は、残ることを選ぶかもしれないと」
栞の指が、袖の花へ触れた。
「だから、三人を選んだの」
「はい。こちらの人を怖がりすぎず、この国を好きになってほしかった。栞さんが帰りたくないと言ったあとには、なおさら」
俺は三人を見た。リュカが、短く息を吐いた。
「三人には、私が帰るためだとは話していません。案内してほしい、困らないようにしてほしいと頼みました」
栞はリュカの顔も確かめてから、俺へ戻った。
「昨日、答えてくれなかったのも?」
「まだ帰ると決めていないと言われて、その言葉に甘えました。帰る話を、先へ延ばせると思った」
俺は用紙から手を離した。
「栞さんには、残ってほしかった」
言ってしまうと、声は思っていたより小さかった。
栞は顔を伏せた。膝の上を見ている。その手が何をしているのかは、卓に隠れて見えなかった。
俺は待った。
「前の人たちは」
栞が顔を上げずに言った。
「ここを、好きじゃなかったんですか」
「好きになった人もいました。何度も行った店があり、仲のいい相手ができた人も。それでも、最後には帰りたいと言いました」
「帰したの?」
「帰しました。支度をして、忘れ物を確かめて」
「何人も?」
「何人も」
栞がようやく俺を見た。
「帰りたいのに、ずっと?」
「ずっとです」
栞は指輪へ手を伸ばしかけ、止めた。
「触ってもいいですか」
「どうぞ」
鎖の一部を押さえ、指輪を指先で起こす。栞は穴の向こうを見るようにしてから、そっと伏せた。
「どうして前の人たちを帰したの」
その問いには、返事を用意していなかった。
帰りたいと言われたとき、残ってくれと頼みたくなかったわけではない。俺より先に日本を出たわけでもない子が、俺より早く家へ帰る。靴を渡す手を止めたこともある。
俺は卓に置かれた指輪を見た。
「帰りたいと言っている人から、その一人分を取っていくことはできませんでした」
「でも、家族に会えるかもしれないのに」
「会いたいです」
俺は頷いた。
「それでも、私が帰るために誰かを帰れなくして、そのあと妻や子供の前に立つことは、できなかった」
栞は俺を見ていた。指輪から手を離しても、問いをやめなかった。
「私が、帰りたいって言ったら?」
「支度を手伝います」
「本当に」
「はい」
リュカが卓の冊子を、閉じずに少し脇へ寄せた。栞と俺の間が空いた。
俺は記録用紙をその場所へ置いた。
「帰還には、こちらへ来る前から持っていた物と、名前と、この時刻を使います。栞さんなら、そのスマートフォンで」
「どうするんですか」
「帰還用の台座に載せ、名前と時刻を登録します。それで帰る人が決まります。一度決まれば、あとから別の人へ変えることはできません」
「置いたら、もう?」
「置くだけでは決まりません。登録を終えるまでは。終えたあとなら、物を取り戻しても、帰る人は変わりません」
栞は端末を手元へ寄せた。
「何か、しなきゃいけないことは。魔王の仕事とか」
「ありません。何かを成し遂げたり、皆に認めてもらったりする必要はありません」
「本当に帰りたいって、思わないと駄目とかも?」
「仕組みの上では、それもありません」
俺は一度、言葉を切った。
「心から残りたい人を待っていたのは、私の都合です。帰るための条件ではありません」
栞は頷いた。聞いたことを一つずつ確かめるように、紙の数字と端末を見比べている。
俺は指輪を取り上げ、鎖を首へ戻した。襟の内側に収めるまで、少し時間がかかった。
栞はその手を見ていた。
「私が残ると言えば、あなたは帰れるかもしれないんだよね」




