37
その夜、私は男爵として堂々と詰所に入った。
ローブはいつもと同じだった。まだ夜の助手だったのだから。
ただ、その下から覗く服の裾だけは違った。今では男爵の身分にふさわしい服だった。
夜勤組の何人かがその裾をちらりと見た。そして誰も何も言わなかった。
この詰所は、見て見ぬふりの訓練がとてもよくできていた。
上から。
『上から。』
昨夜、帳簿を見ながらも同じ言葉を思い浮かべた。
船一隻分の貨物が丸ごと記録から抜けているのに、誰も問いたださなかった。ここで私の服の裾を見て見ぬふりするのと同じだった。
下の者が怠けているからではない。上の者がそうしろと言ったからだ。
見て見ぬふりをするのにも決裁が要る。
もちろん、この詰所で見て見ぬふりをさせている者と、港でそうさせている者は違う。
その事実は昨夜確かめた。
だが今日は、その話をしに来たのではなかった。
私は胸を張って声を上げた。
「ロビン卿に面談を申し込みます」
奥で紙をめくる音が止まった。
隊長の席だった。
「……入れ」
答えたのはロビン卿だった。
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「座れ」
私が椅子に座りきる前に、紙が一枚、机の上へ滑ってきた。
「雇用契約書だ。読んでみろ」
私は中腰のまま止まった。
用意してきた言葉が、まるごと行き場を失った。
「……私が何を言いに来たか、お分かりでしたか?」
「ずいぶん前から分かっていた」
「……」
「助手を何か月も無報酬で働かせていた。書類の上では、この詰所が男爵になる予定の者を労働搾取したことになる」
彼はその言葉を、報告書でも読むように言った。
「治安隊が騎士団の傘下機関であることは知っているか?」
「はい、だいたい」
誰かが教えてくれたわけではない。
詰所で『騎士団』と『騎士』、『治安隊』と『隊員』という言葉がときどき混ざって使われるので、聞きかじって推測しただけだ。
騎士団員の一部が、自らの意思であれそうでなかれ、治安隊に派遣されて勤務しているらしかった。
「騎士団がどういう立場にあるかも知っているだろうな」
今度は聞きかじった知識すらなかった。
知らない。
「……だいたい」
「騎士団に正式に名を連ねるには入団の手続きを踏む必要がある。男爵になったからといって、その手続きがなくなるわけではない」
「ああ」
「だからまずは期限付きの傭兵として契約する。正式な入団を望むなら、いつでも歓迎だ」
私は契約書に目を通した。
そして金額のところで目が止まった。
「……これ、金額が」
「多いか?」
「……はい」
「少なければ言え」
少なければ言え、ときた。
私はおとなしく口をつぐんだ。
羽根ペンを取ろうとすると、ロビン卿が口を開いた。
「訊きたいことがある」
「……はい」
「なぜ私のところへ来た?」
「……え?」
「雇用条件は本来、隊長の管轄だ。お前はあの人の助手だろう。それなのに私に面談を申し込んだな」
私は羽根ペンを置いた。
これは適当に答えてはいけない問いだった。
「……隊長には言いにくくて」
「理由は?」
「断れないだろうと思うので」
「……」
「私が雇ってくれと言えば、あの人は何でも与えてくれるでしょう。どんな役職でも」
私は契約書を見下ろした。
「でも、それは私が勝ち取ったものではありません。ただ与えられただけです」
少し言葉を選んだ。
「私は自分の力で勝ち取った立場が欲しいんです。好意ではなく」
ロビン卿はしばらく黙っていた。
「……隊長には頼みにくいのか?」
「頼みにくいんじゃありません。近すぎるんです」
彼が初めて私をまっすぐ見た。
私はその視線を避けなかった。
しばらくして、ロビン卿は契約書を私のほうへ押し戻した。
私は羽根ペンを取った。
署名欄の上に記された名前を確かめていて、ふと彼の姓が思い浮かんだ。
キャンベル。
少し前にも聞いた名前だった。
「……卿」
「言え」
「キャンベル家の方ですよね?」
ロビン卿は否定しなかった。
「少し前に報せを聞きました。ベクスター子爵家のご令嬢と、アレックス・キャンベル卿のご婚約」
「……聞いたか」
「私はその場にいました」
「……」
「おめでとうございます。弟君のご婚約ですから」
ロビン卿は祝いの言葉を受け取らなかった。
代わりに机の上の書類を整えた。
すでにきちんと揃っている書類だった。
「……私も近々だ」
「え?」
「婚姻だ。近いうちに決まる」
祝いを言おうとしてやめた。
あの人の声には、祝いの言葉が入り込む余地がなかった。
私は代わりに別のことを訊いた。
「……良い方ですか?」
「身分の高い方だ」
それが答えだった。
良い方かと訊いたのに、身分の話が返ってきた。
「……お断りは?」
「何?」
「なさりたくないなら、断ればいいじゃないですか」
ロビン卿が私を見た。
そして初めて笑った。
笑ったのに、少しも楽しそうには見えなかった。
「……お前は」
彼は少し言葉を選んだ。
「何でも分かっているようでいて、本当に何も分かっていないな」
「……」
「隊長の言ったとおりだ」
私はその一文を二度聞いた。
一度は耳で、一度は頭で。
『隊長の言ったとおりだ。』
つまりあの人は、私のいないところで私の話を聞いたということだ。隊長から。
そしてそれは、隊長が私のいないところで私の話をしているという意味で。
……。
私はその考えをひとまず脇に置くことにした。
今はほかのことのほうが急だった。
断れない婚姻。
キャンベル公爵家の三男が断れない相手だなんて。
公爵家より上にある家門が、この国にいくつあっただろう。
私は指を一本ずつ折った。
そして一つだけ残った。
「……まさか」
「……」
「お相手が、まさか皇太女殿下でいらっしゃるとか?」
ロビン卿は答えなかった。
*え、本当に?*




