25
サラは予告なしに来た。いつものように。
「イビ! 来たよー!!」
玄関のほうから声が先に到着して、本体は半拍遅れて到着した。そしてその腕には――花が一抱え抱えられていた。
「これ何?」
「花!」
「それは見れば分かる。なんで花なの」
「うちの庭にこれが咲いてたの! すっごくきれいだったから! あんたのこと思い出して切ってきた!」
薄桃色の花びらに真ん中が黄色い、小さくて丸い花だった。どこかで見たな、と二拍ほど考えて分かった。サラの手紙。綴りが自由なあの手紙たちの隅っこに毎回描かれていた花のマーク、あれがこれだった。想像上の花だと思っていたのに、実在した。サラの家の庭に。
「あんたが手紙にいつも描いてるあの花じゃん」
「え?! 分かったの? へへ、そう! あたしのいちばん好きな花なの。でもね、この子、日陰でもよく育つんだよ。あんたみたいだから持ってきた」
「……日陰でもよく育つから、私みたいだと」
「うん! 褒め言葉だからね!」
褒め言葉だそうだ。私はしばらく返しを選んでから、やめた。この子の文は解釈するものじゃなく、ただ受け取るものだ。
メリーが花瓶を持ってきて、サラが生け花を買って出た。結果は惨憺たるものだった。背の高い茎が横に倒れ、小さいのは埋もれて。サラはそれをあっちへ回しこっちへ回してから、満足げに宣言した。
「自然なのがいいんだよ」
「それは自然じゃなくて自然災害なんだけど」
「なにそれ? ひどい!」
笑いが漏れたのはメリーが先だった。侍女の姿勢を保とうとして失敗した、短く漏れ出た笑い。サラが「ほら、メリーも笑ってるじゃん!!」と悔しがり、メリーが「申し訳ございません、お嬢様、そうではなくて――」と取り繕おうとしてもっと笑い、私はその修羅場の真ん中で倒れた花を一本ずつ立て直した。
窓から陽が差し込んでいた。部屋の中に花の匂いが回った。
外出禁止の部屋に、外が入ってきていた。
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サラは午後じゅういた。
私たちが飲むお茶は、古い茶器に注がれていた。男爵が帰ったあと、メリーがどこからか見つけてきた、縁の欠けた茶器だった。茶葉も、台所の戸棚に転がっていそうなありふれたもの。男爵が贈ってきた白い茶器は、棚の上に恭しく祀られていて、使うふりをするときだけお呼びがかかった。
いちばんみすぼらしいお茶の時間が、いちばん安全なお茶の時間だった。
サラのおしゃべりは、いつもどおり中身がなかった。新しく買ったリボンが気に入らない、どこそこの子爵令嬢が憎らしい、昨日のデザートがおいしかった。私は適当に打ち返しながら、その中身のなさを楽しんだ。近ごろの私の一日は中身が多すぎる。毒だの書類だの偽造だの。中身のない時間がこんなに貴重だとは、中身に埋もれてみて知った。
そのとき、ふと話がぷつりと途切れた。
「……イビ」
「うん?」
「あんた最近、しんどいでしょ」
私はティーカップを持ったままサラを見た。サラはいつもの二倍くらい真剣な顔をしていた。その顔で何が分かるんだろう。病気は演技で、父親のことは知らないはずで、夜の仕事はなおさら――
「病気のことじゃなくて。なんか……何かは分かんないけど。ただ、しんどいことがあるでしょ、あんた」
「……」
「あたしバカだからそういうのよく分かんない。でも、それは分かる」
サラはしばらく唇をもごもごさせてから、決心したようにがばっと立ち上がってソファを回ってきた。そして私を抱きしめた。
がばっ、という擬態語が実在するなら、こういう動作だろう。
「……サラ?」
「ズッ友だから抱きしめるの」
私の肩に顎を乗せたままサラが言った。
「何か分からなくていい。言わなくていい。でも抱きしめるのはできるじゃん。ズッ友だもん」
体が先にこわばった。
この体は抱きしめられることに慣れていない。記憶にない十いくつの年のあいだ、この体を抱きしめた人が何人いただろう。そして私は――数えきれない生のあいだ、理由のない抱擁を受けたのはいつだっただろう。目的のない、情報のない、ただの体温。
こわばっていた体が、ゆっくりとほどけた。
温かかった。サラからは陽に干した洗濯物の匂いと、さっきのあの花の匂いがした。目の奥が熱くなりかけるのを、私は息をひとつ整えて抑え込んだ。代わりに手を上げて、サラの赤い巻き毛を撫でた。
一度、二度。長く生きた手が知っているやり方で。その昔どこかの生で、誰かの頭をこうやって撫でた記憶が、手のひらにだけ薄く残っていた。
「……髪ぐちゃぐちゃだね。巻きが全部つぶれてる」
「今いい雰囲気だったんだけど!?」
「うん。いい雰囲気で見てもぐちゃぐちゃ」
「イビ!」
サラが笑いながら体を離した。
この子は昔のイビーを知っている。十いくつの年を丸ごと知っている。それなのに、ある日突然髪を切って、口調が変わって、しらばっくれるのが増えた私を――ただの一度も問い詰めたことがない。「あんたなんで変わったの?」を訊かなかった。ただずっと、イビと呼んだ。
空き家に入り込んだ私を、この家の人間として最初に認めてくれたのがこの子だ。何の審査もなしに。ズッ友という言葉ひとつで。
サラが帰ったあとも、部屋には花の匂いが残った。私は自然災害みたいな花瓶を窓辺へ移した。いちばん陽の当たる場所に。
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夕方にはメリーを呼んだ。
「お呼びですか、お嬢様。ティーカップの片づけはさっき――」
「それじゃなくて。こっち来て座って」
「……はい?」
「座ってって。これは侍女の仕事じゃないから」
メリーは椅子の端に三センチほど腰を乗せて座った。世界でいちばん不安な着席だった。私は引き出しから用意しておいたものを出して卓に置いた。
紙の包みが二つ。
「……これは何でしょうか?」
「開けてみて」
メリーが慎重に一つ目の包みを解いた。夜の市で買った菓子だった。日持ちするものだけを選んで詰めた一袋。二つ目の包みからは髪留めが出てきた。緑のガラス玉がはまった、素朴な真鍮のピン。
「菓子は弟妹たちの分。三人が喧嘩しないように数を合わせておいた。ピンはあんたの。目の色に合わせてみたんだけど」
「……」
「夜の市の品だから大したものじゃないよ。でもね」
私はあらかじめ考えておいた文を出した。
「私のお金で買った初めての贈り物なの。初めての給金では家族に贈り物を買うものだって、どこかで教わったから」
メリーの手がピンの上で止まった。
「……家族、ですか」
「うん。家族」
「お嬢様、私は……使用人です。それに給金だなんて、お嬢様にどんなお金が――」
「それは詮索しないで。出どころがちょっと複雑なの」
「……」
「メリー」
私は座り直した。ここからが今夜の本題だった。
「あんた最近、怖いでしょ。お茶を捨てて、病気をこしらえて、塀を越えるお嬢様を見て見ぬふりして。これが全部ばれたら、真っ先に解雇されるのがあんただってこと、私も分かってる」
「……」
「だから約束しようと思って。今やってることがどう終わっても――」
どう終わるか、私は知っている。受理の瞬間、法廷、あの人間の没落。だが、その設計図をメリーの肩に載せる必要はない。メリーが知るべきなのは結果ひとつだ。
「――あんたと弟妹たちは私が引き受ける。この家であんたが解雇されることはない。私が解雇させないから。そしていつかは、あんたの給金を男爵じゃなく私が払うことになる」
「……お嬢様」
「信じにくかったら信じなくていい。代わりに覚えておいて。今日、私がこう言ったってことを」
メリーはしばらく何も言わなかった。ピンを握った手を見下ろして、菓子の包みを見て、最後に私を見た。目の縁が赤かったが、口から出てきたのは涙ではなく――やはりメリーらしいものだった。
「……ではその日まで、解雇されないようもっと気をつけます。病気の演技の日程表も組み直しますね。昨日、お嬢様の顔色が良すぎました」
「……私より熱心なんだけど?」
「家族だから小言を言うんです」
一本取られた。
メリーは包みを二つ大事そうに抱えて立ち上がった。戸口で振り返ると、侍女の礼ではなく、ただぺこりと頭を下げた。そしてごく小さく付け足した。
「……いただきます。弟妹たちが喜びます」
扉が閉まった。
私は窓辺の自然災害を見た。陽はもう落ちたのに、花は暗がりの中でも匂いを出していた。
昼には花をもらって、夕方には菓子をあげた。中身なんてひとつもない一日だった。
不思議と、長く生きられそうな一日だった。




