28
温室は、庭の騒がしさが届かない屋敷の裏手にあった。
ガラスの壁の内側は別の季節だった。名も知らぬ蔓が天井の骨組みに沿って伸び、鉢は大きさ順に、色順に、一分の乱れもなく並べられていた。自然を招き入れて完璧に統制した空間。主人に似た部屋だった。
その真ん中の小さなティーテーブルに、ベスが座っていた。
侍女はいない。ティーカップは二つ。湯気の立つポットはベスの手の横に。
「来たのね。座って」
「……お招きありがとうございます。今日で二度目ですね」
「こっちが本当の招待よ」
私は周りを見回して訊いた。
「他の方々は?」
「ほかの人たちとは、パーティが終わる前に一度席を持ったの。今は、あなただけのための席よ」
ベスは微笑んで自ら茶を注いだ。子爵家の令嬢が、婚約の発表を終えたばかりの今日の主役が、手ずから。その動作ひとつで、この席の性質が定義された。格式の席ではない。かといって、気楽な席ではなおさらない。
「お祝いが遅れました。ご婚約」
「ありがとう。驚いた?」
「噂は聞きました」
「サラね」
「……拡声器ですから」
ベスが声を出して笑った。初めて聞く、計算の薄い笑いだった。そしてその笑いの終わりに、最初の一手が来た。
「サラは相変わらずね。三人でいると、いつもああだった」
三人。
私はティーカップを持ち上げる動作の中に静止を隠した。三人? 誰と誰と誰。ベス、サラ、そして――文の構造上、残りの一席は一つしかない。
私たちが、三人?
「……そうでしたか」
「そうだったわ」
ベスはそれ以上説明しなかった。説明しないこと自体が質問だった。覚えているかと訊く代わりに、記憶を持つ者にしか継げない文を置いて、待つやり方。
私は継げなかった。継ぎようがなかった。その場所には何もないのだから。
「お茶、冷めるわよ」
ベスは柔らかく話題を移した。私はティーカップを口元へ運んだ――そして習慣のほうが先に動いた。唇を湿らせるだけで下ろす、今日一日じゅう繰り返したあの動作。
ベスの視線が、カップの水位にしばらく留まった。
「お茶、嫌いになった?」
「……薬のせいです。お茶と一緒に飲めない薬で」
「そうなの。昔は手放さなかったのに」
昔は。
もう一つ。イビー・ブレアは茶を手放さなかった。そうだろう。何年もそうしていたから、歯茎に線が引かれたのだ。私はその情報を引き出しに入れながら、この会話の構造を理解しはじめた。
これは面接ではない。照合作業だ。ベスは質問しない。昔のイビーだけが知る扉を一つずつ開けておいて、私が入ってくるか入ってこないかを記録する。
ならば戦略は二つ。知ったふりで扉を越えて敷居につまずくか、扉の前に立っているのを見抜かれるか。
私は後者を選んだ。下手な演技は、精緻な観察者の前では最悪手だ。それよりは――
「ベス」
「ええ」
「先に言っておきますね。私、病んでから記憶がだいぶ曖昧なんです」
「……」
「幼い頃のことは特に。だから、もし私が何か覚えていなくても、寂しがらないでください」
半分の真実は、丸ごとの嘘より丈夫だ。病は事実で、記憶がないのも事実。因果を少しだけ接ぎ木しただけ。
ベスはティーカップを下ろした。そして私を見た。見定める視線が――初めて、目盛りを読むのをやめた。
「……そう」
「……?」
「手紙も、覚えていないでしょうね」
「……手紙?」
「いいえ。なんでもない」
なんでもない、と言うベスの顔を、何かがひどく速く通り過ぎた。分類する間もなく消えた表情。傷のようでもあり、安堵のようでもあり、そのどちらでもないようでもあった。
沈黙がガラスの天井まで満ちて、ベスのほうが先に引いた。
「じゃあ昔の話はやめましょう。つまらないもの、片方だけが知っている話は」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないわ。代わりに――」
ベスは身を前に傾けた。目盛り読みがまた点いた。さっきとは別の計器で。
「今の話をしましょう。この前のあの話、私まだ考えてるの。権力は一人に集まってはいけない、って言っていたこと」
「……あれはただの、お茶会の雑談でしたけど」
「雑談にするには惜しい話だった」
ベスは自分のカップを手の中でゆっくり回した。
「一つ訊いてもいい? 近ごろ私が悩んでいることなんだけど」
「……法学でも修めていらっしゃるんですか?」
「教養よ。さあ、問題」
ベスの声はクイズでも出すみたいに軽かった。中身は軽くなかった。
「ある人が罪を犯したと告発された。証拠はまだない。証人は言うことが食い違う。けれど告発した側が伯爵で、告発された側が平民。法廷はこの人をどう扱うべきかしら?」
「ずいぶん難しいことでお悩みですね。普段から頭の中が忙しいでしょう?」
私が軽口を叩くと、ベスははは、と軽く笑って、改めて答えを求めた。
「あなたはどう思う?」
私は少し迷った。貴族を前にして、法廷で争う貴族と平民の判決について、どう答えるべきか。
この時代の常識を考えれば、伯爵の側につくのが正しかった。だがベスの問いは、まるで、そうではないと答えてほしがっているようだった。私の思い違いだろうか。
「証明されるまでは、無罪として扱うべきです」
結局、私は選んだ。この聡明な子に、一つの可能性を開いておくことを。
「罪は証拠が作るもので、告発が作るものではありませんから。証明されるまで、人は無罪です。それが守られなければ、裁判は法ではなく権力の機嫌になる。そして機嫌はいつでも伯爵の味方です」
おそらくこの世界の情緒とは相反する話だろう。だがベスがどう受け取るかによっては、変化の種になるかもしれない。
ベスは動かなかった。
カップを回していた手が止まっていた。ガラスの天井から傾いた陽が銀の髪の上で砕けているのに、その下の目は照度が変わっていた。見定める視線でも、目盛りを読む視線でもなかった。何というか――
渇いた人が水を見る目だった。
「……それ」
ベスの声が半音低くなった。
「どこで読んだの?」
「……え?」
「その原則。どの本に。誰の文章に」
「……本ではなく。ただ、考えてみれば当たり前じゃありませんか?」
「当たり前じゃないわ」
ベスは言い切った。
「この国のどこにもない考えよ。私、長く探したから」
探した。長く。その二言が妙に重かった。教養だと言った人が使う言葉ではなかった。
「それなのに、あなたはそれを『当たり前』だと言うのね」
「……」
「面白い、イビ」
ベスは背もたれに身を預けて笑った。今日見たどの微笑みとも違う微笑みだった。心配の文法でも、社交の文法でもない――同類を見つけた人の、そしてその同類を手放す気のない人の。
「私たち、頻繁に会いましょう」
「……私は体が」
「治るでしょう。じきに」
断定だった。予言のように聞こえる。
「よくなったら招待するわ。次はお茶会じゃなく、静かな席に。今日みたいに」
「……」
「来るでしょう?」
拒絶の経路を全部あらかじめ塞いだ招待だった。体を口実にするのはたった今断たれ、席が荷が重いという口実は「静かな席」で断たれた。私は扇をいじってから、結局うなずいた。
「……光栄です」
「ええ。光栄よ」
ベスは平然とその言葉を受け取って、自分のものにした。誰にとっての光栄なのかは、最後まで明示しないまま。
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帰りの馬車で、サラはお茶会のハイライトを五分間隔で再放送した。私は適当に相槌を打ちながら窓の外を見た。頭の中では、温室での会話が逆回しに再生されていた。
三人でいると、いつもああだった。
手紙も、覚えていないでしょうね。
私、長く探したから。
収穫と損失を整理しよう。損失――私は今日、ベスに「昔のイビーではない」という確証を与えた。病で包装はしたが、あの人は包装紙の向こうを見る人だ。収穫――ベス・ベクスターという人の下絵。社交界の花形という外皮の下に、この国にない原則を「長く探した」人がいる。
それは教養の領域ではない。設計の領域だ。
何を設計しているんだろう、あの人は。
「――ビ! イビ! 聞いてる?!」
「うん。ベスのドレスがきれいだったって」
「それはさっき言ったじゃん!! ていうか、あんた温室で何してたの? ベスと二人きりで!! あたし抜きで!!」
「昔の話」
「昔の話?! どんな?!」
「サラ」
私は窓の外から視線を戻して、拡声器を正面から見た。訊きたいことができたから。今日、温室で拾った、いちばん奇妙な欠片を。
「私たちのことなんだけど。私とあんたとベス」
「うん?」
「……三人、もともと知り合いなの?」
サラの目が大きく見開かれた。馬車の車輪の音だけが数秒転がった。
「……イビ、あんた」
拡声器のボリュームが、初めてすとんと落ちた。




