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男爵になったからといって、明け方に目が覚める習慣まで変わるわけではなかった。


同じベッド、同じ掛け布、同じきしむ窓枠。


ベッドは相変わらず狭かった。


私は衣装棚を開けて、今ではだいぶ古びたメリーの弟の服を取り出した。肘が薄くなり、襟は何度も洗って色が死んでいた。それでも体にはいちばん合う。


髪を結んで帽子の中に収め、深くかぶってから窓枠に腰かけた。


「男爵様!」


窓の下でメリーが腕を組んで私を見上げていた。


「もう正門からお出になってもいいんですよ」


「塀のほうが速いの」


「塀が速いんじゃなくて、お癖なんでしょう」


私は答える代わりに飛び降り、ひょいと塀を越えた。


背後でため息が聞こえた。


門を開けますという言葉を二度は言わない。それがメリーだ。


---


通りはまだ暗かった。


広場にはいつもと違って人夫たちが出ていた。何人かが長い棒を組んで広場を横切る骨組みを立て、その上に綱を垂らしていた。


まだ何も吊られていない綱が、明け方の風に揺れていた。


『何か催しでもあるのかな』


私はしばらく見上げてから、公園へ向かった。


アンはベンチに座っていた。


待っている人のように座っているのではなかった。脚を伸ばし、腕を背もたれにかけたまま空を見ていた。ただここにいるからいる、という姿勢だった。


それなのに私が手を上げると、


「おはよう」


アンの顔が目に見えて明るくなった。


「……今日も来たんだ、エヴァン」


「当然でしょ。なに、来ないと思った?」


アンが視線を落とした。


「……来る理由が、もうないから」


何でもないような平坦な口調の中に、ごくかすかに不安の痕があった。


私はベンチの隣に座った。


「公園に友達がいるのに、どうして来ないの」


「……」


アンは何も言わなかった。代わりに爪先で地面を二度蹴った。土が少し跳ねた。


私は見なかったふりをして空を見た。


「体力もそこそこ付いたはずだし」


「……なに」


「剣術をやってみようと思って」


アンが顔を向けた。


「……剣術?」


「うん。あんたも毎日退屈じゃない? 私と一緒にやろうよ」


「……」


「それか、うちに遊びに来る?」


アンは私が提案するものに、どれ一つ快い返事ができずにいた。


私は持ってきた包みをベンチの真ん中に置いた。


「一号のお客様」


「……なにこれ」


「サンドイッチ。店を開けたら一生タダだって言ったでしょ」


「……店、ないじゃん」


「ツケだよ。店のほうがね」


アンが布を広げた。


そして指でサンドイッチを一つずつ指した。数を数えているらしかった。


「……九個じゃない」


「開業したらね」


アンはそれ以上問い詰めず、一つ取った。


屋敷の料理人が焼いたパンに、屋敷の台所のハムに、マスタードまで塗った品だった。


アンが食べかけて言った。


「……これ」


「うん」


「……あのときより美味しい」


「材料が違うからね」


「……」


「あのときのは何が問題だったの」


「……パンが硬かった」


「食べてるときは何も言わなかったじゃん」


私はわざと抗議するように言った。


アンは答える代わりに二つ目を取り、私はくすくす笑った。


私たちはしばらく何も言わなかった。


空の端が少しずつ淡くなっていた。闇が退くというより、水にインクを溶かしたように色が薄まっていく感じだった。


「……エヴァン」


「うん」


「剣術」


「うん」


「……僕も一緒にやってみたい」


思いがけない嬉しい返事に、私はアンを見た。アンはサンドイッチだけを見ていたけれど。


「うん、いいね。一緒にやろう!」


なんだか笑いが出て、空を見上げた。


気分のいい明け方だった。


---


帰り道、また広場を通った。


明け方には空だった綱という綱に、色とりどりの紙提灯が吊られていた。赤いの、青いの、白いの。まだ灯は入っていなかったが、並べてみるとなかなか祭りらしい雰囲気が出ていた。


人夫が一人、梯子の上で提灯を掛け直していた。


私はしばらく眺めてから屋敷へ向かった。


塀を越えて入ると、メリーが正門の内側に立っていた。


腕組みは相変わらずだった。


メリーが口を開く前に、私が先に訊いた。


「広場に提灯を吊ってたけど、何の日なの?」


「建国祭の準備だそうです」


「おお、さすがメリーは物知りだね」


「それは誰でも知って……」


メリーは言い終えずに正門を指した。


「……正門からお入りになってもいいんですよ」


「聞いたよ」


「聞いてらっしゃらないじゃないですか」


私は何も言わずにメリーをぎゅっと抱きしめた。


「男爵様?」


そしてすぐ体を離して、素早く逃げた。


「私の好きにするの」


「男爵様!」


背中のほうでメリーの声が聞こえた。


男爵になっても小言は減らなかった。


---


朝食を済ませてからは執務室に入った。


男爵位の継承を受けたのだから、仕事をしなければならなかった。


処理すべき書類を残らず引っ張り出したら、机の上に紙の山が人の腰の高さまで積み上がった。


誓約書、登録証、印章台帳、納税申告書。


王室から来たもの、管理庁から来たもの、どこから来たのか分からないがとにかく判は押してあるもの。


メリーはその山を見て顔が白くなった。


「これを……全部なさるんですか?」


「うん」


「いつまでにですか?」


「私の目標は今日」


「今日ですか?」


メリーが何かもっと言う前に、私は座った。


ペンを持って、上から順に目を通した。


誓約書は決まった文言に名前を入れればよかった。登録証は三部。保管用、管理庁提出用、税務担当官提出用。印章台帳は捺印の位置を間違えると差し戻され、納税申告書は爵位を受けた時点の前後で項目を分ける必要があった。


面倒ではあっても、難しい仕事ではなかった。


全部、昔にやったことのあるものだった。


正確には、どうすればいいか何となく勘が働くものだった。おそらく記憶の向こう側に刻まれている経験の一つだろう。


そこに、詰所でヘンリーが扱っていた書類と、今回の裁判で目にした文書の形式を思い出せば、処理の仕方も自然と見当がついた。


ペンが紙をこする音だけがしばらく続いた。


昼になる前に半分が消えた。


メリーが茶を新しく運んできて、減った紙の山を見て何度か目を瞬いた。


『この程度は大したことない』


付いてくる屋敷があるでなし、受け継ぐ領地があるでなし、抱える家族が多いでなし。


たかが男爵位だから、この程度で済むのだ。


「男爵様」


「うん」


「こういうのはどこで習われたんですか?」


「習ってない」


「なのにどうしてそんなにお上手なんですか?」


「ただ適当にやればいいの」


「……?」


メリーは腑に落ちない顔で空のティーカップを持って出ていった。


扉が閉まる直前、ごく小さく呟く声が聞こえた。


「適当……?」


私は次の書類を手に取った。


陽が傾く頃、紙の山はほとんど消えていた。


誓約書と登録証、納税申告書まで片づけると、机の片隅に分厚い帳簿が二冊だけ残った。


ブレア商団の帳簿だった。


『これが最後かな』


私は一冊目の帳簿を開いた。


そしてほどなく、その考えを撤回した。


---


前男爵が残した帳簿は、ひどく雑然としていた。


収入の項目と支出の項目が二冊に分かれているのに、二冊の数字が合わない。


合わないどころか、そもそも合わせる気がない体裁だった。


名前のない代金、行き先のない貨物、通関記録が空いている区間。


『こんなにあからさまに違法な商いの痕跡が残っているのに、これが見つからなかった?』


私は帳簿をどうしようか迷ってから、そのまま保存することに決めた。


きれいな出発のために過去の違法の痕跡を塗りつぶすのは簡単だった。


消えた品は棚卸しで覆い、怪しい代金は運送費や賃借料、損失処理といった項目に分けて入れてしまえばいい。領収書の発行が難しい案件として、項目を巧妙にすり替える方法もある。


前男爵が密輸品でそこそこ旨い汁を吸った程度の、可愛い違法取引をしていたのなら、そうやって整理しただろう。


だが、これほどあからさまに後ろ暗い記録を残しておきながら堂々としていたということは、


『後ろ盾がいたんだな』


私はもう一度帳簿を開いた。


一か月。


通関記録が空いている区間を指先でなぞった。


船が何度かは出入りしたはずの期間が、丸ごと白紙だった。


品が回らなかったのではない。


書かれなかったのだ。


書く必要がなかったのだ。


誰かがその一か月のあいだ、港で目をつぶってやったという意味だった。


港。


私はその単語をしばらく見つめた。


港はあの人の管轄ではないと言っていた。


夜の個人授業を受けていた頃、灯りの下で何気なく耳にした言葉だった。


治安隊は商店街に張りついていて、港までは手が届かないと。上のほうからそうやって回ってきたのだと。


であれば、港で起きることを覆う手は治安隊のものではない。


別のところから来た。


私は帳簿を閉じないまま、椅子の背もたれに体を預けた。


港を官に繋ぎとめる席にいる家門。


その名前を思い出すのに、長くはかからなかった。


貴族の系譜図で一度見たし、すでに身近なところで聞いたこともあった。


そうだろうとも。


私の縁談相手だったのだから。

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