↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/38

31

「それで、手首を捻ってやった」


明け方の公園のベンチで昨日の戦況を報告すると、アンは菓子を噛みかけたまま私をじっと見た。


「折ったの?」


「ううん。折れる直前まで」


「……惜しい」


「アン?」


「……冗談」


冗談ではない顔でアンが言った。お月がその膝の上であくびをした。私は報告を続けた。序列の整理は完了、縁談の脅しは空回り、そして伝令三人。


「動きはじめた。書類のほうへ」


「……じゃあ、もう」


「うん。腹は決めた」


私は残りの菓子を放り込んで手を払った。


「法でぶっ潰す。法廷で。偽造書類が受理される瞬間を捕まえて、あの人間がいちばん大事にしてるもの。爵位、財産、体面、全部を法の名前で剥ぎ取る。私の手は一つも汚さずに」


「……」


「なに。つまらない?」


「ううん」


アンは首を振った。


「イビは何でもできるんだな、と思って」


これが何か『できる』という言葉の入る出来事なのか少し考えたが、やめた。


「それで、その次の話なんだけど」


「……次?」


「男爵が潰れたら、あの家の金も終わりでしょ。私はメリーを雇い続けたいの。あの子、弟妹が三人いるんだよ。だからお金を稼がなきゃ」


「……お金」


「あんたも見たでしょ、男爵がやってた商団は違法の匂いがするから、どうにも使えそうにないし。だから」


「だから?」


「だから、店を出す」


アンが目を瞬いた。予想外の展開だという顔だった。貴族令嬢の復讐譚の次の章が『起業』なのは、この世界の基準だと少し変だろうけど。


「……何の店」


「この前あげたの覚えてる? 片手に収まるパン。間にいろいろ挟んだやつ」


「……うん。おいしかった」


「あれ、サンドイッチっていうの」


「……サンドイッチ」


アンが馴染みのない言葉を口の中で転がした。そりゃ馴染みがないだろう。この世界にない物だから。パンの間に何かを挟んで食べるという発想自体がなくて、数か月前の私が厨房で発明しなければならなかった物。


「私が作ったの。名前も」


「……名前も?」


この世界に初めて出したのは私なんだから、少なくともここでは私がオリジナルだ。


「うん。語感いいでしょ?」


「……」


アンはしばらく私を見てから、問い詰めるのを諦めた顔で頷いた。賢明な判断だ。


「サンドイッチの店。それをやるの。手に持ってすぐ食べられるから、市場の人とか、人夫とか、忙しい人に売れるはず。材料の原価計算もしてみた。最近の私、相場に詳しいんだよ」


「……売れそう」


「でしょ?」


「うん。僕でも買う」


「あんたは買う必要ない」


私は指を一本立てた。


「あんたはうちの店に来たらタダであげる」


アンの目が見開かれた。エメラルド色が明け方の光にきらりとした。


「……タダ?」


「うん。一生」


「……」


「でも十個ずつ持っていくのはなしだからね?」


「……十個も食べない」


「お月の分まで持っていくでしょ、あんた」


アンは反論しようと口を開いて、膝の上のお月を見下ろして、また口を閉じた。有罪。


「……九個ならいい?」


「……」


こいつ、今、冗談を言った。初めて、自分のほうから。


私は笑いが噴き出し、アンは何で笑うんだという顔をして、お月は騒ぎに抗議して場所を移した。明け方の公園の空気が少しのあいだ、何事もない世界のもののようだった。


「店の場所は決めたの?」


「まだ。男爵の処理が先だから。でも条件は決めてある。市場の近く、朝の客が多い角、それと――」


私は指で方向を指した。


「公園から歩いてこられる距離に」


アンはその方向と私を交互に見てから、ごく小さく頷いた。返事はなかったが、あるのと同じだった。




--




メリーの状況報告は、その夜までに三筋とも揃った。


伝令の一人は港の方角、商団。一人はプリチャード家、縁談。そして最後の一人は首都の中心街、法律代書人の通りへ入っていった。


代書人。書類を代わりに書く者たち。主に公文書を書いたり、関連書類の相談に乗ったりする業者が集まっているが、その中には『どんな書類でも』書く者たちも混ざっている一帯。


「三つとも予想どおりだね」


商売の整理、縁談の加速、そして書類の製作。怯えた人間の三点セット。私は窓の外の闇を見ながら順序を計算した。代書人が偽造書類を作るのに数日。男爵がそれを検討して判の代金を払うのに数日。そして内務省への受理まで――


その夜、詰所にも同じ報告が上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。