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イビ・ブレア。
それが私の名前なのだという。
そう教えてくれた侍女のメリーは、茶色の髪に緑の瞳をした十七歳の少女だった。
ブレア男爵家で働いて二年目だという。最初の数日間、私はメリーと言葉を交わしながら、この家とこの生について情報を少しずつ積み上げていった。メリーはなかなかのおしゃべりだった。
もちろん、私はそれを短所だとは思わない。口数の多い人間は情報をくれる。うまく誘導さえすれば。
ただ、ブレア男爵に関してだけは、貝のように口を閉ざした。
「私ごときが男爵様について、めったなことを申せましょうか」
それがメリーの最終的な答えだった。褒めるところのない人間については何も言わない方を選ぶ、それなりに不器用なほど正直な子だった。その点さえ除けば話はよく通じる方だったので、私はメリーを気に入っていた。
ブレア男爵家は、名ばかりの貴族だった。庭はカーペットを四、五枚も敷けば覆い尽くせるほどの広さで、片隅には錆びた噴水がひとつ、居心地悪そうに立っていた。建物は小さく古びていたが、誰かが絶えず手入れをした跡は残っていた。使用人は三人に、専属侍女のメリーがひとり。これだけの少人数でこの状態を保っているのは、大いに評価に値した。
ひとつ驚いたのは、料理長の腕前が意外にも本格的だったことだ。
使用人の規模を考えれば過ぎた人材だったが、少なくとも食の待遇に関しては申し分のない家だった。
食事の時間は、一日のうちで最も満ち足りたひとときだった。
食堂に入ると、テーブルの上には焼きたてのパンとスープ、ビーフステーキ、そして新鮮な野菜をふんだんに混ぜたサラダまでもが、たっぷりと並んでいる。
私はよく整えられた食卓に満足し、その光景を目いっぱい堪能してから席につく。
そして食べる。
一生懸命に。
文字どおり、一生懸命に。
「……」
「……」
フォークを動かしている最中に視線を感じて顔を上げると、メリーが私を見ていて、少し離れたところでは使用人が二人、互いに顔色をうかがっていた。
『そろそろ私の姿にも慣れてもいい頃だと思うのだけれど』
私は口いっぱいに詰め込んだ肉を噛みしめながら、思い返した。
最初の食事は、今ほど豊かに並んではいなかった。
野菜とスープだけがぽつんと置かれているだけだったので、料理長に肉と卵を追加で頼み、そこでようやくまともなメインディッシュが出てきた。
私が皿をきれいに平らげたあとの使用人たちの表情は、なかなか見ものだった。
ただ一人、料理長だけは駆け出してきて、満面の笑みを浮かべた。
次の食事からは、待ってましたとばかりに、あれこれと手の込んだ美味しい料理を出してくるようになった。
『元々のイビは、今の私のようにはよく食べなかったのだろうか』
あとでメリーが言うには、イビはいつもスープと野菜を少しだけ食べて食事を終えていたという。
肉類にはほとんど手をつけず、お茶ばかり欠かさず飲んでいたと。
私はフォークを置いて、食堂を見回した。
確かに豪奢な家ではなかった。食堂は狭く、家具も簡素で、貴族の邸宅というよりは、暮らし向きのいい商人の家に近かった。
それなのに、食べ物だけは不足がなかった。
妙な話だ。
これほど豊かな食事にありつけるのに、どうしてこの体はこんなにも弱いのだろう。
私は細い手首を見下ろした。
腕も脚も触ってみるが、筋肉がほとんどない。
何日もきちんと食べ続けているのに、すぐに疲れてしまう。
どうして食事をとらなかったのだろう。そうするだけの理由があったのだろうか。
私は自問しながら、残ったパンを手に取った。
まだ分からない。
これからおいおい探っていけばいい。急ぐこともなかった。
新しい生で最初にすることは、いつも似通っている。周囲を観察し、人を見極め、情報を集める。
「メリー」
「はい、お嬢様?」
「この家に書斎はある?」
「あるにはありますけど、ほとんど使われていなくて……」
「見せて」
メリーは一瞬ためらってから、うなずいた。書斎は食堂の向かい、廊下の突き当たりにあった。小さく埃だらけの書斎に使える本は多くなかったが、ごく基礎的な歴史、地理、礼法、貴族の系譜くらいは学べそうだった。
私は一番古い本から抜き出した。
ここから始めればいい。
「メリー、朝食はこれから、ここで食べるわ」
「書斎でですか!?」
「ええ」
「それはちょっと……」
「サンドイッチみたいなもの、作ってもらえる? 手で持てるやつ」
「サンド……イッチ、ですか?」
メリーが初めて聞く言葉に首をかしげた。私は少し考えてから説明した。
「パン二枚のあいだに卵と野菜を挟んだもの。平べったくね」
「……やってみます」
半信半疑の顔つきだったが、メリーはとにかくやってみると言った。
さすがは優秀な侍女だ。
そうして私は書斎にこもり、集められる限りの情報をかき集めた。
メリーにあれこれ尋ねては抜けた情報を補い、夜には部屋で一人きりの鍛錬をすることもあった。
初日、指先にマナを集中させて炎を思い描いても、何の反応もなかった。何度か試したが、そのたびに実体化する直前でマナが霧散した。
うんうん唸った末に結局あきらめ、窓を開けて深く呼吸し、大気中のマナを感じることで締めくくった。
この体でマナを扱うには、まだ荷が重かった。イビの体は、魔法とは縁遠い生を送ってきたようだった。
新しい体でマナを扱うこと自体が容易でないうえに、筋肉がとりわけ言うことを聞かなかった。
魔法はさておくとしても、体力があまりにひどかった。少し歩いただけですぐに疲れ、一時間書斎に座っているだけでも腰が張った。
『これは運動しか手がない』
私は庭を見下ろしながら考えた。庭園どころか走る空間もない、文字どおりのただの庭だった。練武場のようなものがあれば最高だったが、ないものは仕方がない。外に出るしかなさそうだ。
「メリー」
「はい?」
「外に出たいのだけれど」
私の言葉に、メリーの表情がこわばった。
「お嬢様、お体もよくないのに、お出かけになっては……」
『やっぱり、止められると思っていた』
メリーの口から出た言葉は、さして意外ではなかった。予想どおりの反応だったからだ。
イビになってからしばらく観察した結果、イビの生活はひどく制限されていた。廊下を歩き回るだけでも、行き会う使用人はみな「お疲れではありませんか?」「お部屋に戻られてはいかがですか?」といった言葉をかけてきたし、外へ出ようとして扉に近づけば、大げさに騒ぎ立てて「さあ、お部屋に戻ってお休みください」と引き止めるのが常だった。まるで、体の弱さを口実に部屋から出さないようにしているかのように。
『だからこそ、誰にも見られないように外へ出なくては』
「分かってる、分かってる。それじゃあね」私は座り直しながら尋ねた。
「メリー、男の兄弟はいる? できれば弟がいい」
「……はい?」
「服を一着だけ借りたいの。平民の男の子の服で」
メリーが固まった。完全に。私はメリーがふたたび動き出すまで待った。長くはなかった。
「……どうして、ですか」
「着るため」
「……」
「貸してもらえる?」
メリーはしばらく私を見つめてから、とても長く、深いため息をついた。
「持ってきます」
やはり、優秀な侍女だ。
***
夜明け前の暗がり。誰もが眠りについている時間。
私はごそごそとメリーが持ってきた弟の服に着替え、長い髪が見えないように帽子の中へ結い込むと、目深にかぶって、こっそりと家を抜け出した。憑依してから初めて、息の詰まる家を抜け出したという解放感に、門をくぐったときには思わず歓声をあげそうになった。
早朝ならではのひんやりとした空気が、頬をかすめた。私は土の道を軽やかに歩きながらも、外に出た目的を忘れずに周囲を探った。地図はあらかじめ頭に入れておいたが、やはり細かな情報は自分の目で見なければ分からない。
私は気兼ねなく鍛錬できる場所を調べた。この作業には数日を要した。
***
数日、足を棒にして探し回った末に、気に入った場所を見つけた。村の外れに、打ち捨てられたような公園があったのだ。錆びついた遊具、古びたベンチ、生い茂った雑草。人の通った跡がほとんどなく、うってつけだった。
『ここなら良さそうだ』
広い空き地は土の地面が平らで、走るにもちょうどよかった。
私はこうして、この公園を早朝の運動場所に定めた。
それ以降、私はまじめに公園へ皆勤の判を押すように通いつめ、体力づくりを続けた。
私の一日は、次のようなものだ。
夜明け頃に空き地へ行き、二時間ほどストレッチと基礎体力訓練をする。
ある程度汗を流したら、遅くなりすぎないうちに屋敷へ戻る。
このとき、あらかじめ把握しておいた使用人の動線を避けて、誰にも気づかれずに部屋へ戻る。
服を着替え、メリーが呼びに来るまで眠る。そのあとは食事に散歩、書斎での読みふけり、夜のマナ・リハビリ、その他もろもろの規則正しい生活……。
そうして十日と、さらに三日が過ぎた。
単調な日々は退屈だったが、平和だった。
今すぐの生きる目的はないけれど、生きていればそのうち目的はできるものだ。
私は、自分に与えられたこの体で、充実した時間を過ごそうと努めた。
「健全な精神は健全な肉体に宿る!」
いつものように、明け方の空き地で運動をしていたときだった。
「ファイト」と気合いを入れながら、走り出す地点を目で見定めていたところだった。ところが。
「ん?」
走るべき道の真ん中に、何かがいた。暗くてよく見えず、目を細めたあと、その正体を確かめようと近づいた。
白い長毛種の猫だった。
猫は前足を無我夢中で舐めていたが、私の足音に気づくと「うにゃあ」と鳴いて近づいてきた。
私は思いがけない闖入者が嬉しくて、しゃがみ込み、人差し指を前に差し出して挨拶を求めた。
「こんにちは」
すると猫はくんくんと嗅ぎながら近寄り、差し出した手に頭をこすりつけて、挨拶に応えてくれた。
そのとき、私に向けられた声が聞こえた。
「……また来たな」
「……ん? 君が喋ったの?」
そんなはずはない。
私はゆっくりと顔を上げ、猫の背後の茂みを見つめた。
明け方の闇に潜んでいた影が動いた。
びっしりと茂った草木のあいだから、人影が一歩、二歩と近づいてくる。
土の道に出てきて、ようやくその姿が見て取れた。金色の巻き毛に、エメラルド色の瞳をした少年だった。
「僕が喋ったんだ」




