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「……イビ、あんた」
サラの声からボリュームが抜けると、馬車の車輪の音が急に大きくなった。
「本当に覚えてないの?」
「……」
「ベスとあたしとあんた。三人で。本当に?」
私は答える代わりにサラを見た。その顔から悪戯っ気が引いていくのを初めて見た。残ったのは傷ついた顔だった。それも、たった今受けた傷ではなく、長く押さえつけていたものが今踏まれた顔。
「……ごめん。病気してから、小さい頃の記憶がだいぶ曖昧なの」
温室で使った文を再利用した。半分の真実。サラに使うには申し訳ない道具だったが、丸ごとの真実――あんたの友達はこの体のどこかで消えて、今ここには別のものが入っている――よりはましだった。
「曖昧だからって……! あたしは全部覚えてるのに」
サラは唇を尖らせてから、やがてため息とともに窓際に体を預けた。そして話しはじめた。拡声器ではなく、ただの十六歳の女の子の声で。
「ベスんちの野原。覚えてない? あたしたち毎日あそこで遊んだじゃん。ベスが二つ上だからって、いつも大将やって。本を読んでくれて。あんたは体が弱くて、走るとすぐへたり込んで、そしたらベスがおんぶしてくれて、あたしは横で花を摘んで」
「……」
「あんたのお母様とうちのお母さんが仲良しだったの。だから自然に三人になったんだよ。イビのお母様が――」
サラが少し言葉を止めた。気を遣っている様子だった。
「……大丈夫。続けて」
「……エヴァンジェリン・ブレア様、すごく穏やかで優しい方だったって。うちのお母さん、今でもたまに言うの。あんな穏やかな人がどうして、って」
どうして。そのあとに省略された目的語を、私は分かる気がした。『どうしてあんな男と』。
イビーの母、穏やかで優しいエヴァンジェリン・ブレアはサラの母の友人で、彼女はイビーの母を心から案じていたのだろう。
「それで? 三人はどうして疎遠になったの」
「ベスがアカデミーに行ったでしょ。十二歳で。首席で……」
顔には彼女の複雑な感情が覗いていた。
「最初は手紙もやりとりしたの。あたしもしたし、あんたもした。でもベスが忙しくなったのか、返事が間遠になってね。休みにもあんまり帰ってこなくなって。まあ……そりゃそうだよね。アカデミーだもん。天才しか行かないところ。そこで新しい友達もできただろうし、あたしたちみたいな子と遊ぶより楽しかったでしょ」
「……」
「ちょっとずるくない? 一人だけかっこよくなっちゃってさ」
笑いながら言う言葉だった。本人は冗談のつもりで言う言葉。けれどその文には何年も漬かったものが染みていて、漬けた本人だけがその匂いに気づいていなかった。
手紙。
ベスの温室でのあの言葉が重なった。『手紙も、覚えていないでしょうね』。アカデミー時代の手紙のことだったのだろうか。あのときベスの顔をよぎったもの。微かだが、確かに苦い表情だった。
どんな手紙だったんだろう。十二かそこらの二人が、アカデミーの友達に書いた手紙に、いったい何が。
「……私は? 私はそのとき、どうだったの」
「あんた?」
サラが目を瞬いた。
「あんたは……うーん。いつの頃からか、ベスの話が出ると機嫌が悪くなったんだよ。だからあたしも、あんたの前ではあんまり出さなくなって」
ああ。
あの奇妙な紹介の答えがそこにあった。長く知っている仲を、他人のように紹介する口ぶり。あれはサラの失敗ではなく、三人のあいだにタコのように居座った話法だったのだ。そしてそのタコは――イビーも作るのに一役買っていた。
この体の元の持ち主も、ベスに対して何か複雑なものを抱えていた。
私は窓の外へ視線を移した。陽が傾いて、街路樹の影が長く馬車を掃いて過ぎていった。
憑依というのは、体だけを受け継ぐことではない。関係の帳簿も丸ごと受け継ぐ。資産も、負債も。男爵という負債はとうに知っていたが、ベス・ベクスターという項目がこんな複雑な未決勘定だとは思わなかった。
昔のイビーが閉ざした扉を、ベスは今日、温室で叩いてみた。そして中が空だと確かめた。
あの人が空き家に興味を失ったことを願うべきか、それとも――空き家だからこそ、もっと気になっただろうか。
「イビ」
サラが呼んだ。さっきより緩んだ声だった。
「覚えてなくても大丈夫! あたしが覚えてるから!」
「……」
「代わりに、これからちゃんと覚えればいいの。今日のお茶会から。いい?」
ときどきこの拡声器は、何の計算もなしに人を武装解除させる。
「……うん。今日から」
「よし!! じゃあ今日のハイライトを復習すると――」
ボリュームが元通りになった。私はベクスター家の庭のハイライト再放送三回目を聞きながら、窓に映った自分の顔が少し笑っているのを見た。
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屋敷に戻るなり病人に復帰した。
ドレスは衣装棚の奥深くへ、おしろいは落として、夕食は粥を半分。メリーが濡れ手拭いを差し出しながら報告を受けた。
「お茶会はいかがでした?」
「収穫は多かった。問題も多かったけど」
「どちらから伺いましょう?」
「問題から。噂の回りが良すぎる」
サラという拡声器は思った以上に性能が良かった。そして私に対するベスの関心も、杞憂ではなく現実だった。お茶会での私の目撃談――回復中のブレア令嬢――は、今ごろ社交界の半分に広がっているだろうし、その半分の中には男爵の耳もある。
「男爵の帰還まで四日。あの人間は船を降りるなり、二つ聞かされることになる。娘が治ったらしい。娘がお茶会に行ってきたらしい」
「……お怒りになりますね。外出禁止だったのに」
「怒るだけならありがたいよ」
計画が狂った人間は、計画を前倒しにする。病弱な花嫁を欲しがるプリチャード家にとって『回復』は悪材料か好材料か。死にゆく娘が必要な男爵にとって『平気でお茶会に出歩く娘』は、どんな計算をさせるだろう。
「茶器は」
「おっしゃったとおり保存しています。新しい茶器は手も触れていませんし、元から使っていたものも別に包んでおきました」
「お茶を出す振りは続けて。茶葉の消費量は合わせておいて」
「はい。……お嬢様」
メリーが手拭いを絞る手を止めて私を見た。
「男爵様がお戻りになったら、今度は何か違う気がします。この前みたいに外出禁止で終わるんじゃなくて」
「うん。違うよ」
私は枕に背を預けた。港の白い家、天秤の紋章の倉庫、受理される前は罪じゃないと言った夜の講義。盤は敷かれた。あとは向こうが書類を持って窓口へ歩いてくるだけ。
「違うようにするから」
メリーはそれ以上訊かずに灯芯を落とした。良い共犯は、問いの時機を知っている。
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翌日の明け方、公園。
アンはいつもの場所にいつもの姿勢でいて、お月はその膝を占拠中だった。私は隣に座って、昨日の戦利品――お茶会からくすねてきた菓子を二つ差し出した。
「高級だよ。子爵家の菓子」
「……ありがと」
アンが一つ受け取ると、お月がただちに匂いの検問を始めた。私は残りの一つを齧りながら、昨日の報告を始めた。病人の演技の成果、扇の活躍、温室での奇妙な面接まで。最後に、その日の見出しを切り出した。
「あ、それと。ベス・ベクスターって知ってる? 最近、社交界でいちばん有名な」
「……」
「アレックス・キャンベルと結婚するんだって。キャンベル公爵家の末っ子。昨日、婚約を発表したの」
菓子を口へ運びかけたアンの手が、止まった。
「……なに。知ってるの?」
私は訊いて、
「……ううん」
アンは答えた。
「また止まったじゃん」
「……」
止まった手をゆっくり下ろして、次の話の種を用意しようとしていた私より先に、アンが小さく訊いた。
「……あの二人」
「うん?」
「仲、良さそうだった?」
奇妙な問いだった。知ってるのかと訊けば知らないと言うくせに、仲が良さそうだったかと訊いてくる。私は昨日の壇上を思い出した。手の甲に口づけていた青年と、場を読んでいた銀髪を。
「……少なくとも片方は本気みたいだったよ。男のほう」
「……」
「花嫁のほうは盤を見てた。まあ、政略に近い結婚なら、それくらいでも上出来だよね」
「……そう」
アンはそれだけ言って、お月の背を撫でた。手つきがいつもより半拍遅かった。アンの今回の反応には特に疑問が湧いたが、表には出さなかった。
「そうだ、男爵がもうすぐ帰ってくる。明後日くらい」
話題を移すと、アンが顔を上げた。
「……大丈夫なの?」
「うん。今度は向こうが大丈夫じゃなくなる番」
「……危なかったら」
アンは少し間を置いてから、例のとぎれとぎれの話し方で言った。
「呼んで。どうにかして行くから」
呼ぶ手立てもないくせに。でも私はその非論理を訂正しなかった。ある言葉は、手立てがなくても成り立つ。
「うん。呼ぶよ」
空が明るんで、私たちは別れた。歩いていくアンの背中に向かって、私は胸の内だけで付け足した。
あんたも。危なかったら呼んで。
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『四日後』ではなかった。
三日目の朝、窓の外が騒がしかった。カーテンの隙間から覗くと、正門から馬車が入ってきていた。見慣れた、見慣れすぎてうんざりする馬車が。
一日早かった。
ノックもなく扉が開いて、メリーが真っ青な顔で言った。
「お嬢様、男爵様が――」
「見た」
私はカーテンを放して、ベッドに座って呼吸を整えた。病人の顔色は落とし、回復中の顔が鏡にあった。予定より一日早い帰還。船が速かったか、噂が速かったか。
階段のほうから足音が上がってきていた。重く、速く、機嫌がそのまま乗った足音。
どちらにせよ、今日でこの家の序列はもう一度決まる。




