帰るのは負けじゃない
鍋の蓋を届けに行くのに、帰りの荷物を入れる籠まで持っていく。
ミナの母親のところへ行くなら、それが正しい支度だった。前に手ぶらで帰ろうとしたときは、戸口で呼び戻され、根菜を上着へ包むことになった。今回は空の籠を二つ、荷台へ載せてある。
出発は翌朝、朝食のあとだった。
確かめた道に異常はなく、昼を挟んで訪ね、夕方には戻る。俺がその予定を話している間、栞は新しい靴の紐を結び直していた。昨日、屋敷の庭でも歩いてみたが、痛いところはなかったという。
ミナは鍋の蓋の包みを荷台へ押し込み、揺れても倒れないよう籠の間へ収めた。栞がその大きさをもう一度見ている。
「これ、荷物の半分ですね」
「蓋だけでよかったです」
「鍋ごと持ってきたこと、あるんですか」
ミナは少し考えた。
「入れる戸がなくて。外で直しました」
栞は屋敷の玄関を振り返った。比べる戸口は、そちらではないのだが、俺も初めて聞いたときは同じことをした。
乗合の荷車は、森の縁を石切り場へ向かって進んだ。草原へ行った道より狭く、途中から敷石の色が白くなる。車輪が継ぎ目を踏むたび、蓋が布の中で小さく鳴った。
ミナは音のするほうへ何度か手を伸ばした。栞が膝で包みの端を押さえると、音が止まる。
「ありがとうございます」
「こういうときは、動かしていいんですね」
「今は、大丈夫です」
「今は?」
ミナは結び目を確かめ、まだ布の下に手を残した。
「途中の物は、そのままにしておいてほしいこともあるので」
詳しくは続かなかった。栞もそれ以上尋ねず、荷車が揺れるたび包みを押さえていた。
途中の水場で一度休み、昼前には石造りの低い家々が見えてきた。
屋根は緩く斜めになり、壁の外側に薪が積まれている。庭と作業場の境目が曖昧で、食器を干している隣に、同じような大きさの歯車が並んでいた。栞は荷車を降りてから、その列をしばらく見ていた。
「洗ったあと、間違えないのかな」
ミナが歯車の下の板を指した。
「油を塗るので、別の板です」
「お皿は、こっち」
「はい」
ミナは迷わず角を曲がった。その先の戸口で、小柄な女が前掛けを外しかけていた。俺たちを見ると、いったん結び直し、戸を肘で押して開ける。
ミナが栞へ言った。
「母です」
栞は頭を下げた。母親は笑って迎え、ミナが運んできた包みへ両手を伸ばした。蓋の取っ手を確かめてから、娘の腕に掛かった袋まで持とうとして、そこはミナに断られていた。
俺は空の籠を二つ見せた。母親が満足そうに頷く。
来客として、何を期待されているかは分かっている。
庭の卓には、もう皿が並んでいた。家の者に加え、隣の作業場からも何人か来ている。皆、俺が椅子を引くより先に卓の端を空け、栞には足の届く低い椅子を寄せてくれた。魔王の挨拶を頼まれることはなく、ミナの母親が確かめたのは、栞が何を食べられるかだった。
材料はミナから聞いてある。栞は煮た根菜も焼いた生地も大丈夫だと答え、俺たち三人は庭側へ並んで座った。
修理した蓋は、すぐに鍋の上へ戻った。
栞がミナの袖を軽く引く。
「あれ、お昼の?」
「今夜の分もあります」
「ですよね」
蓋が持ち上がり、湯気が庭の光へ広がった。大きく切った根菜と肉が、深い皿へ盛られる。栞は自分の前へ来た皿を見て、空いている小皿のほうへ目をやった。
「少し、移してもいいですか。食べきれないかも」
「食べる前なら。こっちへ」
ミナが取り分け用の皿を寄せた。栞は大きな根菜を一つ戻し、そのあとで匙を取る。
俺の皿には同じ根菜が二つ載った。母親がこちらを見ていたので、頷いた。今日はそのつもりで来ている。
隣の卓から、焼きたての丸い生地が回ってきた。外は薄く硬く、中は汁を吸う。ミナは小さく割って皿の端へ浸し、栞も真似をした。
「これ、いい。底のほうまで取れる」
「冷めると、もう少し硬いです」
「それはそれで、食べてみたい」
栞の言葉を聞いた母親が、籠のほうへ幾つか取り分けていた。まだ帰り支度をする時間ではないが、荷物は増え始めた。
食卓の向こうでは、家の者が皿を渡しながら別の仕事の話をしていた。返事が終わる前にパンが回り、伸ばした手が二つ重なる。ミナも塩の器を取ろうとして、先に母親に寄せられた。礼を言う口が、少しだけ尖った。
俺は自分の匙を止めていた。
日本で、妻と食卓を挟んだ。子供の皿からこぼれたものを拾い、取ろうとした器を先に寄せられた。何の話をしていたか、毎日のことはほとんど残っていない。帰ったら話したいことはいくらでもあるのに、その前に、何も話さず自分の席へ座ってみたいと思った。
皿の汁が減っていないことに気づき、俺はパンを割った。
栞がこちらを見る。
「レオンさん、口に合わないですか」
「いえ。おいしいですよ」
「そっちのお皿、まだいっぱいだから」
「考え事をしていました」
栞はそれなら、と自分の皿へ戻った。俺も食べた。冷めかけても、根菜はまだ温かかった。
食事の終わり頃、ミナの母親が庭側の工房を指し、娘の昔話を始めた。
引き出しを一つ空けただけで、家じゅうの道具を取り上げられたような顔をされたという。近くにいた者まで覚えていたらしく、笑いが起きた。ミナは最後のパンを飲み込み、水を取った。
「捨てたと思ったんです」
母親は奥の戸棚を指した。移しただけだという返事に、ミナは知っていると頷く。それでも顔は少し赤かった。
やがて皆が食器を運び始めた。俺も空いた皿を重ね、栞は卓を拭く布を受け取った。ミナは母親へ、工房を見せてくると伝えた。
庭の卓が片づいてから、俺たち三人で隣の建物へ入った。
戸口が低い。俺は頭を下げ、そのあとにマントの裾を引き入れた。栞はもう屈まなくても入れると気づいたらしく、入口の梁と俺を見比べている。
中の台も低く、壁に沿って長い引き出しが並んでいた。ミナはその一つを開けた。細い木片が幅ごとに分けて収められている。
「これです。さっきの」
栞が隣から覗いた。
「捨てられたと思った物?」
「作りかけの部品です。この順で使うつもりだったので、並べてあったんですけど。母は、木屑だと思って」
「分かんなかったんだ」
「言ってなかったので」
ミナは一本を出しかけ、元の場所へ戻した。
「でも、勝手に片づけないでって、何度も言ったんです。ここで物を作るなら、みんなが使えるようにしなさいって、母は」
俺は台の反対側を見た。削り台には、別の誰かが使っている道具が載っている。空いているように見えた端にも、次に切る板の印があった。
栞が作業台の長さを目で測った。
「それで、今の工房に?」
「前から、自分の場所は欲しかったんです。探していたのも、本当で。でも、出ていく日にまで引き出しの話をしたので、今でもあれを言われます」
「そんなに怒った?」
「もう、自分で全部やるって」
ミナは入口へ目をやった。庭からは、鍋の蓋が鳴る音がした。
「最初に帰ったとき、夕飯を食べていきました」
栞が笑いかけ、少し迷ってから尋ねた。
「それ、負けた感じにならなかったですか」
「少し。言い返されると思ったので」
「言われた?」
「おかわりは、って」
栞の笑い声が、低い天井へ響いた。ミナも笑い、引き出しを閉めた。
「工房を出たのは、よかったです。夜まで広げていても、自分が困るだけなので」
「入口まで箱があったもんね」
「あれは片づけました」
俺は壁際の腰掛けへ座った。ここでも片づけられた道具の上へ座らないよう、先に確かめてからにした。
栞が台の角を指で撫でた。
「帰ったら、また出ていけなくならない?」
さっきまでと同じ、小さな質問だった。ミナは閉めた引き出しの取っ手から手を離した。
「泊まっていけとは、言われます。でも、今日は戻ります」
「寂しがったりは」
「します。私も、もう少しいたい日はあります」
ミナは窓の外を見た。母親が、持ち帰りの籠へ布を掛けている。
「でも、帰るのと、ずっとそこにいなきゃいけないのは、別なので。次に来る日を話して帰ります」
栞は頷きかけ、そのまま少し黙った。
ミナは引き出しの隣から、小さな木の枠を取り出した。
「これ、組んでみますか。さっきの部品は、この留め具です」
「やっていいの?」
「これは、今使わないので」
栞は手を伸ばし、枠の両端を持って引いた。真ん中で噛み合った木片が動き、四角が細長い形へ変わった。
「え、畳める」
「乾かす台です。布とか、小さい物を」
「お皿と歯車、分けるやつ?」
「これなら、菓子も置けます」
栞はもう一度開こうとした。途中で引っ掛かる。ミナが指で順番を示すと、さっき押したところを一度戻し、今度は最後まで広がった。
俺もやってみるかと渡されたが、一度目は同じところで止まった。栞が笑いながら、その反対ですと教えてくれる。二度目には開いた。
乾かす場所を増やすための道具で、三人がしばらく遊んだ。
帰る前に庭へ戻ると、栞は冷めた焼き菓子を一つ食べた。昼より硬くなった端を確かめ、持って帰っていいかミナに尋ねる。すでに籠に入っていると教えられ、俺のほうへ笑いかけた。
「籠、正解でしたね」
「二つで足りるかは、まだ分かりません」
ミナの母親は、最後に小さな包みを隙間へ入れた。ミナは次に来る用事を指で数え、戸口で短く予定を伝えた。母親は頷き、娘の前掛けの紐がほどけかけているのを示した。結び直したのはミナ自身だった。
帰りの荷車には、蓋の代わりに食べ物が載った。
栞は籠の布を押さえながら、ミナへ顔を向けた。
「また来てもいいですか」
「はい。母も、喜びます」
「今度はあの台、最初から開けると思う」
「違う組み方のもあります」
「それは、また教えてください」
ミナは頷き、荷台の端へ腰を落ち着けた。
栞は鞄から充電具の袋を出した。中の留め金を確かめ、スマートフォンへ線をつなぐ。暗い面に電池の印だけが浮かび、しばらくすると消えた。栞はそのまま両方を膝の上へ置き、荷車の横から、遠ざかる屋根を見ていた。
屋敷へ着くと、まず食べ物を厨房へ運んだ。ダリアの分も分けてもらう。左腕の包帯はまだ取れていないが、食べ物の受け取りまで断る必要はないだろう。
ミナは空いた包みをまとめ、自分の工房へ戻っていった。栞は玄関で手を振り、また明日と声をかけた。
客室まで荷物を運ぶと、栞は机の端を空けた。
「ちょっと、並べてみてもいいですか」
俺は鞄を置いた椅子から手を離した。
「どうぞ」
紙の包みが開かれ、少し乾いた葉が出てきた。木の鳥と、草の飾り。その隣へ、充電具の袋とスマートフォンが置かれる。線はもう外してあった。
栞は草の輪を起こし、鳥の顔がこちらへ向くようにした。袖の花も外そうとしたが、途中でやめ、腕を並べた品物の横へ置いた。
「増えましたね」
「鞄を直しておいてよかったです」
「まだ入ります」
栞は笑った。それから、黒い画面を指先で机の中央へ寄せる。
「皆で写真、撮っておこうかな」
俺は並んだ品物から栞へ目を上げた。栞はまだ画面を開かず、空いた椅子を見ていた。
「今度、三人も呼んで写真を撮ろう。レオンさんも、一緒に」




