5
短くなった髪への反応は、意外なところから先に返ってきた。
「髪、切った?」
先に公園へ来ていた少年が、私を見るなり言った言葉だった。
「どうして分かったの?」
少年が、私の頭の上を指さした。
「帽子の膨らみ。減ってるよ。」
思わず、帽子越しに頭のてっぺんを触ってみた。確かに、触った感じは違う。
「鋭いね。」
「にゃあ〜」
言いたいことを言い終えた少年は、また猫のほうへ視線を移した。もう会話は終わり、とでもいうように。
「ねえ。」
私が呼ぶと、少年が顔を上げた。何、という眼差しだった。会話は再開だ。
「私たち、出会ってけっこう経つのに。名乗り合ってもいないの、気づいてる?」
「あ……名前。」
「あなたを何て呼べばいいか分からなくて。名前、教えてくれる?」
「僕の名前は……」
たかが名前が何だというのか。もったいぶる少年を、辛抱強く待ってやった。
「アン……アンドリュー。アンドリューだ。」
答えが遅かった。名前を言うのに、あれだけ考える必要があるということは、たぶん。
「それ、偽名?」
「……うん。」
「いいよ、私はエヴァン。」
「偽名でしょ?」
「そう。」
「……」
私の答えに、少年は沈んだ顔をした。まるで、偽名に偽名で返されたのを、仕返しだと受け取ったみたいに。
でも私は、むしろ好都合だと思っていた。うかつに自分の名前を明かすのは、ためらわれたからだ。大したことのない貴族でも、貴族は貴族なのだから。
それに、彼が偽名で答えるだろうことは、予想がついていた。
少年の身なりは、誰が見ても平民のものではなかった。みすぼらしいマントで隠そうとしているようだったが、ちらりと覗く上衣と袖口だけでも分かった。とんでもない金持ちか、貴族の子息か。どちらにせよ、本名を言ってくれるという期待はなかった。
「名前なんて、大したものじゃないでしょ。互いに区別して呼べれば、それでいい。」
私の無頓着な返事に、少年は安堵した表情を浮かべた。
私は続けて言った。
「それじゃ、アン。」
「アン?」
「うん、アンドリューを縮めてアン。」
アンはその呼び名が気に入ったのか、目に見えて表情が明るくなった。
『……実に分かりやすい子だ。』
「アン、私、これでも男装してるんだけど。」
「でも、女の子でしょ。」
「バレてる?」
「うん。」
「もう、知らないふりくらいしてよ。」
「……」
私が軽口で返すと、アンはどうしていいか分からない様子だった。顔を赤らめ、そわそわして落ち着かないその姿が、
『可愛いな。』
私はこっそり、くすくす笑った。
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その日は、朝早くから使用人たちが慌ただしかった。数えるほどしかいないのに、まるで十数人が動いているみたいに、廊下がざわついていた。食堂のほうから食器のぶつかる音、誰かが急いで階段を上り下りする音が、絶え間なく続いた。
「メリー、何かあったの?」
「今日、男爵様がいらっしゃるそうです。」
「……ああ。」
私がイビーのふりをした一か月あまり、鼻先ひとつ見せなかった男爵が、ついにご登場だという。私は男爵の無関心に舌打ちする一方で、はたしてどんな人間なのか気になっていたのだが、ようやく直に見る機会ができた。
「いつも通りお部屋にいらっしゃれば、男爵様がお呼びになります。そのときお迎えに上がりますね、お嬢様。」
メリーは、緊張した様子がありありと見てとれた。私は文句も言わず、メリーの言う通り午前中ずっと部屋に閉じこもって待った。じっとしているのに飽きてきた頃、昼餐の時間になって、メリーが扉を叩いた。
「男爵様が、食事に降りてくるようにと。」
私はメリーの世話を受けてきちんと着替え、食堂へ向かった。
メリーは食堂の扉を開けると、音もなく素早く壁際へ寄って立った。そこには、数えるほどしかいない男爵家の使用人が全員、並んで頭を下げ、控えていた。
小さな食堂で、男爵が食卓の真ん中を、先に陣取っていた。
恰幅のいい体格、垂れた目元、きっぱりと結ばれた唇。神経質そうな印象が、体格と対照的だった。
「イビーか。」
男が私を見て言った。声に、特別な感情はなかった。
「……はい。」
私は適度に距離を取って席についた。メリーの話では、この人がブレア男爵、つまりイビーの父親だという人物だった。
「髪はどうして、そんなに短くなった。」
「切りました。」
「女の子がはしたない、その髪はなんだ?」
「ずっと涼しくて、楽です。」
男爵の眉が、わずかに上がった。
『ああいう古臭い考えの人は、どこにでもいる。』
私は特に反応もせず、スープをすくった。いつも美味しいけど、今日は格別だな。
「それで、茶はちゃんと飲んでいるか。」
男爵が話題を変えた。私はスプーンを止めて、彼を見た。
「お茶ですか?」
「私が送った茶のことだ。」
ああ。メリーが毎日勧めてきた、あのお茶。
メリーの話では、毎朝飲んでいた茶だと言っていた。男爵が特別に取り寄せてくれるものだと。
「飲んでいます。」
「欠かさず?」
「はい。」
男爵はその答えに満足したように頷き、ステーキを切り分けはじめた。
「見ない間に、ずいぶん肉がついたな?」
「はい。正確には、健康になったんです。」
「同じことだ。少し痩せろ。前のほうが、ずっとよかった。」
「健康を害しますけど?」
「それは勝手にしろ。今日に限って、どうしてこう口答えする!」
『まったく。』
「私が送った茶のことだ。痩せるのに良いと、女たちの間で人気のものだ。役に立つはずだ。」
男爵は、分厚いステーキをなかなか優雅に平らげていった。
私はその様子を見ながら考えた。
お茶に、どうしてあんなに執着するんだろう。
娘に会いに、たびたび来もしない人が、茶を飲んでいるかどうかは必ず確認する、というのが妙だった。何か理由がありそうだったが、今は分からなかった。
「イビー、それはそうと。」
男爵がフォークを置き、姿勢を正して座り直した。何か重要なことを言おうとする態度だった。
「お前に、いい知らせを持ってきた。」
「……何ですか?」
「縁談を取ってきたぞ。」
私はスプーンを手にしたまま、少し止まった。
「縁談ですか?」
「なかなか良い家柄だ。」
男爵が、満足そうな表情で言った。私はゆっくりと、スプーンを置いた。
「どなたですか?」
「何?」
「お相手です。」
男爵が眉間にしわを寄せた。よくもまあ、そんなことまで気になるものだ、という表情だった。まったく。
「プリチャード家の、ウォルター・プリチャード。」
男爵が、しぶしぶといった様子で短く答えた。
プリチャード。貴族の家系図で見た名前だった。
「いえ、ちょっと待ってください。あの家門は確か……」
ドンッ!
男爵の拳が、食卓を打ちつけた。皿がガタンと揺れた。
「少し、静かにできんのか! 今日に限って口数が多いな!」
「いえ、でも常識的に……」
「口答えするな! 食事の席で、どうしてこう食ってかかる?」
ブレア男爵は、顔まで真っ赤にして、荒い息を吐いていた。予想より、ずっと高圧的な態度だった。
盗人が自分の足音に怯えるというが、とんでもない縁談を持ってきたものだから、私が反発する前に、ああやって押さえつけているのだ。
私は一拍待ってから、言った。
「私の話を、遮らないでいただけますか。」
「なんだと? この、生意気な!」
男爵は、自分の怒りに耐えかねて、手に持っていたフォークを投げた。
カンッ。
フォークは私の耳のそばをかすめて、壁にぶつかった。
食堂が静まり返った。
使用人たちさえ、息を殺した。
「どこで、そんな無作法に食ってかかることを覚えた。」
「……」
私はその姿を見ながら、内心でため息をついた。
この人、本当に最低だな。
保留していた判断を言い渡すように、無表情で彼の目をまっすぐ見据えた。息を荒らげていた彼が、びくりとした。
「……お前、少し変わったな?」
「え?」
「前は頭を下げて、はいはいと。言うことくらいはよく聞いていたじゃないか。今日は、何か悪いものでも食べたか?」
男爵が目を細めて、私を観察した。疑うような眼差しだった。
私は、納得できそうな説明を適当にこしらえた。
「これまで言うことをよく聞いてきたのに、お父様が私をぞんざいに扱われるので、考えを変えたんです。」
イビーがこれまで言うことをよく聞いてきたか、男爵がイビーをぞんざいに扱ってきたかは、今の態度を見ただけでも分かった。でも、これからは違うだろう。
「何?」
「自分のことは、自分で決めます、ということです。」
「……」
男爵は、しばらく何も言わなかった。何か言い返したいことが多そうな表情だったが、正確に何を言い返せばいいのか分からない顔でもあった。
「ゴホン。」
結局、短い咳払いだけを吐き出し、手振りで使用人を呼んで、新しいフォークを受け取った。
「ともかく、静かに飯でも食え。今日は、良い日なんだからな。」
『自分のほうが多く喋っておいて、私に静かにしろと言う。』
「言っておきますが、私は結婚するつもりはありません。」
私の言葉に男爵は顔をこわばらせたが、すぐにふっと笑って返した。
「それは、お前の思い通りになることじゃないんだよ。」
私はそれ以上何も言わず、食事を続けた。話が通じないのは、火を見るより明らかだったからだ。
イビーが望んだという結婚? してやるつもりはない。いざとなれば、逃げてしまえばいい。
男爵はその後、特に何も言わず、自分の皿だけを空にした。ときどき、私をちらりと盗み見るのが感じられた。いつもと違う娘を、どう受け止めればいいのか、見定めるような視線だった。
食事が終わる頃、男爵が席を立ちながら、ひと言だけ投げた。
「……体は、大丈夫なんだな。」
思いがけない言葉だった。私は少しの間、彼を見た。
「はい。」
「そうか。」
男爵はその言葉を最後に、食堂を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
食堂に、静寂が流れた。
私は残ったパンをゆっくり噛みながら考えた。
なんだ、心配してるのか? そういう感じでもないけど。
確信はできなかった。単に体面を取り繕っただけかもしれないし、本当に心配の混じったひと言だったのかもしれない。どちらにせよ、今すぐ確かめる方法はなかった。
私は食事を終えて、席を立った。




