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「引っかかった」
隊長はその一言とともに、書類を一枚、机の上へ滑らせた。私は扉を閉めきる前にそれを拾い上げた。
受理確認通知。今朝、内務省継承審査課。
申請者――ブレア男爵。案件――嫡子登録による男爵位継承の件。
嫡子登録。
「……やりましたね、あの人間。死んだ人に息子を産ませた」
今さら『知り合い』の話だと言う段階は過ぎていた。
私の非難を聞いた隊長も、私の反応が当然だというように頷くだけだった。
「書類の上では完璧だろうな。代書人の通りでいちばん高い手を使ったはずだ」
隊長は椅子に背を預けた。
「さあ、エヴァン。講義の最終章だ。今朝、あの書類が窓口を通った瞬間――」
「罪が生まれました」
「そうだ。ただし、ここからは時間との勝負だぞ。偽造書類も書類は書類だから、誰も異議を申し立てなければ審査はそのまま転がっていく。早ければ十日以内に判が押される」
「異議を申し立てたら?」
「審査停止。真偽調査の開始。そして正当な継承権者の届け出が一緒に入れば――」
「列が丸ごと無効」
「教えた甲斐があったな」
隊長は引き出しから封筒を一つ取り出して滑らせた。
「お前が用意した書類、知り合いに形式の確認を頼んでおいた。非の打ちどころがないそうだ。明日の朝、窓口が開いたらすぐ行け」
数日前から隊長の助言を受けながら、せっせと用意して渡した書類だった。
「……形式の確認まで」
「せっかく顔が広いんだ、広く使わんとな」
私は封筒を受け取って懐に入れた。紙数枚の重さではなかった。
「明日が過ぎれば、この件は夜の仕事じゃなく昼の仕事になる」
隊長が言った。いつもより半音低い声で。
「昼の助手がやる仕事だ。夜の隊長が手伝えるのはここまでだな」
「……十分です。ありあまるくらい」
そこで止めようとして、私は一言足した。いつからか言いたかった言葉だった。
「隊長がいてくださって心強かったです。この件、全部」
彼は少し目を見開いた。そして、にやりと笑って手をひらひら振った。
「前払いだと言っただろう、それは」
翌朝、私は数か月ぶりに初めて、正門から屋敷を出た。
塀ではなく正門。フードではなく外出着。侍女を連れた男爵家の令嬢として。メリーは緊張の色を、きちんとした侍女の顔の後ろにうまく隠していた。馬車の中で彼女が訊いた。
「……緊張なさいますか?」
「ううん」
「私は緊張します」
「だから連れてきたの。私の代わりに緊張してもらおうと思って」
「……お嬢様」
内務省の庁舎は皇宮の官庁街の入口にあった。灰白色の石造りの建物が威圧的にそびえ、正門の近衛が出入りする者を一人ずつ確かめていた。書類の帝国。この国の名前が生まれて死ぬ場所。
継承審査課の受付窓口は三階だった。廊下は長く、静かで、羽根ペンのこする音だけが壁を伝って流れていた。窓口の前に立つと、眼鏡をかけた中年の担当官が顔を上げた。
「ご用件を――」
担当官は私の顔を見て、言葉を止めた。そして、ごく短く、何かを確かめるような目をしてから、座り直した。
「……ブレア令嬢でいらっしゃいますね」
「……はい。ですが、どうして」
「書類はこちらへどうぞ。用意はできております」
用意はできております。
私は封筒を差し出しながら、その一文を噛みしめた。用意とは、何が、いつから。担当官は私の書類を受け取って、一枚ずつ検めた。手つきが妙に滑らかだった。どこに何があるのか、あらかじめ知っている人間の手つき。
……顔が広い人のおかげだろう。あの人の『知り合い』が、ここまで手を回しておいたらしい。ありがたいことだ。いったいどれだけ顔が広ければ内務省の受付窓口まで届くのかは、相変わらず謎だけれど。
「継承意思の届け出、完了いたしました」
担当官が判を押した。鈍く、正確な音だった。
「そしてこちらは――」
「異議申立書と、告発状です」
私は二つ目の封筒を置いた。
「昨日の朝に受理された継承変更の案件に対する異議。当該書類は偽造です。ブレア男爵夫人が息子を出産した事実はありません。根拠書類を同封しております」
担当官の羽根ペンが止まった。
「……そして告発状には、申請者ブレア男爵の次の所業を記しました。継承書類の偽造および行使。偽造を依頼した代書人の所在。そして――」
私は最後の項目を、一語ずつはっきりと発音した。
「実の娘に対する、加害の情況」
呪われた茶器。法典に鉛という文字はない。この項目は、おそらく法廷でいちばん軽く扱われるだろう。それでも書いた。重さは天秤が決めるのではなく、記録が決めるのだから。記録は残る。天秤が間違っていたと、いつか世界が知る日まで。
担当官は書類を全部受け取って揃えると、席を立ってどこかへ向かった。上の階だった。踊り場で誰かと低く言葉を交わす音が聞こえ、しばらくして戻ってきた彼の手には、赤い印章の押された文書が握られていた。
「異議の受理に伴い、当該案件の審査は停止されました。真偽調査が開始され――」
担当官は私を見た。事務的な顔の上を、ごく薄く、何か別のものがよぎった。敬意のようなもの。
「――偽造が確認された場合、案件は裁判部へ移送されます。申請者には本日中に召喚状が発付されます」
「ありがとうございます」
「令嬢」
立ち去ろうとする私を担当官が呼び止めた。
「……継承審査は公正に進められます。その点は、上のほうでも格別に」
上のほうでも。
「……はい。ありがとうございます」
上がどこなのかは訊かなかった。近ごろの私は、訊かないのが特技だから。
召喚状はその日の夕方に来た。
私は二階の手すりから、玄関ホールで男爵が封筒を受け取るのを見ていた。赤い印章。内務省の紋章。男爵はそれを破り開け、読み、もう一度読んだ。
紙を握った手が震えはじめた。
「こ、これは何だ――誰が――」
男爵がさっと顔を上げた。視線がホールを撫で、階段を上ってきて、手すりの私に届く直前――
止まった。
そして、折れた。
教えたとおりだった。あの人間は最後まで私の目を見られないまま、召喚状を握りつぶして書斎へ消えた。扉が閉まる音は、今度はまったく聞こえもしなかった。
私は手すりから体を離して、メリーに言った。
「裁判の日取りが出たら教えて」
「……はい、お嬢様」
読者の皆さま、こんにちは。
しばらく更新が滞ってしまいました。このままうやむやにしたくなかったので、お知らせさせていただきます。
日々の生活と執筆を両立するのは、思っていた以上に難しいものでした。最後まで一定のペースで更新を続けたかったので、少し心残りです。
今後は不定期更新に切り替えたいと思います。大切にしている物語なので、更新の間隔が空いてしまっても、書き続けていくつもりです。
私の作品を読んでくださっている皆さまに、いつも感謝しています。イビの物語を、ぜひ最後まで一緒に見届けていただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。




