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ごろごろ、と目をぎゅっと閉じた猫が、心地よさそうな声を出す。


ほどよい強さと、ちょうどいい速さで、額から尻尾まで撫でる慣れた手つきが続き、猫の満足げな響きが続いた。


「エヴァン、今日は運動しないの?」


お月を膝に乗せて、際限なく撫でている私に、アンが訊いた。


アンの友達を奪って悪いけれど、私は今、こういうぼんやりした反復的な行為が必要だった。


「うん。今日は休みなんだ。」


私の返事に、アンはそわそわと私の周りをうろついてから、私の隣に座って、慎重に訊いた。


「何かあったの?」


「……」


私は何も言わず、ただ猫を撫でつづけた。そして、これまで経験したことを思い返した。


初めて見る世界で、初めて出会った人たち。メリー、サラ、男爵……難しくて緊張する場の連続と、信じられる者のいない見知らぬ状況……


一つひとつ辿っていくうちに、どっと、涙が溢れ出した。


ぐすっ。


「……エヴァン?」


一度、泣きが決壊すると、制御を外れた涙が、だらだらと頬を伝って流れた。


長い歳月を経てきたのだから、この程度には免疫があるはずなのに。


確かにそうだった。生きてきた人生は数え切れないほどあって、その中で、ありとあらゆる人間を見てきた。この程度のことで、泣いたりしない。本来は。淡々と受け流すのが、いつも正しいやり方だった。


でも、淡々としているからといって、痛くないわけではなかった。


それとも、この体のせいか。


思春期の少女の体。ホルモンというものが、こんなにも簡単に人を揺らがせるものなのか。魂は擦り切れるほど擦り切れているのに、体はどうしても、子どものように反応した。


「……な、泣いてる?」


だらだら泣く私の隣で、アンが目に見えて狼狽した。


「あのね、アン。」


「う、うん?」


「うちのパパっていう人間。本当に、ひどい奴だった。」


「……」


思わず、言葉が飛び出した。


「最初はただ。家にも来ないから、どんな人間なんだろうって思ってて、それでも何か事情があったのかなって思ってたんだけど。難癖つけて、やたら文句言って。」


「……」


「自分の言うとおりにしないと怒って物を投げて、私に来た招待状。私が開けてもみないうちに、行くなって勝手に燃やして。」


途中途中でしゃくり上げて、声が裏返った。みっともないと分かっているのに、言葉が次々と溢れ出した。


「私のメリーが——侍女がいるんだけど。あの子は私の味方だと思ってた。知らないうちに、そう思ってたみたい。」


「……」


「なのに、私がこっそり遊びに行ったのも報告して。毎日くれてたお茶も、それパパに言われてやってたことで。それが、仕方のないことだっていうのは分かるんだけど。分かるの。あの子はお金をもらって働いてて、パパに言われたら従うしかなくて。全部、理解してるのに。」


「……」


「それでも、悔しいんだよね。」


私は手の甲で涙を拭いながら、『それにまだ——』と続けて言いそうになって、かろうじて止めた。


涙だけが、ずっと出た。


「……ひっく、ひく……」


アンは辛抱強く聞いてくれて、私の背中をとんとんしてくれた。しばらく、そうやって泣いた。


正確にどれくらい泣いたかは分からなかった。明け方の空気が冷たくて、鼻の頭がいっそう染みた。


お月は、私が撫でるのをやめると、膝から降りて、足元に頭をこすりつけた。慰めているのか、ただいつものことをしているだけなのかは、分からなかったけれど。


---


しゃくり上げが、だんだん収まっていった。私は袖で目元を最後に拭って、静かに息を吐いた。


頭の中が、妙に空っぽになった感じだった。


「……ああ。生きるの、大変だ。」


「……」


「毎回。」


「そうだね。」


「……ごめん。急に泣いちゃって。」


「大丈夫。」


「それと、ありがとう。聞いてくれて。」


「うん。」


打ち明ける場所のなかった、つかえた気持ちが、少しは晴れた感じだった。アンに、心から感謝した。


「……」


「……」


一度泣いたあとの、凪。そろそろ眠気が押し寄せてくる瞬間、アンが口を開いた。


「……実は、僕も。」


「うん?」


「僕も……父さんと母さんと……仲が良くないんだ。」


私が自分の話をしたからだろうか、アンも自分の話を少し覗かせて、驚いた。


「だから、完全に同じじゃないけど。君の気持ち、分かる。」


アンは、私と目を合わせた。その後ろで、太陽がゆっくりと昇り、アンの髪が光に染まっていった。


太陽の光とまったく同じ金髪、逆光の中で輝く緑の瞳が、だんだん明るく、鮮明に見えた。


「もうすぐ朝だね。帰らなきゃ、エヴァン。」


アンが、先に立ち上がった。


「明日も、また来るよね?」


「うん。」


なんだか、アンと本当の友達になった気がした。


---


ぐっすり眠り込んで、日が中天に昇ったのも知らず、身じろぎもせず眠りに落ちていたときだった。


コンコン。


ノックの音が聞こえた。


「……お嬢様。」


私は寝ぼけたまま、ぱんぱんに腫れた目をこすりながら、音の聞こえたほうへ行って扉を開けた。目が合うと、メリーはしばらく口ごもってから、やがて決心したように、また口を開いた。


「お話ししたいことがあるんです。」


私はメリーを部屋に入れ、互いに向かい合って座った。


「どうしたの?」


「……この前のことで、お許しを乞いたくて……」


「メリー、あのとき謝ったじゃない。」


「あれは、ただ申し訳ないって言っただけで。今日は、ちゃんとお話ししたくて。」


メリーは両手をぎゅっと握り合わせて、しばらく躊躇してから、ゆっくりと言葉を続けた。


「私、弟妹が三人いるんです。末っ子は、まだ七歳で。」


「……うん。」


「父は早くに亡くなって、母は体が良くないんです。だから、私がもらう給料が……全部なんです。うちの家族が食べていくのに。」


明け方に着た、あの平民の少年の服が思い浮かんだ。あのときは、ちょうどメリーに弟がいて幸いだ、としか思わなかったけれど。弟妹が多かったのか。


「だから私は……男爵様のお言葉に逆らえなかったんです。今みたいに仕事を見つけるのが難しいとき、一度でも悪く思われたら、追い出されたら、うちの家族は——」


メリーの声が震えた。


「分かるよ。」


私が短く答えると、メリーが顔を上げた。


「……本当ですか?」


「お金をもらって働く人が、雇い主のご機嫌をとるの、当たり前のことだよ。あなただけじゃない。」


「……。」


メリーは、しばらく沈黙した。


「それにパパも言ってたじゃない。前は言うことをよく聞く子だったのに、どうしてこんなに変わったのかって。」


イビーが不当な扱いにも大人しくしていたのは、おかしなことではなかった。親に愛されたいと思うのは、どの時代、どの世界でも似たような本能だから。子どもが親の気に入られたくて従順にすれば、そばで仕える人も、その流れに従うのが当然だった。


「だから、あなたも割り込む余地がなかったんだよ。私が逆らわないのに、あなたが先に出て、何をどうしろっていうの。」


「……。」


「でも。」


私は、メリーをじっと見つめた。


「どうして急に、こんなに真剣に謝りに来たの。それだけが理由じゃない気がするんだけど。」


メリーは、しばらく口を開かなかった。それから、ゆっくりと、慎重に、言葉を切り出した。


「今回、男爵様がいらっしゃったときです。フォークを投げられたこと、勝手に外出禁止にして、お嬢様が立ち向かうこと。それを見ていて——」


「……」


「何かがおかしいって、分かったんです。」


「おかしい?」


「はい。これまでは……ただ、全部当たり前のことだと思っていたんです。貴族の家門なら、みんなああなんだろう、お父様は、みんなあんなに厳しいんだろうって。」


メリーの手が、膝の上でぎゅっと握られた。


「そしてあの日、『私の話を、遮らないでいただけますか』とおっしゃって。怖がりもせず、まっすぐ見つめて。」


「……。」


「それを見て、初めて思ったんです。ああ、これは普通じゃなかったんだ。ああやって怒って、投げて、脅すのが——当たり前のことじゃなかったんだって。」


メリーは私を見て、小さく笑った。涙がわずかに滲んだままだった。


「お嬢様がそうやって行動なさるから、私も気づけたんです。」


そんなふうに影響を与えていた、ということか。


考えもしなかった部分だった。私はただ、癪に障って言い返しただけなのに、メリーにとっては、それが何かの基準点になったらしかった。


「それと、申し訳ないんですけど、本当にわざとじゃないんですけど、扉の外で……聞いてしまったんです。私を解雇しないでって、庇ってくださったの……」


「あれは仕方なかったでしょ。あなたも食べていかなきゃいけないし。」


「それでもです。」


メリーが頭を下げた。


「これからは、せめて心の中では、お嬢様の味方でいたいんです。報告は、しなきゃいけないかもしれないけど——気持ちは、そうなんです。」


私は、しばらくメリーを見つめた。


この世界に落ちて以来、初めて出会った人だった。最初の数日、あれこれ問いただしたときも、男爵の話以外は、意外と正直に情報をくれた。明け方に、服を一着頼んだときも、ため息だけついて、結局は持ってきてくれた。


「メリー。」


「はい。」


「あなた、これまで、ほかの侍女たちみたいに、ただ言われたことだけやって、給料をもらっていくこともできたじゃない。」


「……。」


「でも、そうしなかった。髪を切るときも、本心から言ってくれたし、サンドイッチを作ってって頼んだときも、なんとかしてくれた。ただの仕事としてだけ接する人が、する行動じゃない。」


メリーの目が、また赤くなった。


「……それは、侍女の仕事が、もともとそういうものなんです。」


「違うよ。令嬢一人に仕えるの、どれだけ仕事が多いか知ってる。食事、服、髪、外出の支度、その上、お父さんの顔色まで見なきゃいけなくて。なのに、あなたはそれを全部、誠心誠意やってくれた。」


「……。」


「ありがとう。」


短いひと言だったけれど、本心だった。


メリーは結局、手の甲で目元を拭った。しゃくり上げる声が漏れた。


「……お嬢様も、もう。」


「なによ。」


「急にそんなこと言うから、また泣いちゃうじゃないですか。」


「あなたが先に、泣く雰囲気つくったんでしょ。」


「それはそうですけど……。」


メリーが笑いながら涙を拭いた。ぎこちないけれど、温かい空気が部屋の中に流れた。


───


しばらく、二人とも黙っていた。私は、その沈黙の中で考えた。


今が、訊くときか。


これは、一種の賭けだった。メリーを完全に信じられるという保証はない。もしかしたら、これも男爵にそのまま伝わるかもしれない。でも——


今しがたメリーが言ったことが本心なら、そして、その本心に賭けてみるだけの価値があるなら。


「メリー。」


「はい?」


私は、しばし息を整えた。


「私、パパがくれるお茶。あれ、飲みたくないの。」


メリーの表情が、一瞬こわばった。


「……どうしてですか?」


「怪しいの。」


「……。」


「どうしてあんなに執着するのかも分からないし。痩せるのに良いって話も信じられない。毎回、ちゃんと飲んだか確認するのも変だし。」


メリーは、しばらく何も言わなかった。頭の中で、何かを見極めているような表情だった。


「……実は、私も、ちょっと変だと思ってたんです。」


「なにが。」


「あのお茶、男爵様が直接送ってくださるもの以外で、見たことがないんです。普通のお茶と、ちょっと見た目が違って……匂いも、少し。」


「匂い?」


「微妙にです。普通のお茶とは、違う匂いが、わずかにするんです。」


心臓が、一度、速く打った。


「メリー、お願いがあるの。」


「はい。」


「これからそのお茶、私が飲むふりだけして、こっそり捨てる。でも、それがあなたに見つかると困るから——」


「私がお手伝いします。」


メリーが、先に言葉を切った。断固とした声だった。


「こっそり捨てるのも私が手伝って。見つからないように、空の器も私が始末します。」


「……大丈夫なの? 男爵に知られたら。」


「見つからなければいいんです。」


メリーが、口の端をそっと上げた。いつもらしくない、妙に悲壮な表情だった。


「それと——一部は、残しておきましょうか?」


「一部?」


「もしかしたら、調べられるかもしれないと思って。」


『勘が鋭いな。』


私は、少し笑った。


「そう。調べてみるあてがあるの。」


「じゃあ、小さな瓶に少しずつ集めておきます。誰にも知られないように。」


「ありがとう。」


「ありがとうだなんて。こういうことくらい、お手伝いしなきゃ。」


メリーは、そう言って席を立った。表情が、いくぶん軽くなったようだった。


「お願いね。」


メリーが、小さく笑って部屋を出ていった。

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