19
いつもどおり明け方に公園へ向かった。けれど今日は、少し違う気分だった。
『アンが私を誘ってくれた。』
考えるほどに気分がよかった。アンとの距離が、昨日より一歩近づいた気がして。
いつも一定の距離を保っていた猫が、今日は自分から私のそばに来てくれたような。
当の本物の猫であるお月は、最初からそばを許してくれていたのだけれど。
軽い足取りで着くと、アンは入口のところで待っていた。お月を抱いたまま、誰が見ても人を待っている姿勢で。
「にゃあ」
腕に抱かれていたお月が先に迎えてくれた。
「おはよう。早く来てたんだね」
「あんたが遅れたんだよ。少し」
咎められたのかと思って謝ろうとした矢先、アンは体の向きを変えて歩きだした。
いつも座るベンチを通り過ぎて、公園の奥へ。私の運動コースにはない方向だった。
「そっち、道ないんじゃないの?」
「ある」
「どこに」
「……来れば分かる」
アンの確信ぶりに、私は黙ってついて歩いた。
草むらは思ったより深かった。
アンは暗がりの中でも一度もためらわなかった。どこで身をかがめるべきか、どの根が足に引っかかるか、全部知っている歩き方だった。枝をかき分けて通るときは、後ろへはね返らないように押さえて待っていてくれさえした。お月はいつのまにか彼の腕から下りて、先頭を歩いていた。尻尾を立てて、自分も道を知っているとでもいうように、よどみない動きで。
「この道、人が通るためにある道じゃなさそうだけど」
「……人はあんまり通らない」
「あんたは通うじゃん」
「…………」
答えがないところを見ると、自分が人のうちに入るのかどうか、少し悩んでいるらしかった。
どれくらい歩いただろう。ふと、木々の合間で空気が変わった。
水の匂いがした。
もう一歩進むと草むらが終わり、視界がぱっと開けた。
その先に、湖があった。
「……」
湖は広かった。向こう岸が薄闇に沈んでよく見えないほどに。空にはまだ明け方の月が残っていて、その光が水面の上へ丸ごと注がれていた。風が通り過ぎるたび、水の表面が細かく立ち上がり、砕けた銀色が端から端まできらめいて揺れた。
幾千もの光が、いっせいに息をしているようだった。
私は長く生きた。数えきれないほどの風景を見てきて、だからたいていのものには感興が鈍って久しい。それなのに足が止まった。頭より先に、足が。
「……きれい」
思ったことがそのまま口から出た。アンの前だとどうも濾過機能が死ぬ。悪態にしろ、こういうのにしろ。
振り返ると、アンは湖ではなく私を見ていた。私の反応を確かめる目だった。
「……気に入った?」
「うん」
アンの肩から力が抜けるのが見えた。
緊張してたのか、こいつ。
アンは水際のほうへ歩いていくと、倒れた丸太の前で止まった。長く座って、つるつるになった場所があった。ひとり分だけ。彼はしばらくそこを見下ろしてから、少し横へずれて座った。もうひとり分を空けておくやり方で。
私はその隣に座った。お月が当然のように私たちのあいだに陣取った。
しばらく誰も口をきかなかった。水がきらめき、風が通り過ぎ、ときおりお月があくびをした。それだけだったのに、不思議と足りないものがなかった。
「ここ」
沈黙を先に破ったのはアンだった。
「……僕しか知らない」
「そんな感じだったよ。道からして」
「うん」
「お月と会ったのがここ? この前、湖で会ったって言ってたじゃん」
「そう」
「ここ、いつ最初に見つけたの?」
アンはすぐには答えなかった。水面の上の光を見ながら、ずいぶん経ってからとぎれとぎれに言った。
「……家にいたくない日。歩いてて」
「そういう日が多かったんだね。道が全部覚えられるくらいなら」
「…………」
問い詰めたわけではなかった。ただ何気なく言っただけだったのに、アンは膝の上の自分の手を見下ろすと、家の決まりを暗唱するような平たい声で言った。
「家にお客が来る日は、部屋から出ちゃいけないんだ」
「……」
「そういう日に来る。ここに」
それだけだった。アンはそれ以上説明しなかったし、私もそれ以上訊かなかった。
ただ胸の内で思った。客が来ると部屋から出てはいけない子。この前こいつが言った『親と仲が良くない』という文の輪郭が、ほんの少し見えた気がした。
「いいところだね」
私が言うと、アンが私を見た。
「人がいなくて。静かで。水がきらきらしてて」
「……うん」
「猫のお客もいるし」
「……お月はお客じゃない」
「じゃあ何なの」
「……住人」
住人。私は笑いが漏れた。その瞬間だった。
お月が顔を上げた。
音はなかった。本当に何の音もしなかったのに、猫が先に気づいて、その次にアンが空を見て、最後に私が見た。
鳥だった。
向こう岸の薄闇から滑るように飛んでくる鳥は、銀色の羽根で光を撒いていた。
羽根の一枚一枚が、月光をそのまま削って作ったようだった。翼を広げるたびに光が流れ落ちた。鳥だと分かっているのに、鳥と呼ぶのが妙だった。私の知るどんな名前も当てはまらない生き物だった。
鳥は音もなく、水面近くへ降りるように滑空した。翼の先が水をかすめるかかすめないかで通り過ぎると、銀色の波紋が長く引かれた。月光の上に月光が重なるようだった。
「……」
「……」
私たちは二人とも息を殺していた。お月でさえ身じろぎしなかった。鳥を見ても尻尾ひとつ動かさない猫は初めて見た。
鳥は湖の真ん中あたりでゆっくりと旋回した。そして、こちらを見た。
『見た』というのは錯覚かもしれない。あの距離で鳥の視線なんて見えるはずがない。それなのに、
ひどく古い何かがかすめて過ぎていく感じがした。記憶というには霞んでいて、予感というには古びた何かが。
鳥は翼を大きくひと打ちして、明るんでくる空のほうへ舞い上がった。明け方と月光の境目のどこかへ。目で追っているのに、ある瞬間からは見えなくなった。
水面の波紋がすっかり収まるまで、私たちは無言だった。
「……あれ」
先に口を開いたのは私だった。
「何なの?」
「知らない」
アンの答えは簡潔だった。
「知らないって?」
「うん。たまに来る。僕が一人でいるとき」
「……名前も知らないの?」
「本にも載ってなかった」
本で探してはみた、という話だ。私は鳥の消えた空のあたりをもう一度見た。長く生きた身だ。たいていの獣は、どこかの生で見たことがある。あれはなかった。
「……来るかな、と思ってた」
アンが小さく言った。
「来たね」
その言葉に、私はアンを見た。つまりこいつは、湖だけじゃなく、あの鳥まで見せたかったのだ。来るか来ないかも分からないものを賭けて。
「見せたかった」
「鳥を?」
「……全部」
全部。湖も、光も、鳥も、住人である猫も。
空が薄まっていた。明け方の月が淡くなると、水面の銀色も少しずつ引いていって、湖はゆっくりと、ただの薄明かりの中の湖になっていった。魔法が解ける時間だった。認識歪曲が解けるときと似てるな、と私は思った。一時間半きりの魔法。この湖の魔法も、明け方のひとときだけ有効らしかった。
「行こう。日が昇る」
私が立ち上がると、お月が先に伸びをした。アンも続いて立った。来た道を辿り直して歩いていると、背中のほうからアンが言った。
「……また来てもいいよ」
「本当?」
嬉しい声で訊き返すと、アンが頷いた。
「明後日、仕事が終わったら来るのはどう? 無事に行ってきた記念に」
「いいね」
公園の入口で別れながら、私は胸の内で予定を整理した。
港までは二日。その前に、夜のうちに知っておくべきことがあった。港の地理、治安、そして「ブレア商団」という名前がその界隈でどう呼ばれているか。ちょうど、そういうことを訊いても不自然じゃない職場が私にはある。
うちの隊長が無駄に勘が鋭いのが心配ではあるけど……
仕方ないか。
屋敷へ戻る道すがら、不思議とあの銀色の鳥が目に焼きついて離れなかった。かすかだった、あの視線のひとすじも。
気のせいかな。私はそう片づけて、病人の顔をかぶり直し、塀を越えた。




