23
呼子の音が完全に遠ざかったあとも、私たちはしばらく空の木箱の山の裏に潜り込んでいた。追跡が魚市場をあきらめて埠頭のほうへ流れていったのを確かめてから、ようやく私はアンの袖を引いて身を起こした。
「……行こう。ここに長くいちゃだめ」
荷車が出る辻までは、大通りを避けて回らなければならなかった。私たちは魚市場の裏手の細い路地を選び、壁に沿って歩いた。夜の港は首都とは違う感じで人が多かった。危なかったが、紛れ込むにはよかった。
そうやって人混みをかき分けていたときだった。
「まあまあ、そう言わずに」
「……いえ。結構です」
騒音の合間に割り込んできた押し問答に、思わず顔が向いた。
頭巾をかぶった年若い娘が、片手に籠を持ち、もう片方の手を男に掴まれていた。私と同じくらいの年頃だった。男は薄い口髭を生やした中年で、店じまいのこの路地にはまるで似合わない、濃い紫の正装を着込んでいた。生地からして『私は貴族だ』と光っている装いだった。
どうしようか、と思っているうちに娘が手を振り払って、小走りに逃げていった。
「おい! 今、間違いを犯しているぞ。これがどんな機会か、私を誰だと思って!」
遠ざかる背中に向かって見苦しく叫んだ男は、ひとりで何かぶつぶつ言ってから、広い通りに停めてあった馬車へ歩いていった。
灯りに照らされた馬車の扉の紋章が目に入った。
「……あ、あれ」
書斎の系譜で見た紋章だった。盾に鳥が二羽止まっている形。
「……私の婚約者っぽいんだけど」
「……え?」
隣でアンが訊き返した。今まで聞いたアンの声の中でいちばん上ずった声だった。私と同じものを見ていたらしい。
アンを見ると、フードの陰に驚いた顔があった。
声を整えて、もう一度訊いてくる。
「……本当に?」
ウォルター・プリチャード。男爵が取ってきた私の縁談相手。系譜で母や父と同じ列にいたのだから、年頃もあれくらいだろう。
「うん。たぶんそう。ウォルター・プリチャード」
アンの表情がぐしゃりと歪んだ。さっきまで娘に絡んでいたあの後ろ姿を睨む目が、静かに沈んでいた。
私だってあの人間は嫌だった。だが命を脅かす実体を二度も目撃したせいで、これ以上出す怒りが残っていなかった。ただため息が出るだけだった。それより、
こんな夜中に、こんなところで何をしているんだ?
「あんな男が結婚相手だなんて」
低く唸るアンの声が、耳慣れなかった。
アンは私を見ずに、馬車のほうだけを睨んだまま呟いた。
「……あんなやつと結婚するくらいなら、」
言葉がそこで一度つかえた。
「いっそ僕と――」
そしてアンは、自分の口から出た言葉に自分で驚いた顔になった。続きを飲み込んだまま、耳の先まで真っ赤になって、罪のないフードだけを深くかぶり直した。
「僕と、何?」
「……なんでもない」
私はふっと笑った。さっきまでのひどい気分が嘘みたいに、笑いが出た。
「もしかしてプロポーズ?」
からかうように見ると、アンは赤くなった顔で視線を逸らした。
「あ、あんな破廉恥よりは――」
そう抗議するように言いかけて、だんだん声が小さくなり、文を結べなかった。
「私は大歓迎だけど」
「……本当に?」
「うちの結婚式は公園でやるの? それとも湖のほとり? 司式はお月に任せて。私が遠くから走ってくればいいね。毎日走ってる公園だから、リハーサルはいらないな」
「か……からかわないで……」
うろたえる様子が面白くて、もっとからかおうとしてやめた。馬車の車輪が転がる音がした。プリチャードの紋章が人々の間を遠ざかっていた。
「行こう。荷車を逃す」
私はアンの背中を押して足を急がせた。背後で、アンがまだ何かもごもご言っている気配がしたが、振り返らなかった。
---
帰りの明け方の荷車の上で、私たちは無言だった。
魚の匂いももう何ともなかった。人は一日でもこうやって順応する。鉛にもそうやって順応したんだろうな、この体は。少しずつ、少しずつ、誰にも知られずに。
今回の尾行で、欠けていたパズルの断片が全部揃った。状況が良くないのは分かっていたが、推理するだけだった脅威の実体をこの目で確かめると、気分がもう一段沈んだ。娘を片づけようとする父親と、呪われた茶器と、忌々しい婚約者……
そのとき隣でごそごそと音がして、私の手のひらに何かが載せられた。
焼き栗だった。二日経ってすっかり冷めた、最後の一粒。
「……これ、ずっと持ってたの?」
「うん」
「食べなよ。あんたのだよ」
「……半分くれたじゃん。これはあんたの分」
私はしばらくその冷めた焼き栗を見下ろしてから、剥いて口に入れた。食べ物が入ると、かえって腹が減りはじめた。先送りにしていた疲れが一度に押し寄せた。
空が明るんできていた。私は噛みながら整理を始めた。
確証は掴んだ。呪いの正体、流通経路、洗浄の手口、そしてあの人間が私にくれた茶器の出どころまで。残るのは、あの商売をあの人間の首にかけてやる方法だ。呪いでは罪を問えない。この世界の法に鉛はないのだから。だが、
二重生活。そして結婚で得た爵位を、平民の息子に継がせようとする試み。
それは法にあるだろう。
ちょうど私には、そういうことを訊いても不自然じゃない職場がある。
「アン」
「うん」
「眠いでしょ」
「うん……」
「少し寝なよ。私が起きてる」
アンがフードの下で頷く気配がした。
荷車ががたごと揺れながら首都に入っていった。私は冷めた焼き栗の最後のかけらを飲み込んで、夜の職場に持ち込む相談事の目録を、頭の中で作りはじめた。




