用意されていた日常
記録の棚には、同じ大きさの冊子が並んでいる。
表紙の色は時期によって違う。作ったときには揃っていたものも、今では背の上だけが薄くなっている。俺はその中から、滞在中の案内と生活の記録をまとめた冊子を取り出した。
個人から打ち明けられた事情や、帰還の手順を収める棚は別にある。栞へ見せるために、今朝、都合の悪い頁を抜いたわけではない。
ただ、初めからこの棚には、俺が一人で書いた願いも、見送った夜に何を考えたかも載っていない。
俺は冊子の埃を払い、閲覧室の卓へ置いた。
約束した翌朝、栞は一人で部屋へ来た。
昨夜、記録を用意すると伝えたとき、栞は三人も一緒にいてほしいと言った。自分だけでは場所の名前も分からないから、と。俺が声をかけると、三人とも時間を空けてくれた。
リュカは窓側の椅子に座っていた。ダリアはその隣、ミナは栞の向かいへ。俺は卓から少し離れた壁際の席を取った。
「分からないところがあれば、聞いてください」
栞が表紙へ手を置く。
「最初から、順に読んでいいですか」
「ええ」
頁を開く音がした。
名前、来た日、部屋の用意。食べられたもの、足に合わなかった靴。本人が記録に残すことを認めた範囲で、次に迎える者へ役立つことが書いてある。
栞は一頁ずつ読んでいた。分からない場所の名前へ指を置くと、リュカが今の呼び方を教える。その返事を聞いてから、また先へ進んだ。
しばらくして、栞が顔を上げた。
「この人も、靴擦れしたんだ」
俺は頷いた。
「散歩から戻って分かりました。途中では、痛いと言わなかったので」
「それで、休むところを決めてた?」
「はい」
栞はその行へ目を戻した。隣には、長椅子のある曲がり角が記されている。
次の頁には、食事のあとで眠った時刻があった。その次には、帰還の意思を尋ねた日。答えは短く、まだ決めない、と記されていた。
栞の指が止まったが、その場では何も聞かなかった。
やがて、見開いた頁を俺へ向けた。
「これ、私に見せた場所だよね」
樹上の書庫。夜市。草原の遊び場と、工房。
俺が今も使っている道順だった。
「記録を参考にしました」
「全部?」
「行く場所や、休むところを決めるときに。食べ物や、本を選ぶときにも」
栞は冊子を自分のほうへ戻した。
「猫の本も」
「前に読んで楽しんだ人がいました。栞さんも、暮らしの様子に興味があるように見えたので」
「私だけ見て、分かったんじゃなかったんだ」
俺は頷いた。
栞は頁をめくった。余白へ、あとから別の筆跡で加えられた文がある。初対面で近づきすぎないこと。容姿の馴染みやすい者から応対すること。歓迎の言葉より先に、水と休む場所を示すこと。
「皆さんも、これ、知ってたんですか」
栞の目がリュカへ向いた。
リュカは冊子へ手を伸ばさず、椅子に座ったまま答えた。
「知っています。お迎えする前に、レオンと確認しました」
「私が来る前から?」
「来る兆しがあったので。場所と、おおよその時期は分かっていました」
栞は俺を見た。
俺が頷くと、栞はリュカへ顔を戻した。
「だから、靴も服もあったんだ」
「はい。怖がらせないようにと。私の耳は、人間の物語に出てくる者に似ていると聞きました」
「エルフ」
「そうです」
栞は鞄の肩紐へ手を置いた。
「散歩も、頼まれてた?」
「落ち着いたら、案内してほしいとは」
「あの、一番きれいなところ?」
「そこは私が決めました」
リュカは窓のほうへ一度目をやった。今日は風がなく、庭の葉も動いていない。
「二度目の風を待ったのは、栞さんがもう一度見たいと言ってくれたからです。そこまでは、予定にありませんでした」
栞はしばらくリュカを見ていた。
「私が何を言うかも、考えてたんですか」
「質問は想像しました。返事も、用意したものはあります」
リュカはそこで言葉を切った。
「でも、木の話が長いと言われたときの返事は、考えていませんでした」
栞の指が肩紐から離れた。
「長かったから」
「ええ。短いほうの説明をしたつもりだったんですが」
栞は笑いかけ、口を閉じた。リュカも続きを急がなかった。
冊子へ視線を戻した栞が、草原の頁を開いた。
「ダリアさんも、遊んでって頼まれたんですか」
ダリアは頷いた。
「人間の足でもできる遊びを、って。そこは言われた」
「勝たせてあげて、とか」
「言われてない。あたしが転ぶ予定もなかった」
栞は頁の角を押さえた。
「……うん」
ダリアの左袖は、手首より少し上まで上がっていた。細い傷の跡が見える。栞の視線がそこへ移ったのを、俺も見た。
「守ってくれたのも、頼まれたから?」
ダリアは袖を下ろさなかった。腕を見せるために持ち上げることもなく、卓の脇へ手を置いた。
「言われるのを待ってたら、間に合わない」
栞は顔を上げた。
ダリアが続けた。
「あの五人が来る予定なんて、聞いてない。武器を持って来たのは、あいつらが勝手に決めたことだ」
栞は俺のほうも見た。
「襲撃を手配したことはありません」
俺は答えた。
「知っていた抗議の話を伝えなかったのは、あのとき話したとおりです」
栞は小さく頷き、ダリアへ向き直った。
「怪我したのに、まだ来てほしいって」
「思ったから言った。傷がある間はここにいろ、なんて話じゃないよ」
ダリアは冊子の開いた頁を指した。
「走った日は、楽しかった。あたしも。それはそこに書いてある?」
栞は目を落とした。
「これ、前の人のだから」
「そうだろ」
栞はすぐには頁をめくらなかった。やがて指を外し、鞄から水の小瓶を出した。蓋を開け、一口飲む。
ミナは自分の前に置いていた布を畳み直した。栞は瓶をしまい、袖の花に触れた。
「ミナさんも、頼まれて……」
「花は、私が彫りました」
ミナは栞の袖を見ていた。
「服や道具を使いやすくしてほしいとは、言われました。でも、模様のことまでは」
「実家に行ったのも、決まってたんですか」
「いいえ。蓋を届ける用事があったので、私が誘いました」
「レオンさんのほう、見てたよね」
「一緒に来られるか、気になって。それと、遠出をしていいのか」
「お母さんの話は?」
「……あれは、やめてほしかったです」
ミナが前掛けへ手を置いた。
栞は今度こそ、少し笑った。笑ったあとで、留め具から指を離した。
「私に、いてほしくて、皆でやってるのかと思った」
リュカが姿勢を直した。
「一緒に過ごしたいとは思っています。でも、この国へずっと残るようにとは、頼まれていません」
ダリアも頷いた。ミナは栞の顔を見たまま、首を横に振った。
俺は椅子の肘掛けへ置いていた手を離した。
三人の説明が終わっても、俺にしか答えられないことが残った。
栞は最後の頁まで読んだ。
滞在を終え、出立。
日付と、見送りに立ち会った者の名。その下には余白がある。
栞は次の冊子を開き、終わりの頁を探した。こちらも同じだった。途中の食事には何行も使っているのに、去った日の記録は短い。
「帰るときのこと、書いてない」
俺は答えた。
「この冊子は、こちらでの暮らしを次の案内に役立てるためのものです。帰還の手順は、別にあります」
「別のを読めば、分かる?」
「手順は」
栞は俺を見た。
「それ以外にも、あるんですね」
俺は頷いた。
栞は冊子を閉じなかった。最初の食事の頁へ戻り、指で文字の列を追う。今日の昼食に出そうと思っていたものが、そこにも載っている。
「楽しかったのまで、用意されてたのかな」
声は俺へ向いていた。
俺は、それは違うと言いかけた。三人の答えは聞いただろう、と。木の鳥を選んだのも、菓子の匂いを見つけたのも栞自身だった。何もかもを俺が決めたわけではない。
だが、俺がこの順番で彼女を連れて歩いた理由は、まだ一つも話していなかった。
栞は鞄からスマートフォンを出した。昨日の写真を開き、卓へ置く。五人が近くに並んだ、撮り直したほうだった。
「これも、見たらそう思うようになるの、嫌だな」
ミナが手を伸ばしかけた。端末に触れる前に止め、膝へ戻す。リュカは何も言わず、ダリアも栞を見ていた。
俺は立ち上がった。
壁際の椅子を卓へ寄せる。栞が顔を上げた。ミナが椅子を横へ引き、俺は栞の向かいへ座った。冊子と端末は、そのままにしてある。
写真には、昨日の俺も映っていた。
「私から、すべて話さなければならないことがあります」




