24
アンと私は約束どおり湖まで行ってから別れた。
家に帰ってからはあまりに深く眠りこけて、隊長が待っている職場に出勤の判を押しそこねるところだった。
詰所に入ると、隊長が書類から顔を上げた。
「お、エヴァン。生きてたか」
「どういう意味ですか」
「昨夜は鼻先ひとつ見せなかったじゃないか」
「休みの日は報告事項から外してください」
「報告なんて大げさな。ただ気になるだろう。助手が一日休んで帰ってきたと思ったら――」
隊長は頬杖をついて私を上から下まで眺めた。
「顔色は悪い、目はきらきらしてる、どこからか魚の匂いがする」
「……風呂には入りましたけど」
「魂に染みついたようだな」
私は意味もなく袖をくんくん嗅いでから、用意してきた本題を切り出した。
「隊長。今日は巡回の前に、少し相談したいことがあります」
「相談?」
「法律相談です」
隊長の眉が興味深そうに上がった。彼は見ていた書類を脇へ押しやり、椅子の背もたれに体を預けた。話を聞く姿勢だった。この人の良いところを挙げるなら、こういうことを一度も面倒くさがったことがない、というところだ。
「言ってみろ」
「隊長はご結婚されてますか?」
どさっ、と、脇へ寄せておいた書類の山がちょうどそのとき床に落ちた。
「隊長?」
「……なんだ、興味があるのか」
隊長は散らばった紙を拾いながら会話を続けた。
「相談の内容に関わるので」
「してない」
「え?」
「結婚。してないと言ったんだ」
隊長は独身。覚えておく。
「では、結婚したあとに二重の所帯を持つことについては、どう思われますか?」
「なんだと?」
隊長は拾った書類をきれいに揃えて机に放りながら訊き返した。
「結婚後の、二重の所帯……」
訊き返してきた隊長にもう一度言い直そうとしたところで、隊長のほうが先に言葉を遮った。
「きみは私を何だと思っている?」
不快な色を隠しもせずに。
『いや、私はこの国の人たちの感覚をよく知らないので……』
「とにかくです」
私はばつが悪くなって、本格的に用件を切り出した。
「知り合いの縁談の話なんですが」
「もちろんそうだろうな」
「……」
「続けろ。『知り合い』の話」
一文目から鉤括弧が聞こえる口調だったが、無視することにした。
「ある貴族の男がいます。夫人と結婚することで爵位を得た――つまり爵位はもともと夫人の家のものです。夫人は亡くなっていて、間に娘が一人います」
「ふむ」
「ところがこの男には、外に別の女と息子がいます。所帯を別に持っていて。それもかなり長く、かなり豪勢に」
「これはこれは」
「質問です。それ、罪になりますか?」
隊長はすぐには答えなかった。指で机を二度ほどとんとん叩いてから、間を置いて口を開いた。
「がっかりするだろうが――ならない」
「……ならないんですか?」
「罪じゃない。醜聞だ。夫人が生きているうちに婚姻誓約違反で問うならまだしも、死んだあとの別所帯には法が関与しない。貴族の男の妾と私生児なんてものは、まあ」
隊長は肩をすくめた。
「よくあるんだ。悲しいことに」
予想はしていた。二重の所帯だけで首を賭けられるほど、この世界が清潔なはずがない。私は頷いて、二つ目の質問に移った。
「では、これはどうですか」
「うん」
「その男が、その私生児の息子に――結婚で得たその爵位を継がせようとしているなら」
部屋の空気が変わった。
背もたれに預けていた隊長の体が、ゆっくりと起き上がった。悪戯っ気の引いた顔ではなかった。悪戯っ気はそのままあって、その下に別のものが点いた顔だった。
「……それは話が違うな」
「違いますか」
「まるで違う。別所帯は寝室の問題だが、そっちは国家の問題だ」
隊長は指先で制服の胸元の騎士団の紋章を、とん、と叩いた。
「爵位というのは個人の財産じゃない。皇室が家に貸している名前だ。だから継承は全部審査を通る。血統証明、嫡出証明、婚姻記録。書類が合ってはじめて判が押される」
「審査はどこでするんですか?」
「内務省」
「内務省、ですか」
「皇室内務省。爵位、世襲、魔法まで――あの界隈の所管だ」
「では、その男が息子に爵位を渡すには、内務省の審査を通らなければならないと」
「そうだ。そして平民の女の私生児がその審査を正直に通る方法は――」
隊長は指で丸を作った。
「ない。零だ。完璧にない」
「……『正直には』、ですか」
「察しがよくて助かる」
隊長はにやりと笑った。
「方法は結局、書類だ。亡くなった夫人が産んだ嫡子に仕立てるか、あとから入籍したことにして婚姻記録をいじるか。どちらにせよ偽造が要る。そして継承書類の偽造は――」
「偽造は?」
「重罪だ。ただの重罪じゃない、皇室の名前を盗む罪だ。捕まれば爵位剥奪に財産没収。本人はもちろん、書類に判を押してやった連中まで芋づる式に引っ張られる」
私は胸の内でその目録を書き取った。爵位剥奪。財産没収。関係者一括。
*完璧だな。*
「ただし」
隊長が人差し指を立てた。
「重要なことが一つある。書類が内務省に受理される前は――罪じゃない」
「……え?」
「計画は罪にならない。心の中で百回偽造しても無罪だ。罪は、その書類が受付窓口を通った瞬間に生まれる」
「……」
「だから、きみのその『知り合い』の娘がやるべきことは一つだろうな」
隊長は体を前に傾けた。机の上で指を組んで、私をまっすぐ見ながら。
「待って、受理される瞬間を捕まえること」
「……受理されるのを外からどうやって知るんですか」
「知れないな、普通は」
隊長は再び背もたれへ戻りながら、何でもないように付け足した。
「だが私は知れる。内務省に知り合いがいるからな」
「……治安隊の隊長が、内務省に」
「この俺は顔が広い」
顔が広い、で全部済むものなのか、それは。治安隊の管轄でもないと言っていた港の事情を知り尽くしているかと思えば、内務省の審査手続きを担当者みたいにすらすら諳んじるし。この人の『知り合い』のネットワークは、いったいどこまで及ぶのか。
……まあ、おかげで得るものが多いのだから、詮索はよそう。
「もう一つだけ」
「いくらでも」
「その爵位の……正当な継承権者は。夫人が産んだ娘です。そちらはどうなるんですか」
「どうなる、とは?」
「つまり、その娘が黙っていても爵位が来るのか、それとも――」
「ああ、それか」
隊長は大したことでもないというふうに答えた。
「母系継承は自動じゃない。本人が継承の意思を届け出てはじめて審査が開く。そして正当な継承権者の届け出は――」
彼は人差し指と中指を重ねてみせた。
「他のすべての届け出に優先する。偽造書類の類が列を作っていても、本物が来ればその列が丸ごと無効になるんだ」
「……」
「もっとも、その娘はそんな手続きがあることも知らんだろうがな。普通は知らない。父親が教えないから」
私はしばらく言葉を失った。
私が訊きに来たのは、男爵の首にかける縄だった。それなのにこの人は縄を渡しながら、その横に鍵まで、そっと置いてくれた。娘が先に届け出れば勝つ。男爵を捕まえることとは別に、イビー・ブレアがブレアになれる。
独立の足場。それも完全に合法的な。
「……相談料はおいくらですか」
「相談料?」
隊長はからからと笑った。
「巡回でも回れ。今日は西側だ」
---
巡回を終えて別れる頃だった。詰所の前で、隊長が不意に言った。
「エヴァン」
「はい」
「次は『知り合い』じゃなく、本人の話で来てもいいぞ」
「……知り合いの話だと言ってるじゃないですか」
「ああ、そうだな。知り合いの話」
隊長は手をひらひら振りながら詰所へ入っていってしまった。私はその背中に何か言い返そうとして、やめた。あの人はどこまで知っているんだろう。茶葉のときから? 港の話を訊き出したときから? それとも最初の、留置場のときから?
分からない。ただ一つだけはっきりしていた。あの人は知っていて、詮索しない。私がアンにそうするように。
……それは少し、ありがたいことだった。




