26
衣装棚を睨みつけた。
ベス・ベクスターのお茶会はハリントン家とは重みが違うし、その席の主催者は私を観察するために呼んでいる。観察される場に借り物の服を着ていくわけにはいかなかった。武装が必要だった。私の体に合う、私の武装が。
男爵の金は使えない。帳簿にドレスが載った瞬間、外出がばれる。残るのは私の金。夜の仕事の給金。
そこでその夜、私は詰所の扉を開けるなり宣言した。
「隊長。給金を前借りしてもいいので、現物で受け取ります」
隊長は書きつけていた書類に目を落としたまま応じた。
「挨拶もなしに、うちの助手殿はどういう気まぐれかな?」
「こんばんは。隊長。ドレスで受け取ります」
隊長が手にしていた羽根ペンを止めた。私をしばらく見た。何か訊きそうな顔が、何も訊かない顔にすぐ変わった。
「……そうしよう」
彼は羽根ペンを置いて窓の外の空の色を確かめると、外套を掴んだ。
「今ならラウラン夫人のところが閉まる前だ。走れ」
「……え? なぜ走るんですか?」
「ドレスは夜に売らないからだ。走れ!」
---
ラウラン夫人の仕立て屋は、商店街から遠く離れた、格の違う通りにあった。行く道はかなり遠かった。
「さっきまで通り過ぎた店もたくさんありましたけど、どこへ行くんですか?」
「助手殿のドレスをどこにでも任せるわけにはいかんからな。よく知っているところがある」
着いたのは、堂々たる高級洋装店だった。看板すらなかったが、ショーウィンドウのマネキンからして生地の艶が違った。店員らしい制服姿の女性が扉を閉めようとして、息を切らして到着した隊長を見て、ひどく驚いた表情になった。
「まあ、どうして……」
「きみ」
女が何か言うより先に、隊長が呼びかけて命じた。
「他に何も言わず、しばらくラウラン夫人を呼んできてくれ」
命令を果たしに店員が店内へ入っていくと、隊長は「少し待っていてくれ」と私に断って、店へついて入っていった。
『内務省にも伝手があると言っていたのに、今度は高級仕立て屋の主人と面識があるのか。やっぱり隊長は高位の貴族なんだろうか。』
しばらくして彼が姿を現し、ラウラン夫人が飛び出てきて親しげに私を迎えた。
「ようこそいらっしゃいました。当店の主人、ラウランでございます。奥へご案内いたしますね」
仕立て屋はとても豪華だった。気後れするほどに。
うちの家よりずっと大きな店の規模に、家具もひどく精巧で一目で高級と分かるもので、いろいろな布地とカタログが展示されている様子からして、あつらえ専門らしかった。
私は店の中央の台に向いたソファへ案内され、座るなり片手で口を覆って、隊長にだけ聞こえる声で小さく囁いた。
「あの……隊長?」
「なんだ」
「私、こんな良いお店で買ってくれという意味じゃなかったんですけど。既製品で十分です」
「私の助手にそんなことはさせられんな。好きなだけ選べ」
「気後れするんですって!」
隊長はふっと笑って言った。
「機会のあるうちに貸しを作っておかんとな。近いうちに大きく活躍してもらう用があるから、そのときはよろしく頼む」
「……頑固でいらっしゃいますね」
私がため息をつく間もなく、ラウラン夫人が分厚いカタログを持ってきた。
「まずはデザインからご覧くださいませ」
私は照れくさい笑みを浮かべながらカタログをめくって、気に入ったデザインを一つ指した。
装飾のほとんどないドレスだった。腰の線が高く、布が体に沿って流れ落ちる単純なライン。
「これが気に入りました」
夫人の眉が上がった。
「……あら。お目が高いこと。近ごろ感覚の早いご婦人方が、ようやく求めはじめた品なんですよ」
「そうですか」
「では次は、生地をお選びになりますか?」
ラウラン夫人が優雅に私を導く手つきをした。それを見て、私もできるだけ礼儀正しく見えるよう願いながら、断りの手つきをした。
「あ、私は時間が差し迫っているので、あつらえずに、掛かっているものから選びます。今のデザインに近いものを見せてください」
私の言葉に、隊長とラウラン夫人は口を揃えて引き止めた。
「あつらえないと? 当店で?」
「ここはあつらえで来る店だぞ」
だが、二人の考えが分かれる地点があった。
「期間もそうかからん。一日あればできるだろう。そうじゃないかね?」
隊長の無神経な言葉に、ラウラン夫人がほんの一瞬ためらった。
「……ああ、はい。可能でございます」
答えるラウラン夫人の外れた拍を、私は見た。『一日』でドレスを仕立てるなど、無理な日程に違いない。これ、権力で横暴を働いているでしょう、今。
「お気持ちはありがたいですが、結構です」
このままでは説得されるだけだと思い、服の掛かった棚へ自分から動いて一着選び出した。似たデザインの、灰緑色のシュミーズドレス。
「これにします」
私が断固として出ると、二人とも従うほかなかった。
---
帰り道、隊長はやけにむくれていた。
「わざわざドレスまで下賜してやったのに、着た姿も見せてもらえんとはな」
「買ってくださったのは感謝しますが、ラウラン夫人も退勤なさらねばならないでしょう」
「もういい、きみの隊長様はすねた」
「雇用主の徳目、第一項です。時間外労働の禁止」
「……少なくともラウラン夫人にはそうじゃなかろう? 仕立てを頼んでいたほうが喜んだはずだ」
その言葉には、私もある程度頷くほかなかった。ああいう高級なあつらえの店は、注文の一件一件が大事だから。
「それはそうと、うちの助手殿は実に変わっている。地図は十年前のものを見ているのに、流行は先を読むとはな」
隊長は興味深そうな声で新しい話題を投げた。
「……人はそういうこともありますよ」
「そうだな。人はそういうこともあるな」
収集する声だった。あの頭の中の引き出しに、私の書類がもう一つ差し込まれる音が聞こえた気がしたが、知らないふりをした。
「……」
私はさっき買ったドレスの値段を思い出した。港で商人たちが声を張り上げていた品の値の、優に百倍は超えていた値段を。魚の荷車の駄賃に換算すれば馬車何台分で、宿の食事代に換算すれば――計算はやめよう。近ごろ庶民の相場はかなり掴めてきたと自負していたのに、ドレスという品物は私の帳簿の外に住んでいた。
「給金で足りますか?」
私が訊くと、隊長はふっと笑った。
「十分だ」
「……」
彼は「有能な相談役の講義の何度目だ、ドレスや食事よりこの講義のほうがよほど貴重だ」などと勝手な計算をしたかと思うと、私がその論理を解体する前に、私の手に何かを握らせた。ドレスと同じ灰緑色の扇。
「これはおまけだ」
「……扇、ですか?」
「観察される場へ行くとき、これほどの盾はない。顔を隠し、時間を稼ぎ、言うことがなければ扇げばいい」
私はお茶会という言葉を出したことがない。それなのにこの人は、このドレスがどんな場に出るのかまで見抜いて、武装を上乗せしていた。
「……ありがたく使わせていただきます」
「そうしろ」
その日の巡回は、ドレスの箱を詰所に預けて回った。その日は『治安隊から出る給金でドレスの支払いをしたんだろうか、それとも現物の項目で公金の請求書が上がるんだろうか、ドレスを項目に入れてもいいんだろうか』という疑問をあれこれ思い浮かべてから、やめた。治安隊の給金がいくらなのか、今度ロビン卿に訊いてみよう。
---
明け方に箱ごと塀を越えるのは曲芸だったが、やり遂げた。
朝に入ってきたメリーは、ベッドの上の灰緑色のドレスを見つけて凍りついた。
「お嬢様、これ――どこから――」
「拾った」
「ドレスをどこで拾うんですか!」
メリーは問い詰めかけてやめ、ドレスを手に取ると、縫い目を確かめ、生地に触れてみて、しまいには目の縁を赤くした。
「……上等ですよ、これ。お嬢様にこんなお召し物ができるなんて」
「泣くこと?」
「泣くことです。でもこれ、大変なことでもあります。こんなものがお部屋から出てきたら、他の使用人や男爵様が怪しみます」
「そこでなんだけど」
私たちはドレスを古いシーツに包んで、衣装棚のいちばん奥に納めた。灯台下暗し、いや、衣装棚の下が暗い。
作戦会議はそのまま続いた。
「お茶会まで五日です。今の『重病』から五日でお茶会だなんて、回復が早すぎます」
「じゃあ今日から快方に向かうことにして。粥を半分ずつ空けて、三日目から庭の散歩」
「顔色は? 近ごろお嬢様のお顔が良すぎます。明け方ごとに何をなさってるんだか」
「運動」
「その運動、数日控えてください。お茶会には『回復中の』顔で行かなきゃいけません。すっかり治った顔じゃなくて。おしろいもいつもより青白い色で用意しますね」
「咳は?」
「咳は最初から禁止だったじゃないですか。病名が出ます」
やはり実務はメリーだ。私たちは五日分の回復曲線を――食事量、散歩の距離、顔色まで――共謀してから、ようやく会議を終えた。
午後にはサラの手紙が届いた。封を開ける前から花のマークが見えていた。
『イビ、お茶会いっしょに行くよね? 行こうよ! うちの馬車で行けばいいから迎えに行くね! あと体は大丈夫なの? もちろんベスんちのお茶会は具合悪くても行かなきゃだよ!』
綴りは相変わらず自由だったが、馬車の問題がひとりでに解決した。ありがたい拡声器だ。手紙は近況のゴシップへ続いた。
『ところでベスなんだけどさ、最近キャンベル公爵家の末っ子と噂があるって⁉ アレックス・キャンベル! アカデミーで会ったとかなんとか? 羨ましくて死にそう! とにかくお茶会で何か報せがあるかも!』
キャンベル公爵家。末っ子、アレックス。貴族の系譜図でもかなりの比重を占めていた、由緒ある家門だった。
私はその名前を頭の中の引き出しに入れた。ベスが予告した「お聞かせしたい報せ」というのは、この方向らしい。社交界の花形の婚約なら、なるほど報せらしい。サラの直感とやらも当たったわけだ。
返事を書いて、ベッドの端に腰かけて扇をいじった。
考えを一つ、整理するときが来た。
アンは港で男爵を見た。私が「うちの父親」と言うのまで聞いた。ブレア男爵の顔と名前を突き合わせるのに、貴族の応接間で半日もあれば足りるだろう。
隊長は言うまでもない。茶葉、港、法律相談、そして今日のドレス。私がこぼした欠片を全部拾った人だ。私がブレア家の病弱な一人娘だということくらい、もう推測して余りあるだろう。もしかすると、ブレア家の一人娘が病で引きこもっているという情報まで知っていて、重ねてみたかもしれない。今日のあの扇が証拠だ。あの人は、このドレスがどんな戦場へ出るのかを知っていた。
二人とも、十分に推し量ったはずだ。
そして私は、彼らが推し量ったということを知っている。
それなのに誰も言わない。アンは詮索せず、隊長は訊かず、私は「拾った」なんて戯言を言う。三人で薄い紙一枚を挟んで、破れば終わりだと知っていながら、誰も破らない。
おかしなことだ。その紙一枚が嘘なのに、その嘘の中にいるときがいちばん楽だ。
数えきれない生で学んだことが一つある。こういう時間は長くない。良いものは決まって、賞味期限を書いておいてくれない。
私は扇を広げて口元を隠してみた。
盾は受け取った。回復曲線は設計した。馬車は確保した。
あとは、ベス・ベクスターという人を知る番だった。




