10
約束の場所は、この前と同じ路地の入り口だった。フードを目深にかぶって近づくと、ヘンリーが壁にもたれて立っていた。
「来たな。」
「来なきゃ指が飛ぶんですから、来ないわけにいかないでしょう。」
「もっともだ。」
ヘンリーがふっと笑って、体を起こした。それから、ふと思い出したように訊いた。
「そういえば、お前の名前もまだ聞いていなかったな。」
「偽名でもよければ。」
「構わない。」
しばらく考えるふりをしてから、口を開いた。
「エヴァン。」
「エヴァン。」
ヘンリーはその名を一度、噛みしめるように口にしてから、頷いた。
「いい。」
「今日の仕事は何ですか。」
私が話題を変えると、ヘンリーが通りの一方を、顎で指し示した。行き交う人の中に、ごく普通に紛れて歩く男が見えた。
「あいつを捕まえろ。」
「なぜ?」
「理由は訊くな。」
「……。」
『大した信頼関係だ。』私はため息を飲み込んで、歩き出した。
男に近づくと、彼がちらりと後ろを振り返った。
目が合った瞬間、足が速まった。
『逃げる。』
私はすぐに後を追った。
路地を一つ、また一つ。
男が角を曲がるなり、距離を一気に詰めた。
足をかけて均衡を崩し、そのまま腕をひねり上げた。
「うわっ!」
男は少しもがいたが、力が、妙なほどすぐに抜けた。
「……?」
あまりに簡単に捕まる。
私は腕を掴んだまま、男を見下ろした。
狼狽した表情、だが、切迫感はなかった。
そこでようやく、勘が働いた。
『演技だな。』
私は男をそのまま連れて、ヘンリーのところへ戻った。
ヘンリーは腕を組んだまま、興味深そうに見ていた。
「捕まえたな。」
「これ、テストですよね。」
「……」
「最初から、捕まるつもりだったみたいですけど。」
しばし沈黙していたヘンリーが、ふっと笑った。
「勘が鋭いな。」
「こんなことで人を試さないでください。」
「確認は、しておかなきゃならなかったんでな。」
「時間の無駄じゃないですか。」
「それは認めよう。」
ヘンリーが、意外なほど早く認めた。
私はそれ以上追及せず、ひとまず流すことにした。
「次は、本物の仕事だ。」
「……今度は、信じていいんですか?」
「『若く弱い』女の子には、似合わない仕事なのは確かだ。」
ヘンリーはもっと奥まった路地のほうへ歩いていき、私もぴったり後を追った。
「……『弱い』とは、言ってないんですけど。」
前に言ったことを持ち出して皮肉るとは、本当に、いい性格して……
「そもそも、こういう仕事が得意だと分かって雇ったんじゃないんですか?」
「ここまで有能だとは思わなかったがな。お前、なんと言ってたか? 『行くあてもない』?」
にやにや笑いながら挑発してくるので、応じないわけにいかなかった。
「『頼れる者もいない』! 『若い女』! 私は事実だけを言いました。」
「そうそう、それだ。『頼れる者が一人もいない』。」
私は、聞こえよがしに、ため息をついた。
「……この議論、意味あります?」
「一つ、追加の提案だ。」
「え?」
「俺を信じろ。」
ヘンリーがにっこり笑った。
「……は?」
思いがけない言葉に、訊き返そうとした矢先、ヘンリーはさっと先へ進んで、目の前の人影に挨拶をした。待っていた騎士団員のようだった。
トントン。
ヘンリーは、相手が口を開く前に、自分の騎士団の紋章を叩いた。
「はい、隊長。ターゲットは予想ルートどおり移動中です。監視下にあります。」
「案内しろ。」
そうして騎士の案内を受け、静かについていくと、空の廃屋の二階へ案内された。ぽっかり空いた窓の向こうに、ターゲットだという人物を確認できた。
今度は、荷物を抱えた、ごく普通の男だった。
風呂敷包みを脇に抱え、速足でどこかへ向かっていた。
「あの男を捕まえろ、エヴァン。」
私はヘンリーを、一度、睨んだ。
「また演技なら、今度こそ本当に帰りますよ。」
「……今のこれが、偽物に見えるか?」
「……確認してみただけです。」
「あの……隊長、本気ですか? こんな幼い平民の女の子に……」
思いがけないところから反論が入ったが、私は無視して、窓からひらりと飛び降りた。自分の部下の管理は、勝手にするだろう。
私は、ターゲットの男の動線の予想地点に、静かに忍び込んだ。男はこの仕事に慣れているのか、猫のように音もなく、素早く動いた。
彼は、私が隠れている場所へ、だんだん近づいてくるかと思いきや、人の気配を察したように、別の方向へ走り出した。
『ちっ、まだ未熟か。』
こんな雑魚にも気づかれるとは、と自分を責めながら、私はすぐさま彼を追跡した。
息が喉まで上がるほど全力で走ったが、一ブロック、二ブロック過ぎるたびに、だんだん距離が開いた。
『やっぱり、まだ先は長いな。』
たった一か月あまり鍛えた体力で、裏路地を何年も駆け回ってきた人間に追いつけるはずがなかった。
仕方なく、魔法を使わなければならなかった。
『上から見ているんだろうな……』
ヘンリーが気になったが、どうせ魔法の使用は知られている手前、失敗する姿を見せるほうが、もっと嫌だった。
足の裏に集中して、爆発的に空気を膨張させた。タイミングを合わせ、空気が弾ける地点に足を踏み込んで、ひらりと跳び上がった。
『あそこだ。』
空中でターゲットの位置を確認し、同じやり方で、爆発する空気を踏んで、目標地点へ直線に、体を撃ち出した。
ドンッ!
速い速度で体をぶつけて男を倒したあと、素早く腕を極めた。
「離せ! この、いかれ……」
今度は、本物だった。
罵声も、あがきも、全力で抜け出そうとする、もがきも。
私はかろうじて制圧したまま、息を整えた。
しばらくして、ヘンリーが騎士団を数人引き連れて近づいてきた。
彼は、ターゲットが落として地面に散らばった風呂敷包みを、解き広げた。
そして、現れた荷物を漁ってから、小さく笑った。
「当たりだ。」
「何なんですか?」
「裏社会の依頼所の、配達係だ。」
「……!」
心臓が、どきりと落ちた。
私がヘンリーに捕まったあの日、向かおうとしていた場所。
まさに、その依頼所だった。
荷物を漁っていたヘンリーが、書類を数枚、取り上げた。
ざっと目を通した彼の表情が、わずかにこわばった。
「思ったより、大きな案件になりそうだ。」
そばにいた部下に、書類を渡した。
「騎士団へ持っていけ。」
「はい。」
前に見た「ロビン卿」を先頭に、部下たちが速やかに証拠品と男を引きずって消えた。
路地には、私とヘンリーだけが残った。
私は腕を組んで、斜に構えて言った。
「今回も、テストだったんですね。でしょう?」
私があの日、探し回っていた依頼所の件を、直接処理させて、その反応を見たんだろう。私が本当に、この違法な依頼所と関わりがないか、テストをしてみたのだ。
「信頼関係のために、必要なことだった。」
「結局、あなたに都合のいいことばかりしてやったわけですね。私は依頼所を失ったのに。」
「その逆だ。」
私は、さあ言ってみろ、という態度で、彼を睨みつけた。
「あの日、俺たちが監視していた道筋に、お前が現れた。怪しいお前を牢に入れることもできたが、今こうして、一緒にいるじゃないか?」
ああ、つまり——私が依頼所を訪ねたあの日、騎士団はすでにそこを監視していて、関係者を捕らえる準備をしていたのに、折悪しく私がそこを通りかかり、関係者として牢に入れる代わりに助手にした、だから今日こうして、先送りになっていた掃討を一緒にやった。そういうことか?
「ああ。」
……腹は立つが、納得してしまった。
「それに、今回は報酬もあるぞ。」
「報酬?」
「依頼しようとしていたものが、あったんじゃないか?」
「……」
しばし、沈黙が流れた。すると、ヘンリーが肩をすくめた。
「代わりに、俺がやってやろう。」
……え?




