↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/37

20

夜の詰所に着くと、隊長は書類に埋もれていて、その横にロビン卿が立っていた。


「こんばんは」


「ああ、いらっしゃい、エヴァン」


書類でヘンリーの顔が見えなかったが、私と挨拶を交わしたロビン卿が、ひょいと書類をヘンリーの顔の横へどけてくれた。ヘンリーは頬杖をついて、たった一枚をにらんでいた。


「……来たか、エヴァン」


ヘンリーは完全にいつもの隊長に戻っていた。


「お忙しそうですね」


「忙しいんじゃない。煩わしいんだ」


彼は見ていた書類を裏返して、山のいちばん下に突っ込んだ。ロビン卿がそれを不服そうに見ていたが、何も言わなかった。


「今日は巡回だ。東側」


「承知しました」


フードをかぶって出ていく隊長の後を追った。


---


夜の商店街は今日も盛業中だった。灯り、客引きの声、揚げ物の匂い。隊長はその間を自分の家の前庭みたいに歩いた。商人たちが目礼してくると、大げさに手を振り返しながら。


作戦開始は二本目の路地だった。


「隊長」


「なんだ」


「私、助手になってしばらく経ちますが、まだ首都の地理をよく知りません」


「……なに?」


「区域ごとに教えてください。助手教育の一環として」


隊長が歩調をゆるめて私を見下ろした。疑い半分、そして――隠す気もない浮かれ半分。


「急にどうした、その向学心は」


「この前、隊長がおっしゃったじゃないですか。助手たるもの道をよく知らねばならん、と」


「俺がそんなことを言ったか?」


「言いました」


言っていない。だがいかにも言いそうなことだったし、ヘンリーは自分が言いそうなことを否定しない隊長だった。


「……ふむ。まあ、いいだろう。よく聞け、エヴァン。この俺の首都講義は金を積んでも聞けんぞ」


かかった。


彼の講義は実際に見事だった。東の商店街の細い路地、西の貴族街の巡回の空白、南の市場が昼と夜で見せる別々の顔。どこでスリが出て、どこで酔っぱらいがひっくり返るかまで。私は真面目な生徒らしく頷きながら、本題を出せる場所を待った。


「じゃあ、港のほうは?」


講義が南で終わりかける頃、私はちょうど思い出したというふうに訊いた。


「首都の西側で、海にも面してるじゃないですか」


「ふむ。あそこは首都じゃない」


「首都じゃなくても巡回するんですか?」


「いや」


隊長は制服の胸元にある騎士団の紋章を、指先でとん、と叩いた。


「そこまでは遠すぎる。何より港は管轄が違う。港湾庁と税関の所管だ。俺たちは手を出さん」


「そうですか」


続く講義が南の端に差しかかった頃、路地の入口から栗を焼く匂いがした。


「……食いたいのか?」


「え?」


振り返ると隊長が私を見ていた。私はそこでようやく、自分が歩調をゆるめていたことに気づいた。


「主人、焼き栗を一人前くれ」


「食べたいなんて言ってませんけど」


「助手がよだれを垂らして見てるのを見過ごすほど、俺は薄情な男じゃないんでな」


代金はすでに払われたあとだった。


『私がいつよだれを垂らしたって……!』反論しようとしたが、栗の焼ける匂いが押し寄せてくると、気持ちがふわりとほどけた。


「んんっ、まあ。買ってくださるのなら、ありがたくいただきます」


「すぐできますよ、旦那方」


火鉢の前に立つ主人は背が曲がっていた。近くで見ると老人というには早い、苦労を重ねたらしい皺の刻まれた男だった。片脚を火鉢の横の木箱に載せ、無事なほうの脚だけで体を支えながら栗を返していた。


「脚がお悪いんですか」


私が訊いた。隊長がちらりと私を見た。助手はおせっかいだな、という目だった。


「ああ、これですか」


主人は何でもなさそうに脚をぽんと叩いた。


「昔、港でもらったもんでね。荷を運んでて」


「港ですか?」


「あそこで十年ばかり転がりましたよ。海っぱたの埠頭でね」


主人は栗の皮がむきやすいように切れ目を入れながら言った。手つきは慣れていた。長く別のことをしていた手が、新しい仕事に馴染んだ様子だった。


「夜仕事が多くてね。昼より夜のほうが船が入ってきたから」


「夜に?」


「暗いうちに着ける船ってのが、別にあるんでさ」


主人は言いかけてやめ、路地の向こうを通り過ぎる人をちらと見た。ただの酔っぱらいだった。それなのに、その酔っぱらいが完全に通り過ぎるまで、主人は栗だけを返していた。


酔っぱらいが消えると、主人はまた口を開いた。


「……まあ、昔の話ですよ。ああいう仕事は、もともと口が重くないと長く続かんとこでね」


私はいまの短い沈黙を見た。口が重いとはどういうことか、この人がいま体で示してみせた。通りすがりの酔っぱらいひとりにも言葉を切る癖。十年そう生きれば体に染みつく。


「……もしや、荷に潰されたんですか?」


「潰されたんじゃなく。夜だから足元が見えなくてね」


主人は紙袋を出して栗を詰めてくれた。


「暗いから夜仕事をするんだが、暗いから怪我もする。おかしいでしょう」


私は包まれた栗の袋を受け取りながら、ぺこりと頭を下げた。


「お気をつけなさいよ。夜ってのは誰の味方もしませんからね」


私たちは屋台を離れた。隊長はしばらく何も言わなかった。私は温かい包みを懐に入れながら、通りすがりのように訊いた。


「……港って、もともとああいうところなんですか?」


「どういうところだ」


「夜のほうが船が入って。口が重くないといけなくて」


隊長は栗をひとつ剥きながら歩いた。


「あの人が出た頃より増しになってるならともかく、減っちゃいないだろうな」


私は頭の中の地図に港を広げた。書斎で覚えてきた首都の地図。埠頭が三つ、税関の建物がひとつ、その裏に倉庫街が――


「倉庫街はどちら側ですか? 税関の裏手だと聞いていますが」


「税関の裏?」


隊長がふっと笑った。


「あの倉庫街は五年前に丸ごと焼けた。今は埠頭の西の端に新しく建てたぞ。税関からいちばん遠い場所にな」


「……」


私が眉をひそめると、隊長は手にしていた剥き栗を私の口にぽいと入れた。


「税関の裏に倉庫を置く時代は終わったってことだ。近ごろの商団は、税関から遠いほど好むからな」


五年前に焼けた。私は胸の内で書斎の本たちに向かってため息をついた。この家の書斎は、衣装棚と事情が似ている。あるにはあるが、全部ひと時代前のもの。


「……エヴァン」


「はい」


「お前はいったい、いつの時代の地図を見て歩いてるんだ?」


「古い本で勉強したので」


「本も人と同じように古びる、と覚えておいたほうがいいな」


隊長はそれだけ言って流した。だが私は知っていた。この人はこういうものを一つひとつ拾って、頭のどこかに積んでおく。


「ところで商団というのは」


私はさりげなく話題を移した。


「貴族が直接やることもあるんですか?」


「あるさ。大っぴらにやると格好がつかんから、たいていは名前だけ掲げて人を使うがな」


「そういう商団は多いんですか?」


「そこそこな。有名どころだけで幾つあるか――」


隊長は指を折った。子爵家の名前がふたつばかり、伯爵家がひとつ。そして。


「ああ、ブレア商団もあるな。男爵家のくせに規模は子爵級だ。陶磁器に茶に、雑貨まで。ここ数年でぐっと大きくなった」


来た。


私は表情の筋肉を一つも動かさないことに全神経を注いだ。


「男爵家がですか? すごいですね」


「すごいといえばすごいがな」


隊長は肩をすくめた。


「港の連中の評判は少し割れてる。賃金は気前よく出すが、夜の荷降ろしが多くて、人夫たちの口が重いそうだ」


「口が重いというのは」


「重くさせた、ってことだ、たいていは」


「……」


「まあ、夜の荷降ろしが即密輸とは限らん。潮の都合もある。ただ――」


隊長はそこで言葉を切って私を見た。悪戯っ気の引いた、珍しく平板な目だった。


「税関からいちばん遠い倉庫を、いちばん先に契約したのがブレア商団だ」


夜風が路地を通り過ぎた。


私はその情報を静かに飲み込んだ。埠頭の西の端。税関からいちばん遠い倉庫。夜の荷降ろし。口の重い人夫たち。必要なものは全部出た。尾行の経路が頭の中で勝手に描かれた。


「どうしてそんなことまでご存じなんですか? 管轄でもないのに」


「この俺は元々物知りなんだ」


もう慣れた、大げさな冗談口調だった。


「それに助手殿の個人授業に元手を惜しんでどうする」


巡回が終わる頃、私は懐から焼き栗を出した。まだ温もりが残っていた。


「召し上がりますか」


「いらん」


「では、失礼します」


「ああ、ご苦労」


背を向けて路地を半分ほど抜けたときだった。


「ああ、エヴァン」


私は振り返った。隊長は詰所のほうへ歩いていく姿勢のまま、首だけこちらへ向けていた。


「港は夜が危ない」


「……え?」


「怪我をするなよ」


それだけだった。隊長は手をひらひら振って行ってしまった。


私はその場にしばらく立っていた。


……気づいたのか? それとも講義の締めの一言か。あの人はそこが困る。冗談と警告が同じ顔で来る。


まあ、どちらにせよやることは同じだ。


明日の明け方、港だ。


私はフードをかぶり直して夜の中へ歩き出した。懐の焼き栗はまだ温かかった。アンと分けて食べよう、という考えが浮かんで、それが浮かんだ瞬間――明日あいつが隣にいるという事実が、あらためて心強くなった。


背中を見てくれる人がいる夜は、この世界で初めてだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。