↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/38

17


明け方の公園に着くと、アンはいつもの場所に、いつもの姿勢で座って、お月を撫でていた。


私は何も言わずにその隣へ行き、どさりと腰を下ろした。


「……」


「……」


アンが撫でていた手を止めて、私を見た。お月も顔を上げて私を見た。人間ひとりと猫いっぴきが、まっ

たく同じ角度で私を観察した。


「……何かあった?」


私が口を開くより先に、アンが訊いてきた。


「なんで」


「顔が」


アンは自分の顔の前で、指をくるくると回して円を描いた。


「暗い。嵐が来る前みたい」


私は答える代わりに、持ってきたハンカチの包みを開いた。メリーに頼んだサンドイッチが四つ、きちん

と並んでいた。


「食べる?」


「……うん」


アンがサンドイッチを一つ受け取ると、お月がすかさず彼の膝の上に乗って、卵の匂いを嗅いだ。


猫と人が一緒にもぐもぐやりはじめた頃、私は切り出した。


「あのさ、昨日ね」


私も一つ手に取って、大きくひと口かじった。


もぐもぐ噛んで、飲み込んで、それから言った。


「うちのイカれた父親が。私に結婚しろって」


「ぶっ――!」


アンが噴き出した。


口に含んでいたパンと卵の破片が、明け方の空気の中へ壮烈に散っていった。お月が仰天して膝から飛び

降り、アンは拳で自分の胸を叩きながらむせた。


「ごほっ、ごほっ!」


思ったより大きな反応だった。驚くような報せではあるけど。


「アン、大丈夫?」


「あんた、ごほっ、結婚?」


「話は後で、まずむせたのをどうにかして」


私はアンの背をさすってやった。しばらく咳き込みつづけて、ようやく息を整えるまで。どうにか落ち着

いてみると、アンの目尻には涙まで滲んでいた。


「はあ……ごめん。びっくりして」


「そんなに驚いた?」


「……結婚?」


「うん」


「あんたが?」


「私が」


「誰と?」


「顔も知らない貴族の家と」


アンの眉間が、ごくゆっくりと狭まった。その顔のまま、彼は手に残ったサンドイッチの半分を見下ろす

と、とりあえず食べきった。噛みながら考えているらしかった。全部飲み込んだあとで彼が下した結論

は、簡潔だった。


「……嫌じゃないの?」


「うん。嫌」


それが号砲だった。


「はあ……いや、聞いてよ」


私は胸の内に飲み込んでいた考えを、次から次へとぶちまけた。


「私が病気だとするよ? だったら普通は『治ってから話そう』ってなるのが当たり前でしょ。なのにあの

人間、なんて言ったと思う? 病気なんだから世話してくれる夫が要るだろう、だって。夫って常備薬か何

か? 病気になったら処方してもらうの?」


「……」


「しかも相手の家はさらに上を行くの。私が物静かで病弱だから、かえっていいんだって。かえって! い

いって! 花嫁がゲホゲホやってるのが長所な家なんて、この世のどこにあるのよ」


「……」


「おまけに、自分は十日も家を空けて商売に出歩く人間のくせに、帰りに日取りを決めてくるんだって。

日取りを。決めて。くるって。品物の納品スケジュールを組むんじゃあるまいし」


続く私の愚痴を、アンは積極的に聞いてくれた。ときどき頷きながら、「うん」「ああ」「……ひどい

ね」と相槌まで打ってくれた。反応のいい壁だった。


私は用意してきた悪態を、もう一杯ぶちまけた。男爵の人相風体から口癖、食卓のマナー、フォーク投擲

の履歴まで。アンはフォークのくだりで目を大きく見開いた。


「……フォークを投げた? あんたに?」


「うん。耳のそばをびゅっと」


「……」


アンの表情が、今まで見たことのない形にこわばった。怒っているようでもあり、何かをぐっと抑え込ん

でいるようでもある顔。彼はしばらく黙っていたが、低く言った。


「……あんたの父親、本当にひどい」


「でしょ」


「うん。本当に最低」


私はなんだか少し笑いそうになった。この前はこのベンチでぼろぼろ泣いていたのに、今日は悪態をつい

ている。進歩なのか後退なのかは分からないけど、少なくとも胸の内はすっきりした。


「でも」


アンが慎重に訊いた。


「その家……どこか分かる?」


「けっこう高い貴族だって。プリチャードとか」


その瞬間、アンの手が止まった。


二つ目のサンドイッチへ伸ばしかけた手だった。ほんの一瞬だったが、私は見た。


「……なに。知ってるの?」


「……あそこは、噂がよくない」


「やっぱりね。家系図を見たら、いつも一世代下の女と結婚してるみたいなんだよね?」


「……」


アンは「おぞましい」という言葉をそのまま形にしたような表情をしていた。たぶん私の顔もあんなだろ

う。


彼は膝に戻ってきたお月の背を、意味もなく撫でながら、口を開いた。


「……大人たちが話してるの、聞いた」


「なんて言ってた?」


「何歳以下、花嫁募集。っていう手紙が、ほとんどすべての貴族家に送られたって」


「……」


「男の兄弟しかいない家にまで」


年若い花嫁を公募していたとは、まったく大した品位だ。


ふと、平民の少年が通りすがりに耳にできる類の話ではないだろうに、という考えがよぎった。貴族の家

の評判なんて、大人たちの応接間でしか行き交わないものだから。


やっぱりこいつ、どこかの家の子で間違いない。


『そらそうだ』と確信を流しながら、私は話の続きを付け足した。


「おまけに、病弱な花嫁を歓迎するんだって」


だんだん暗くなっていくアンの顔を鑑賞しながら、三つ目のサンドイッチを取った。


「それでね」


そして本題を切り出した。


「私、あの人間を尾行するの」


アンがまばたきした。


そう。私は「ブレア男爵」を尾行する。


家の中での役回り、父親ぶって時折家に立ち寄ってはイビーを圧してくる振る舞いは、もう十分に見た。


家の外ではどんな仮面をかぶって何をしているのか、確かめる番だ。


「うちの父親。怪しいことが、一つや二つじゃないんだよね」


私はアンに説明した。


「三日後に港へ行くって。船が入るんだって。十日は家を空けるらしいけど、その『商売』ってやつが何

なのか、この目で直接見てやるの」


「……」


「娘の結婚を品物の納品みたいに処理する人間が、どんな商売をしてるのか、気にならない?」


同意を求めるみたいにぽんと投げた問いに、アンは答えなかった。代わりに彼は、お月を膝から慎重に下

ろした。


そして私をまっすぐ見ると、予想外のことを言った。


「僕も行く」


「……え?」


「尾行。一緒に行く」


今度は私がまばたきする番だった。


「なんで?」


「危ないから」


危ないから一緒に行こう、なんて言われるとは、本当に予想もしなかった。よりにもよってアンが、お月

以外の何にも興味がないみたいに振る舞っていたアンが、同行を申し出るほど私を心配してくれるなん

て。


「大丈夫だよ、アン。私、こういうの得意なの」


「知ってる」


アンは頷いた。そして例のとぎれとぎれの話し方で、けれどはっきりと理由を挙げた。


「あんたが得意なのは知ってる。でも体力はまだいまいち。先週も、走ってる途中で休んでた」


「……見てたの」


「見てた。それに港はここから遠い。知らない場所だし。人も多い」


「……」


「二人で行けば、一人は見張れる」


反論できなかった。全部その通りだったからだ。とりわけ見張りのくだりは、痛いほど実用的だった。こ

の前、夜の街で五人に囲まれたのは、背後を見てくれる人がいなかったせいだ。


私は改めてアンを見た。猫ばかり撫でていたこの静かなやつの口から、見張りだのなんだのという言葉が

出てくるとは。


「……あんた、そういうのやったことある?」


「ない」


「なのに、なんでこんなに詳しいの」


「……本で読んだ」


怪しい答えだったが、流すことにした。どうせ私も、人に出どころを明かせない知識で生きている身だ。


「いいよ。一緒に行こう」


私が承諾すると、アンの表情が目に見えて明るくなった。分かりやすいやつ。その顔を見て、ふと この

前のことを思い出した。アン、アンとあだ名をつけてやったときも、ちょうどあの顔だった。


「三日後の明け方。ここで会って出発する。服は目立たないやつで」


「うん」


「……快く手伝ってくれて。ありがと」


アンがごくかすかに笑った。笑ったのか? 口の端がほんの少し動いた気もする。ともあれ、そんな感じだ

った。


話が終わると、空がそろそろ明るみはじめていた。私は残ったサンドイッチをアンのほうへ押しやって、

立ち上がる支度をした。ところが。


「あのさ」


アンが私を呼んだ。振り返ると、彼は視線を少し横へそらしたまま、もごもごしていた。


「うん?」


「……明日」


「明日?」


「明日の明け方も、ここに来る?」


「うん。なんで?」


アンは少し間を置いた。名前を訊いたときと同じくらい長く。そして言った。


「……見せたい場所があるんだ」


「見せたい場所?」


「うん」


「どこ」


「明日。来れば分かる」


それだけ残して、アンはお月を抱き上げると、茂みのほうへ歩いていった。逃げるのかと思うほど速い足

取りだった。


私はその後ろ姿を見ながら、残りのサンドイッチを口に放り込んだ。


見せたい場所、か。


アンが私に、自分のほうから先に何かを差し出してきたのは初めてだった。名前も、事情も、全部私が先

に訊いてやっと少しずつ出てくるやつだったのに。


「……」


噛んでいるうちに、不思議と、結婚の話でくしゃくしゃに歪んでいた胸の内が、少し伸びていた。


弟か妹ができたら、こんな気分だろうか。いや、数えきれない生のどこかには、弟か妹もいたのだろう。

記憶は霞んでも、この気分にはうっすら覚えがあった。


明日の明け方が、いつもより少し、ほんの少し待ち遠しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。