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書斎の本棚を、ほぼすべて読み尽くした。
この国の歴史、貴族の家系図、地理、社交界の礼儀作法書まで。おかげで、たいていの家門の名は、聞けば位置が思い浮かぶほどになった。
問題は、そのすべてが十年以上前の、活字の中の情報だという点だった。
『生活様式は身につけたから、立ち居振る舞いがぎこちなくて目立つ、というほどではなくなっただろう。』
だが、私が知りたい情報は、本の中にはなかった。
ブレア男爵。そして、ベス・バクスター。
私と同じく、今この時を生きて呼吸している人間について知りたいなら、足を運んで自分で調べるしかなかった。
「メリー、ちょっと外出しないと。」
「……どちらへ?」
「街へ。」
メリーの表情が、妙にこわばった。もともと私の外出には困っていた子だが、今日は何かが違った。
「お嬢様、今日はちょっと……」
「どうして。」
「男爵様が、外出禁止令を出されたんです。今日から。」
「え?」
思いがけない外出禁止令に驚いたのも束の間、昨日の不快な食事の時間を思い返してみると、男爵ならやりかねない御仁だという気がした。
「今朝、急にそうおっしゃって。イビーお嬢様の外出は一切禁止だと。」
私はメリーの脇をすり抜けて、まっすぐ男爵の執務室へ向かった。
扉を叩く間もなく、中から男爵の声が聞こえた。
「誰だ。」
「私です。」
「入れ。」
扉を開けると、男爵は机に向かって書類を見ていた。顔も上げないままだった。
「外出禁止だなんて。」
「ああ。聞いたか。」
「理由は何ですか。」
男爵が、そこでようやく顔を上げた。眼差しが、いつもより鋭かった。
「理由が必要か? 私の娘だ。私が決めれば、それが理由だ。」
「……急に、どうして。」
「近ごろお前が出歩いているという話を聞いた。」
私は内心どきりとした。もしや、毎朝の外出がバレたのか。
男爵がどこまで知って言っているのか分からず、しらを切って訊き返した。
「それは、どういう意味でしょう?」
「ティーパーティーを一度許してやったら、浮かれおって。この前は、勝手にアッシュフォード家にまで行ったそうじゃないか?」
私が毎朝、空き地に出ているという事実は、知らない様子だった。
これを幸いと言うべきか。
「この一か月のうち、たった二度出かけただけなのに、それでもですか!」
「イビー。」
男爵の声が低くなった。警告だった。
「もう一度だけ言う。外出、禁止。」
「……。」
『たった二度出かけただけでこれだけ怒り狂うんだから、運動しに毎日出てるのを知ったら、ひっくり返るだろうな。』
イビーの外出に対する、この病的な執着の原因は何だろう。
疑問を噛みしめる間もなく、男爵が私の注意を引いた。
「当然、これも禁止だ。」
机の片隅にあった手紙を取り上げて振ってみせたのだが、その封筒にはこう書かれていた。
『ご招待いたします ——ベス・バクスター』
ベスのティーパーティーの招待状だった。
先日、ハリントン子爵令嬢のティーパーティーで予告していたことが、もう進んでいるのか、すでに招待状が届いていた。それも、男爵の手に。
「だめ、それは!」
彼は棚の上にあらかじめ灯しておいた蝋燭に近づき、手紙の端を、揺らめく炎に近づけた。
慌てて手を伸ばしたが、すでに燃え移った火は、あっという間に手紙を食い尽くし、灰になって舞い散った。鼻先を、ティーパーティーで嗅いだ残り香がかすめて過ぎた。
度を越した男爵の行動に、怒りがこみ上げた。
「今、何をしてるんですか!」
ドン。
男爵が机を打ちつけた。インク瓶が揺れた。
「何を偉そうに、大声を出す!」
私は負けじと言った。
「私宛の招待状ですよ! それをどうして勝手に燃やすんですか!」
「そもそも、お前が行いを正すべきだったんだ! 親の許しもなく、どこをほっつき歩く!」
あげくに私の行いを責める男爵の言葉に、言葉を失った。
「は……」
「お前は今のような時期に、うまい飯を食って、よく眠って。それがどれほど容易いことだと思ってる! 感謝こそすれ!」
男爵は舌打ちしながら、ぶつぶつと文句を言った。
「あの侍女もだ。あれだけしっかり教育してやったのに、子ども一人の監督もできないとは、ちっ。」
メリーの話だった。これまでメリーを含む使用人が、私の外の活動を阻んでいた理由が、ここにあった。
男爵が命じていたのか。
私が「侍女」という言葉に、びくりとすると、男爵はその反応を見逃さなかった。
「一度の失敗は見逃してやる。だが、もう一度こんなことがあれば、追い出す。」
「……なんですって?」
「お前の侍女のことだ。監督もできない侍女を、置いておく理由はないだろう?」
卑劣だった。今度は、別の人間を人質に取るとは。
「私が出かけることと、メリーに何の関係があるんですか。」
「無能な侍女は、切るべきだろう。違うか?」
男爵は満足そうに、口の端を上げた。自分の論理に、自分で満足している表情だった。
もはや言い逃れできず、弱みを握られて、無力に抗弁した。
「はぁ……メリーに、非はありません。」
「非があろうとなかろうと、使用人を切るのが問題になるか? ただ、運が悪かっただけだ。」
『この人、本当に。』
私はしばらく彼を見つめた。何を言っても通じない顔だった。そもそも、会話ではなかった。脅しだった。
頭の中で罵倒が一バケツぶんこぼれ落ちたが、口に出したのは、たったひと言だった。
「……はい。」
「何?」
「分かりました、と言ったんです。」
男爵が驚いたように目を見開いた。あまりに素直なのが、意外だったらしい。
「……そうだ。最初から、そうやって言うことを聞いていればいいものを。」
私は答えず、身を翻して執務室を出た。
扉を閉める瞬間、内心でもう一度、罵倒を飲み込んだ。
『くそくらえ。「分かった」とは言ったけど、「出かけない」とは言ってないでしょ。』
執務室を出た途端、顔色を真っ白にしたメリーと出くわした。
「メリー。」
「は、はい、お嬢様?」
「あなた、私がサラの家に行ったこと、告げ口したの?」
メリーの顔がこわばった。
「そ、それは……男爵様が直接お尋ねになって……嘘はつけなくて……」
「……。」
「ごめんなさい、お嬢様。本当にごめんなさい。」
私はしばらくメリーを見つめた。
理解はできた。金を払うのは男爵で、これまでメリーは文句も言わず、言われるままに従ってきた。食事のたびに見せる下男たちの顔色、使用人たちの妙に日常的な反応を見ても——こういう報告は、この家ではあまりに当然の手順だった。メリーが特別に裏切ったわけではなく、ただ、この家のルールに従っただけだった。
分かっていても。
「……そう。」
私は短く答えた。そして、続けて言った。
「いいの。今日一日は、私の部屋に入らないで。」
「お嬢様?」
「私はあなたを理解してる。でも、私の寂しさも、少しは理解してよ。」
できるだけ演技めかして、もの悲しいトーンをつくって言った。メリーの目が丸くなった。
「あ、お嬢様、それは——」
「今日一日だけよ。」
私はその言葉を残し、メリーの脇を通り過ぎて部屋へ向かった。背後で、何かもっと言おうとして飲み込む気配が感じられたが、振り返らなかった。
部屋の扉を閉めると、廊下の向こうから、遠ざかっていく足音が聞こえた。何度も、ためらうように途切れながら遠ざかる足音だった。
『少し、悪いな。』
でも今夜、メリーが私の部屋に入らないことが重要だった。少しばかりの罪悪感くらいは、引き受けるに値した。
廊下が静まり返ってから、私は鏡台の引き出しから鋏を取り出した。髪を切ったときに使った、あの鋏だった。
窓辺へ行って、カーテンを一枚、荒っぽく切り取った。厚手で暗い色だから、夜間の偽装にぴったりだった。ざく、ざく、慣れた手つきで形を整えて、ローブの形にした。フードもたっぷりと。
『これでよし。』
出来上がった即席のローブをクローゼットの奥に隠して、私はベッドに横になり、夜が深まるのを待った。
『依頼所でも裏路地の便利屋でも、情報を集めてくれる場所を、外で探さないと。』
今すぐ男爵に対抗する力はなかった。衣食住のすべてを彼に依存しているし、人間関係は孤立している。
まずは男爵について裏を調べながら、助けてくれる人を探し、生きる道を見つけよう。独立する方法を。
日が沈んで夜になると、私はマナを引き上げて、顔の輪郭をぼかした。指先が細かく震えた。鏡の中、見知らぬ顔が私を見返していた。
これまで、こつこつとマナの修行を並行してきた結果、ほんの少しだが、魔法を使えた。今回使う魔法は「認識阻害」。私に会った人は、私の顔をまともに覚えられない。自分の潜在能力をすべて引き出して使えるほどではないにせよ、私には長い歳月、魔法を使ってきた経験と熟練があるからこそ可能な、高度な魔法だ。だが……
『持続時間は、長くて一時間半。』
魂の熟練度と、肉体の熟練度が同じではないから、限界が存在した。それでも初日なのだから、欲は出さないことにした。これから、マナの熟練度も少しずつ上がっていくだろう。
急ごしらえのローブを羽織り、フードを深くかぶってから、窓を開けて、静かに抜け出した。
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街は、明け方とはまったく違う顔をしていた。
店が立ち並ぶ通りを歩きながら、私は周囲を目に収めた。ドレスの仕立て屋の陳列窓には、華やかなドレスがマネキンに掛けられていた。
書物で見た、ファッション誌を思い出した。装飾が過剰になるほど、次には反動が来る。フリルとリボンが絶頂を打ったのだから、次の流行はきっと、単純で洗練されたラインのはずだ。
次は、パン屋だった。ショーケースが空っぽになっていた。
『ああ、ここのカスタードパイ、美味しいって言ってたな。』
ティーパーティーで令嬢たちが、この店の話をしていたのを思い出した。昼間に出歩けるようになったら、また来てみよう、と思いながら歩を進めた。
通りの端に行き着くと、小さな噴水が見えた。水は淀んでいて、あたりは静かだった。店もすべて閉まって、闇ばかりだった。
『明け方とは、また違った趣があるな。』
私はそっと息を吸い込んだ。夜の空気は、冷たく清らかだった。
噴水を中心に、いくつもの道が枝分かれしていた。そのうちの一本の道からだけ、明かりが漏れていた。
『あそこが、夜間営業の商店街かな。』
私は、そちらへ足を運んだ。
歩きながらそっと見回すと、騎士の装いをした人たちが、思ったより多く歩き回っていた。
『巡回してるのか? 治安に、けっこう気を配ってるみたいだな。』
道に沿って歩きながらも、私は見つかると厄介だという思いから、自然と足取りを慎重にした。壁に張りつき、光を避け、歩く速さを落とす。
『今は、こっそり出てきたんだから。誰にであれ、見つかっていいことはない。』
私はフードを目深にかぶり、人気のない道を選んで歩いた。暗い物陰で壁に張りついては、また歩き出すことを繰り返した。
それでも、これまで使用人たちの動線を避けてきた経験がどこへも行かなかったのか、何度も巡回をかすめるように通り過ぎながら、ほとんど見つからなかった。少し見つかりそうになった瞬間も、影へ素早く滑り込んでかわした。
自分に満足しながら、次の路地に入ろうとした瞬間。
がしっ。
誰かが後ろから、肩を掴んだ。
「おい。」
突然の呼びかけに驚いて、反応が、考えるより先に出た。一瞬で、相手の腕をひねって、極めてしまった。
「……!?」
私は、できるだけ低く、威圧的な声で問うた。
「何だ、お前は。」
相手は私と同じく、フードをかぶった、大柄な男だった。影に隠れた顔の中で、驚いたように見開いた目だけが、光を受けてきらめいていた。
「こっちのセリフだ。」
彼が鼻で笑った。腕を極められたままでも、余裕のある声だった。
「俺は治安隊だ。名を名乗れ。」
治安隊。
その言葉を聞いてから、ローブを留めたピンが目に入った。騎士団の紋章だった。
私は素早く頭を巡らせた。正体を知られると厄介だった。魔法も身分も、説明できはしない。
私は一瞬で、態度を切り替えた。
「ひっ。あ、すみませ〜ん。」
手をそっと解いて一歩下がりながら、私は精一杯、軽いトーンで、おどけてみせた。
「私、てっきり、夜にうろついてる怪しい人かと思っちゃって〜」
「……。」
男が、掴まれていた腕をそっとさすりながら、私をじっと見た。何か、おかしな表情だった。
「でも私、ちょっと急いでるので。はは〜」
私はそれを最後に、身を翻して路地の中へ消えた。振り返りもせず。
いくつか路地を素早く横切ったあと、私は暗い軒下で、しばらく息を整えた。
心臓が速く打っていた。マナのせいか、さっきのあの瞬間のせいか、判別がつかなかった。
『危なかった。』
手が先に反応したのが問題だった。普通の一般人の技ではなかったから。あちらも、きっとおかしいと感じただろう。
『まあ、どうせ顔も隠してるし、二度と会う仲でもないだろう。』
『これ以上は危ないから。今日はもう、家に帰ろうか。』
そう思いながら、私は再び足を運んだ。
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一方、その場に残った男は、しばらく同じ場所で、腕をさすっていた。
軽い体格、女に違いない声。それなのに、反応の速さは、そこらの騎士見習いより速かった。腕を極める手つきも——正確で、迷いがなかった。
「……なんだ、あれ。」
彼は、消えた路地のほうをしばらく眺めてから、口の端をわずかに上げた。
面白いものが、できたようだった。




