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その夜、私は男爵として堂々と詰所に入った。


ローブはいつもと同じだった。まだ夜の助手だったのだから。


ただ、その下から覗く服の裾だけは違った。今では男爵の身分にふさわしい服だった。


夜勤組の何人かがその裾をちらりと見た。そして誰も何も言わなかった。


この詰所は、見て見ぬふりの訓練がとてもよくできていた。


上から。


『上から。』


昨夜、帳簿を見ながらも同じ言葉を思い浮かべた。


船一隻分の貨物が丸ごと記録から抜けているのに、誰も問いたださなかった。ここで私の服の裾を見て見ぬふりするのと同じだった。


下の者が怠けているからではない。上の者がそうしろと言ったからだ。


見て見ぬふりをするのにも決裁が要る。


もちろん、この詰所で見て見ぬふりをさせている者と、港でそうさせている者は違う。


その事実は昨夜確かめた。


だが今日は、その話をしに来たのではなかった。


私は胸を張って声を上げた。


「ロビン卿に面談を申し込みます」


奥で紙をめくる音が止まった。


隊長の席だった。


「……入れ」


答えたのはロビン卿だった。


---


「座れ」


私が椅子に座りきる前に、紙が一枚、机の上へ滑ってきた。


「雇用契約書だ。読んでみろ」


私は中腰のまま止まった。


用意してきた言葉が、まるごと行き場を失った。


「……私が何を言いに来たか、お分かりでしたか?」


「ずいぶん前から分かっていた」


「……」


「助手を何か月も無報酬で働かせていた。書類の上では、この詰所が男爵になる予定の者を労働搾取したことになる」


彼はその言葉を、報告書でも読むように言った。


「治安隊が騎士団の傘下機関であることは知っているか?」


「はい、だいたい」


誰かが教えてくれたわけではない。


詰所で『騎士団』と『騎士』、『治安隊』と『隊員』という言葉がときどき混ざって使われるので、聞きかじって推測しただけだ。


騎士団員の一部が、自らの意思であれそうでなかれ、治安隊に派遣されて勤務しているらしかった。


「騎士団がどういう立場にあるかも知っているだろうな」


今度は聞きかじった知識すらなかった。


知らない。


「……だいたい」


「騎士団に正式に名を連ねるには入団の手続きを踏む必要がある。男爵になったからといって、その手続きがなくなるわけではない」


「ああ」


「だからまずは期限付きの傭兵として契約する。正式な入団を望むなら、いつでも歓迎だ」


私は契約書に目を通した。


そして金額のところで目が止まった。


「……これ、金額が」


「多いか?」


「……はい」


「少なければ言え」


少なければ言え、ときた。


私はおとなしく口をつぐんだ。


羽根ペンを取ろうとすると、ロビン卿が口を開いた。


「訊きたいことがある」


「……はい」


「なぜ私のところへ来た?」


「……え?」


「雇用条件は本来、隊長の管轄だ。お前はあの人の助手だろう。それなのに私に面談を申し込んだな」


私は羽根ペンを置いた。


これは適当に答えてはいけない問いだった。


「……隊長には言いにくくて」


「理由は?」


「断れないだろうと思うので」


「……」


「私が雇ってくれと言えば、あの人は何でも与えてくれるでしょう。どんな役職でも」


私は契約書を見下ろした。


「でも、それは私が勝ち取ったものではありません。ただ与えられただけです」


少し言葉を選んだ。


「私は自分の力で勝ち取った立場が欲しいんです。好意ではなく」


ロビン卿はしばらく黙っていた。


「……隊長には頼みにくいのか?」


「頼みにくいんじゃありません。近すぎるんです」


彼が初めて私をまっすぐ見た。


私はその視線を避けなかった。


しばらくして、ロビン卿は契約書を私のほうへ押し戻した。


私は羽根ペンを取った。


署名欄の上に記された名前を確かめていて、ふと彼の姓が思い浮かんだ。


キャンベル。


少し前にも聞いた名前だった。


「……卿」


「言え」


「キャンベル家の方ですよね?」


ロビン卿は否定しなかった。


「少し前に報せを聞きました。ベクスター子爵家のご令嬢と、アレックス・キャンベル卿のご婚約」


「……聞いたか」


「私はその場にいました」


「……」


「おめでとうございます。弟君のご婚約ですから」


ロビン卿は祝いの言葉を受け取らなかった。


代わりに机の上の書類を整えた。


すでにきちんと揃っている書類だった。


「……私も近々だ」


「え?」


「婚姻だ。近いうちに決まる」


祝いを言おうとしてやめた。


あの人の声には、祝いの言葉が入り込む余地がなかった。


私は代わりに別のことを訊いた。


「……良い方ですか?」


「身分の高い方だ」


それが答えだった。


良い方かと訊いたのに、身分の話が返ってきた。


「……お断りは?」


「何?」


「なさりたくないなら、断ればいいじゃないですか」


ロビン卿が私を見た。


そして初めて笑った。


笑ったのに、少しも楽しそうには見えなかった。


「……お前は」


彼は少し言葉を選んだ。


「何でも分かっているようでいて、本当に何も分かっていないな」


「……」


「隊長の言ったとおりだ」


私はその一文を二度聞いた。


一度は耳で、一度は頭で。


『隊長の言ったとおりだ。』


つまりあの人は、私のいないところで私の話を聞いたということだ。隊長から。


そしてそれは、隊長が私のいないところで私の話をしているという意味で。


……。


私はその考えをひとまず脇に置くことにした。


今はほかのことのほうが急だった。


断れない婚姻。


キャンベル公爵家の三男が断れない相手だなんて。


公爵家より上にある家門が、この国にいくつあっただろう。


私は指を一本ずつ折った。


そして一つだけ残った。


「……まさか」


「……」


「お相手が、まさか皇太女殿下でいらっしゃるとか?」


ロビン卿は答えなかった。


*え、本当に?*

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