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明け方の公園に着くと、アンはもう来ていた。


濃い灰色のローブを着てベンチに座り、膝の上に手をきちんと揃えていた。目立たない服を着ているのに、明け方の薄闇の中で金髪だけが灯りのように浮かんでいた。


「エヴァン、おはよう」


アンが先に私を見つけて挨拶をよこした。


「アン、あんたの髪」


「髪?」


アンは髪を撫でつけながら、自分の前髪を見ようとするみたいに目を上へ向けた。


「黄色い陽射しみたい」


思わず微笑ましくなって笑ってから、子どもの身支度を整えるみたいにフードをかぶせて直してやった。


「明るくて目立つから、今日はちゃんとかぶってようね」


「……」


アンは私の手を大人しく受け入れた。


「あ、それと」


私は懐から昨日の焼き栗を出して、半分に分けてやった。


「焼き栗だよ。こういうの、好き?」


「……うん」


「よかった。取っておいて、お腹すいたら食べよう」


出発だった。


---


計画は単純だった。馬車に追いつくのは人の脚では不可能だ。だから追わない。到着地で待つ。


男爵の行き先は港。ブレア商団の倉庫は埠頭の西の端、税関からいちばん遠い場所だった。出どころを明かせない夜の講義のおかげで、地図はすでに頭の中にあった。


港までは明け方の魚の荷車に乗せてもらった。硬貨二枚と、後ろの荷台に積まれた魚の木箱の間に挟まって行くという条件で。


「……」


「……」


アンがずっと顔をしかめているので、私から先に訊いた。


「アン」


「うん」


「匂い……ひどいね。でしょ」


「うん!」


アンは激しく共感すると、そのあと本当に何も言わなかったが、フードの陰で眉間がずっとかすかに寄っていた。私はあの表情を『苦痛を礼儀正しく耐える顔』に分類しておくことにした。


---


昼の港はまともな顔をしていた。


税関の前には旗が掲げられ、役人たちが書類を手に行き交い、荷役人夫たちの掛け声が規則正しく響いた。昼はまともな品が入ってくる、という講義のとおりだった。カモメまで真面目にうるさかった。


私たちは埠頭に沿って西へ歩いた。歩くほどに人が減った。税関の旗が親指の爪ほどになる頃、新築だとひと目で分かる倉庫群が現れた。


その中のいちばん端。いちばん大きく、いちばん新しい建物の扉の上に、天秤を描いた紋章が掲げられていた。


「あれ?」


「あれだよ。ブレア商団」


天秤とは。公正さの象徴を掲げておく厚かましさに、鼻で笑いが出た。


私たちは倉庫街の向かい、ロープの束と空の木箱が積まれた物陰に陣取った。座って待つのに都合がよく、いざとなれば三方向に抜けられる場所。アンが選んだ場所だった。


「……あんた、こういう場所を見つけるの上手だね?」


「そ、そうかな?」


「……見事」


アンは答えずに倉庫のほうを見た。見張りの顔だった。昨日まで猫を撫でていたやつと同じとは思えないほど、目が静かに沈んでいた。


待ちは二時間ほど続いた。


そして見覚えのある馬車が来た。


男爵は馬車を降りるなり、倉庫の扉を大きく開けさせた。中から人夫たちが木箱を運び出しはじめた。大きさの揃った、藁のはみ出た木箱。数を数える男爵の声がここまで聞こえた。機嫌のいいときの声だった。あの人間が屋敷で肉を切り分けるときに出していた声。


「船に積むのかな」


「……ちがう」


アンが小さく言った。


「船。反対のほうに行く」


当たりだった。木箱の一部は埠頭の船へ行ったが、男爵本人は荷降ろしが終わると、船ではない反対方向へ歩きはじめた。従者もなく、ひとりで。後ろ手を組んで、散歩するような足取りで。


私たちは目配せをして、影を伝って動いた。


男爵は港の裏手の路地に入っていった。倉庫街の物音が遠のき、洗濯物の干された路地に出た。干してあるにしては、どれもこれも古びた服だった。昼間なのに戸口に座り込んでいる男たちが多く、そのうち何人かが私たちを目で舐めた。首都ではこの時間にああして座っている人を見たことがなかった。


『ここは管理されていない通りだな。』


私が周囲をうかがいながら後をつけているあいだ、男爵の歩みには少しの迷いもなかった。道を知っている歩き方。いや、道が体に染みついた歩き方だった。


ほどなく、通ってきた家々とは比べものにならないほど上等な、二階建ての白い家が現れた。


『あれ、うちより三倍は大きいんだけど? 貴族がこんなところに住むはずもないし。』


そう思うのと同時に、男爵がその家の前で足を止めた。


窓枠に鉢植えが置かれ、玄関前の階段がぴかぴかに磨かれた、手入れの行き届いた家だった。男爵が扉を叩くより先に、扉が内側から開いた。


「お父さん!」


少年が駆け出してきた。


十歳くらいだろうか。頬がふっくらして血色がよく、よく食べてよく育った様子の子だった。少年は階段を二段飛ばしで駆け下りて、男爵の腹にそのまま抱きついた。その後ろから華やかなドレスを着た女が出てきて、戸口にもたれて笑った。


そして男爵が。


あの人間が、笑った。


フォークを投げつけたときの顔でもなく、目だけが笑っていた見舞いの顔でもなかった。目尻に皺が寄り、頬が押し上げられ、少年をひょいと抱き上げながら何か大声で笑う――私があの屋敷で一度も見たことのない顔だった。


「……」


思いもよらない光景に、一瞬、脳が停止した。


少年は男爵の首にぶら下がって明るい顔でしゃべり続け、男爵はしきりに頷いてやっていた。女が近づいて男爵の腕に手を置き、三人はそのまま家の中へ入っていった。扉が閉まった。仲睦まじい家庭の上に陽が降り注ぐ、絵のように団欒とした光景だった。


「……… は!」


呆れた感嘆が漏れ出た。


ぱさり。


音がして見下ろすと、足元の乾いた藁が、踏んでもいないのに倒れていた。指先で空気が細かく震えていた。マナが漏れていた。無意識に。


「エヴァン」


アンが私の袖を軽く掴んだ。


その感触で我に返り、ふと見ると、私の周りに渦を巻くような荒々しい風が吹いていた。アンのフードも裾も大きくはためいていた。


私は目を閉じて深呼吸をし、四方にごうごうと回っていたマナを引き戻した。


「……ありがと、アン。落ち着いた」


本当だった。アンのおかげで頭が冷えた。


考えてみれば、これはイビーの怒りだ。私がそこまで怒る理由はないじゃないか。


アンはまだ袖を掴んでいた。フードの陰から、あのエメラルド色の目が私をうかがっていた。おろおろと怒りが半々に混じった、どうしていいか分からない顔で。


「あの男が……つまり」


「うん。あの人間がうちの父親だよ。ブレア男爵」


「……」


*良い器で飲んでこそ、薬もよく効くというものだ。*


新しい茶器を差し出したときの声が耳元で再生された。あのとき、あの人間は目だけで笑っていたのに、さっきあの扉の前では顔全体で笑っていた。同じ筋肉であんなに違う表情が作れるんだな。役者でもおやりになったら、お父様。


けれど、笑えないことが一つあった。あの顔を見て腹が立つのとは別に、計算がどうにも合わなかった。


母は亡くなった。だからあの家があること自体は、百歩譲れば理解できない話でもない。私をここの半分にも満たない古い家に押し込めておいて、自分はここで新しい家族をこまめに世話していたというのも、卑劣だが計算は合う。


合わないのはその先だ。


あの家を守るのが目的なら、私はただ放っておけばいい相手だ。招待状を燃やす理由も、人と切り離す理由も、よりによってプリチャードのようなところを選んで嫁がせる理由もない。私はあの家にいてもいなくても同じ娘だったのだから。


それなのにあの人間は私を片づけたがっている。それもかなり急いで。


嫁がせるにせよ、病んで寝つくにせよ。どうせならよその家で死んでくれれば、手を汚さず綺麗に済む。


「……なぜ」


私はもう一度その家を見た。


窓という窓にガラスが嵌まっていた。来る道で通り過ぎた家々は、窓と呼ぶことすらできない、板を打ちつけただけのところが大半だったのに。


カーテンの向こうを影が通った。一つ、二つ。そしてもう一つの人影が、盆のようなものを持って通り過ぎた。三人家族が住む家に、人が四人いた。


半分開いた窓から、女の声が切れ切れに漏れてきた。何を言っているかは聞き取れなかったが、子どもを呼ぶ箇所だけがやけにはっきりしていた。


坊っちゃま。


隠す家ではなかった。育てる家だった。


隠した子どもに使用人をつけて、坊っちゃまと呼ばせて育てる。何のために。


「……あの家」


声に出して訊いたわけではなかったのに、隣から答えが返ってきた。


「ああやって育てるのは、あとでどこかに出す子だよ」


私はアンを振り返ってから、また白い家を見た。


どこに出すのか。


ブレアには出す席が一つある。書斎の系譜で見た一行。爵位は母のほうから来た。結婚で借りて使っている他人の名前だから、あの人間のものではないもの。


そしてその名前の次の持ち主は、私だった。


私はアンを見た。


「あんた、そういうのどうして分かるの?」


「……なんとなく」


なんとなく、と言った。よその家の窓ひとつ見て、その家が何を用意している家か分かることが『なんとなく』な世界で育ったやつだった。


それ以上訊かなかった。訊かないのが特技だから。


「隠しておいた妻子。そのうえ、あの家で大事に育ててる息子まで。思いがけない大物だね」


「……最低だよ、あんたの父親」


アンがついにブレア男爵への評価を下した。


「うん。この前は『本当にひどい』だったのに、昇格したの?」


冗談で返したが、アンは真剣だった。


私はふっと笑って、白い家から視線を外した。鑑賞は終わり。ここで確かめることは全部確かめた。


「男爵はもうすぐ船に乗りに出てくる。見送りまで確認したら――」


私は倉庫街のほうを振り返った。


「私たちは夜まで待つ」


「……夜に何かあるの?」


「夜に入ってくる品が別にあるんだって」


税関からいちばん遠い倉庫。夜の荷降ろし。口の重い人夫たち。


あの人間の笑う顔は今日で十分見たから、次はあの人間の商売を見る番だった。

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