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ロビン卿は答えなかった。
否定もしなかった。
私は口をつぐんだ。
詰所の外では夜勤組の笑い声が聞こえた。中はとても静かだった。
「……本当ですか?」
「……」
「……本当なんだ」
私はゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。
それは認めざるをえなかった。確かに断れる相手ではない。
お茶会に行くたびに称賛が絶えなかった皇太女。その人がロビン卿の婚姻相手だった。
しばらくしてロビン卿が口を開いた。
「ブレア男爵」
男爵。
この詰所でその呼び名で呼ばれたのは初めてだった。
「はい」
「祭りは五日間続く」
「建国祭ですか?」
「そうだ。隊長と行ってこい」
私は目をぱちくりさせた。
「……それはなぜですか?」
「あの人は、昼に行く場所がない」
どういう意味か訊こうとしたが、ロビン卿はすでに書類を閉じていた。
これ以上は言わないという動作だった。
私は契約書に署名して席を立った。
扉を出ようとすると、背後からまた声が聞こえた。
「……男爵」
「はい」
「あの人には、今日ここで話したことを言うな」
「どの話のことですか?」
「全部だ」
---
巡回はいつもと同じだった。
変わったことがあるとすれば、広場だった。
昼のあいだに骨組みがさらに立てられたのか、今では通りごとに紙提灯が並んで吊るされていた。まだ灯の入っていない提灯が夜風に揺れていた。
「ロビン卿に用があったようだな」
「……はい」
「俺はもう、ロビン卿に負けたわけか」
「雇用の話でした」
「……ああ」
隊長はそれ以上訊かなかった。
「祭りの準備ですね」
「そうだ。この時期は皆忙しい」
隊長が提灯を見上げた。
私も倣って顔を上げた。
そのとき、路地の奥から騒がしい音がした。
硬いものがぶつかり、何かが地面を転がる音だった。
隊長の手がすぐさま剣へ向かい、私は壁に体を寄せた。
目配せを交わす必要もなかった。もうこういうのは体が先に動いた。
隊長が路地の入口を回り、しばらくして、剣から手を離すのが見えた。
私も後に続いて入った。
梯子が倒れていた。
その横には提灯を入れた箱がひっくり返っていて、紙提灯が十数個、地面に転がっていた。
その真ん中に中年の男が一人、座り込んで足首を押さえていた。
祭りの人夫だった。
「……あいたた」
男は私たちを見ると、さらに呻き声を上げた。
「治安隊の旦那方、いやはや、これはその……」
「どこを怪我した?」
「え?」
「足首か?」
隊長が膝を曲げて男の足首を診た。
「動かせるか?」
「動きはしますが、いやもう、痛くて何とも……」
「無理に踏ん張るな。人を呼んでやろう」
「いやあ旦那、あっしは今日じゅうにこれを全部掛けなきゃならんのですが……」
男は転がっている提灯を見て泣き顔になった。
「破れちまった。破れちまったよ」
私は足元に転がってきた提灯を一つ拾った。
竹ひごの上に薄い赤紙を貼った品だった。内側には蝋燭を入れる場所があった。
あちこち回してみたが、破れたところはなかった。
「全部が破れたわけじゃないですよ」
「え?」
「これは無事です」
男が受け取って検めると、目をぱちくりさせた。
「……お、無事だ」
私たちは三人で座って提灯を選り分けた。
無事なもの十一、破れたもの三つ。
隊長と私は何も言わずに無事な提灯を箱に入れた。
身分がどうであれ、他人の紙提灯を拾う動作は同じだった。
「ありがとうございます、旦那方。何かお礼でも……」
「要らん。ここに座っていろ。人を呼んでやる」
隊長が席を外すと、しばらく静寂が流れた。
口の上手い上司がいなくなったので、私がその場を埋めなければならなかった。
「……大変なお仕事ですね」
「いえいえ。祭りのおかげでこういう仕事にありつけて、かえって息がつけましたよ」
「祭りがあると、やはりお金が回りますからね」
「ええ、まさにそれですよ。都にいればまだましってもんです」
男は提灯の箱を撫でてから、ため息をついた。
「うちの倅はどういう風の吹き回しか、都の外へ出ていっちまって。まったく、わざわざ苦労しに行ったようなもんですよ」
私は適当に頷いた。
そのとき隊長が、人夫と似たような身なりの女性を連れて戻ってきた。
「あらまあ! どうやって転んだら提灯まで破っちまうのさ!」
女性は小言を言いながらも、慣れた手つきで男の腕を自分の肩に回した。
「とりあえずあっちへ行きましょ!」
男は支えられながら箱を抱えた。
そしてふと顔を向けた。
「祭りのときにいらしたら、あの上に掛かってるのをご覧ください。あっしらが作ったもんです」
彼が広場のほうを指した。
「灯が入ると、そりゃあ見物ですよ」
男は小言を聞きながら遠ざかっていった。
私は地面に残った破れた提灯を一つ拾い上げた。
隊長はそれを見ても何も言わなかった。
広場の上には、まだ灯の点いていない提灯が並んで揺れていた。
「……隊長」
「うん」
「祭り、行ったことありますか?」
「……」
隊長は答えなかった。
代わりに提灯を見上げた。
私はふとロビン卿の言葉を思い出した。
『あの人は、昼に行く場所がない。』
この人は顔が広く、物知りで、どこへでも行ける人のように見える。
それなのにロビン卿はそう言った。
そして今、この人は灯も入っていない提灯を見上げている。
「昼に」
私は言った。
「お時間ありますか?」
隊長が私を見た。
「……なんだ?」
「祭りです。五日やるって聞きましたけど」
「……」
「私、男爵になりました。もう昼に出歩いても捕まる心配はありませんし」
私は手に持った破れた提灯を掲げてみせた。
「記念に、一緒に行ってください」
隊長はしばらく黙っていた。
顔はそのままだった。
相変わらず笑っていたし、相変わらず隙のない表情だった。
それなのに目がほんの一瞬、大きくなった。
本当に一瞬だった。
すぐいつもの顔に戻ったが、笑みが追いついてくるのには少しの時間がかかった。
私には分かった。
長く見てきたのだから。
この人は今——
『……思ったよりずっと喜んでる?』
私は提灯を持ったまま目をぱちくりさせた。
祭りに誘っただけなのに。何をそこまで。
「……俺は昼は忙しいんだがな」
この人はからかうとき、決まってこういう声を出す。
「でしょうね」
「……」
「じゃあ結構です」
「おい」
即答だった。
「……」
「……」
「……いつだ?」
「五日のうち、いつでも」
「初日」
私はまた目をぱちくりさせた。
「……初日ですか?」
「初日がいちばん人が多い。でないと男爵様が退屈だろう」
そして隊長は急に巡回の日程を確認しはじめた。
さっき確認したものをまた確認して、指で紙をとん、とん、と叩いた。
二度。
そして三度。
私は破れた提灯を脇に挟んで、その後ろ姿を見た。
『この人、今日ちょっと変だな。』




