今は考えなくていい
帰れます、と答えればよかった。
言葉の長さだけなら、朝食の時刻を伝えるより短い。栞はまだ、その先の手順も、支度に何がいるかも尋ねていない。俺は彼女の手にあるスマートフォンを見ていた。
「帰りたいのですか」
栞は顔を上げた。
「まだ、そこまでは」
「何か、困ったことが?」
「そうじゃないです。帰るなら、どうなるのかなって」
庭から、椅子を引く音がした。五人で撮ったばかりの写真は、栞の手の中にある。
「少し、考えただけ」
その一言を聞いて、俺は息をついた。
「それなら、今すぐ考えなくてもいいと思います」
栞は端末を卓へ置いた。俺は予定の話を続けた。
「この国での暮らしにも慣れてきたところですし。リュカとは、次の本を見る約束もあるのでしょう」
「うん」
「ミナのところへも、また行けます。まだご覧になっていない場所もありますから」
口にすると、予定はいくらでも出てきた。雨で行けなかった道、昼には景色の違う市場。見せたいものは本当にあった。栞が喜ぶ顔も思い浮かぶ。
ここが嫌になったわけではないと、もう一度言ってほしかった。
栞は俺が言い終えるまで待っていた。
「帰れるかって聞いたんだけど」
俺は口を閉じた。
「どこか行きたいとかじゃなくて」
「ええ」
「帰りたいって決めないと、聞いちゃいけないんですか」
「そういうことではありません」
「じゃあ」
栞の指が卓の上で止まった。こちらの返事が入るだけの間を、空けてくれている。
何人も見送った。いつもこの問いが出るとは限らなかった。泣きながら帰してくれと頼んだ子もいれば、食事の途中で、明日には帰ろうと思うと言った子もいた。俺は残りの日程を取りやめ、支度へ移った。
栞はまだ決めていない。
その違いを、俺は手放せずにいた。
「大事な話ですから、落ち着いて、順を追ってご説明したいのです」
栞は窓の外を見た。さっきまで皆でいた庭だ。今は誰も待っていない。
「私、落ち着いてないように見える?」
「いえ」
「それ、前にも言ったよね。怖いかどうかは、聞いてから考えたいって」
俺は頷いた。
「覚えています」
「次は教えるって、言ってくれたから」
栞の声が小さくなった。俺を責めるために大きくするのではなく、続きを言うか迷っているようだった。
俺は水差しを取った。彼女の器には、まだ半分残っている。注がずに戻すと、底が卓へ少し強く当たった。
「すみません」
何について謝ったのか、俺にも分からなかった。
栞は端末を鞄へしまった。
「ちょっと、一人でいたいです」
「お部屋まで」
「道、分かります」
栞は立ち上がった。直した肩紐を肩へ掛け、そのまま広間を出ていく。客室へ続く廊下を曲がると、足音だけがしばらく残った。
俺は卓の前に座ったままだった。
帰れないとは言っていない。栞の希望を断ってもいない。
窓の外には明るい庭がある。落ち着いて話せない場所でも、時刻でもなかった。
昼食をどうするか聞きに来た者へ、俺は少し待ってくれと答えた。
栞の部屋を訪ね、扉の外から食事を運んでもいいか尋ねた。食べます、と返事があった。それだけで幾分楽になった自分がいた。
厨房へ戻り、汁物はいつものものを、パンは小さめに切ってと頼む。果実も用意できるというので、酸味の少ないほうを選んだ。茶もあったほうがいい。用意を待つ間に自分の部屋へ戻り、明日の予定を書いた紙まで添えようとして、そこで手を止めた。
俺の机には、栞が来てからつけた記録がある。
木の鳥。葉に包んだ菓子。工房へ自分から行きたいと言ったこと。帰りたくなるかもしれないという質問は、まだ書いていない。
紙を机の端へ寄せ、食事だけを運んだ。
栞が扉を開けると、机には借りてきた本があった。閉じた頁の間に、細い紙が挟まっている。
「ここへ置いても?」
「はい」
盆を載せ、器の蓋を外した。栞は汁物を覗き込み、その隣の果実と茶の器を順に見た。
「いつもより、多くないですか」
「食べられる分だけで構いません」
「これ、私が好きって言ったのですよね」
「ええ」
俺は匙を揃えた。栞は椅子を引いたが、まだ座らなかった。
「話、変わっちゃうんですね」
俺の手が止まった。
湯気が二人の間を通った。温かいうちに食べてほしい。それも本当だ。しかし、彼女が匙を取れば、俺はその間、さっきの質問へ答えずに済む。
「食事を召し上がったあとに」
「あとで、何ですか」
栞は俺を見ていた。
「説明してくれるんですか。それとも、どこか行く話?」
果実の皿が、急に置き場所のないものに見えた。
俺は盆から手を離した。
「次の外出は、まだ決めていません」
「そういう返事じゃなくて」
栞は椅子へ座った。鞄を膝に置きかけ、床へ下ろす。初めてこの部屋へ来たときより、その動作はずっと自然だった。
「ここ、好きです」
俺は顔を上げた。
「さっき、レオンさんが聞きたかったの、それですよね」
違いますとは言えなかった。
「ご友人たちと過ごして、楽しかったのだと思っていました」
「楽しかったよ。今日も」
栞は鞄の外側の鳥を見た。
「でも、それを言ったら、帰る話はしちゃ駄目になるの?」
「駄目にはなりません」
「なら、好きだって何回も言わなくていいようにしてほしいです」
栞は匙を取った。俺へ返事を求めるのをいったんやめ、汁物を一口飲む。
俺は立ったまま、その手を見ていた。
最初に、やめてもいいと言ったのは俺だった。
栞が匙を置く。
「座ってください。上から見られると、食べにくい」
俺は向かいの椅子へ座った。
しばらく、栞は何も言わずに食べた。パンをちぎり、皿の端へ汁をつける。勧めなくても果実へ手が伸びたが、それで話が終わったとは、もう思えなかった。
「前の人たちにも、これ、出したんですよね」
「似たものを」
「部屋とか、靴とかも。困ったところを直してるって」
「はい」
栞は口元を拭いた。
「最初に帰りたいか聞いたよね」
「聞きました」
「どうやって帰るかは、一度も話してくれなかった」
机の端の本に目が行った。俺は口を開かず、栞へ向き直った。
「私が帰りたくないって言ったから、聞かなくていいと思ってた。でも、前の人は、ずっといたわけじゃないんですよね」
「……ええ」
「何をしてたのか、どのくらいいたのか。そういうのは残ってますか」
「記録があります」
栞は初めて、少し身を乗り出した。
「読んでもいいものですか」
「公開するためのものは。個人的な話は、別に保管しています」
「私が読むのも、駄目じゃない?」
「読んでいただいて構いません」
その返事だけは、すぐに出た。
栞は頷いたが、笑わなかった。
「じゃあ、見せてください。前に来た人たちの記録」




